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明治六年(1873年)三月十四日
海軍大輔である勝海舟は長崎視察を名目に鹿児島に出発。俺は律を連れてその供をする。経費は海軍省持ちである。勅使として公家の西四辻とか言うのもついてきた。さらにここに政府の四等議官として復帰した海江田俊斎も。俺と俊斎は再会を喜び、律も久々に見る俊斎を歓迎した。
鹿児島に着いたのは二十一日。日本の端にある鹿児島までわずか七日。実に便利になったものである。
「うわぁ、新九郎さま。素晴らしき景色でござりますね」
「本当だねぇ」
「お律っちゃん、あれが桜島だ。薩摩隼人ってのはあの島のように何かありゃすぐ噴火しやがるだろ? 逆に北の奴らは辛抱強い。育ったところってのは大事なもんだ」
海舟がしたり顔でそんなことを言う。まあ確かにそうかもしれない。貧乏暮らしの長かった海舟は五十になった今でもどことなく貧乏くさい。
「桜島は薩摩ん誇りっじゃ。男っちゅうもんはあの島が如く生きねばならん」
言葉の通り、恐らく桜島より我慢の利かない俊斎は、何の反省の色もなく、律にあそこはああだ、薩摩ではあれがうまいとお国自慢に余念がなかった。
港のすぐそばに小高い山があり、そこに薩摩代々の居城、鶴丸城があった。出迎えに出た鹿児島県の県令、大山綱良が警護の兵を連れて現れる。この大山さん、かつて奥州鎮撫の下参謀として仙台で殺された世良修蔵と同役。人格者であるらしく、大山さんの方は追放処分で済んでいた。かつては西郷さんに並ぶ薩摩の若衆の兄貴分。俊斎はいろいろうるさい事ばかり言われた、と笑いながら言っていた。
「松坂さん、こん俊斎だけは本当にアホじゃ。此度の事とて吉之助らが必死で頭下げて回ったから復帰できたっちゅうのに」
「大山サァ、オイはなんも間違った事はしとらん! それを罪っちゅうなら甘んじて受けるしかなか。政治の都合だの藩閥の都合だの、東京じゃそげなこつばかり言いよっとじゃ」
この返答に大山さんは何か言いたげに口をもごもご動かしたが、あきらめたのか、はぁ、っとため息をついただけだった。
城の御殿に入り、奥には勅使の西四辻と海舟、それに俺と俊斎だけが通される。こちらは勅使を伴っているので上座に座り、久光公は下座で恭しく頭を下げた。
「島津中将久光でごわす」
短くそう挨拶し、そのあとは長々と勅を読み上げる西四辻。それが終わり、再び皆で頭を下げ、勅使西四辻は歓待の為席を外した。残りの面々は座を移し、こじんまりとした座敷で茶を供された。
「久光公よ。あんたもいい加減にしねえか。もう幕府はねえんだよ。あんたが潰しちまったろ? その幕府の体制を元に西郷が生意気だ、大久保は気に入らねえ、そう言っても始まらんめえ?」
「しかし、勝先生。オイはあ奴らにこげなこつは命じとらん。幕府を弱め、薩摩の威信を回復せよ、そういうたのに幕府はなくなり藩すらもなくなった。おかしか事じゃろ?」
「そういうのはよ、いったん勢いがついちまえば半端なところじゃ止まらねえ。いいかい? 事の大元は黒船騒ぎだ。あれでみんな世はこのままじゃいけねえ、外国にバカにされねえようにしなきゃならねえ。その為には幕府が邪魔で藩も邪魔。ついでに言えばオイラたち武士ってもんが一番邪魔だ。殿様なんてのはもう、昔の話になっちまったんだよ」
海舟にそう言われ、久光公はううむ、と腕を組んでうなりを上げた。
「久光公。老中だった板倉さまも、会津中将だった容保さまも今じゃ俺と一緒に大蔵省の小役人やってる。みんな変わった世を受け入れてるのにあんただけここで昔通りの殿様、それは虫が良すぎるんじゃない?」
「――松坂、ち言うたか? こういっては何だが板倉伊賀も会津中将も幕府について負けたとじゃ。オイは違う! オイは維新を成して勝ちを得たんじゃ!」
「ねえ、久光公? あんた、何と戦って、何に勝ったの?」
「決まっちょろうが! 幕府と戦って徳川に、関ヶ原以来の無念を果たしたとじゃ!」
そう言って久光公は畳をバンと拳で叩いた。
「なのに、なんでこげんなっとじゃ! 西郷も大久保もオイの家臣じゃ! なぜ!」
「久光公よ、そうじゃねえんだ。そりゃ最初はそうだったかもしれねえ。けどな、蓋を開けて見りゃ、維新ってのは鎌倉以来の武家政権、それと新しい世を望む連中との戦いだったんだよ。武士はいらねえ。帝の下に万民が平等に。あんたはいくさには勝ったかもしれねえがそうした世の流れに負けちまった。
――もう一度言うぜ? 殿様ってのはもうこの世にはいらねえ。それが維新の結末よ。だからあんたはおとなしく上京して、世の移り変わりをその目でしかと見なくちゃならねえ。
殿様なんてのはいなくても世は進む。鉄道は走り、道には馬車が。銀座なんてのは煉瓦造りの建物だらけ。江戸の頃とは別世界なんだよ」
ぐぅぅ、っとうずくまった久光公はボロボロと涙をこぼした。この人もすべてをわかって、そしてそれが認められないのかもしれない。でも、元はと言えばこの人が。そう思った俺は少し意地悪く言ってやる。
「久光公、あんたが勅使と江戸城に現れて佩刀したまま将軍に目通りした。そんなあんたが西郷さんや一蔵さんの無礼をとがめるってのはおかしな話さ。あんたはね、自らの手で武士ってもんを壊しちまった。そうだろ? 下が上を敬えなけりゃ武士なんてもんは成立しない。あんたは将軍をないがしろにした。だから家臣にないがしろにされるのも受け入れなきゃね」
「松坂サァ! そいは言いすぎじゃ!」
俊斎が俺の襟首をつかんだのでそのまま投げ飛ばしてやった。
「いいか! 俺は幕府の為に北海道まで行って戦った。武士は主家に忠義を尽くす。当たり前だろ? だがその結果が賊軍扱い。政府に出仕しても八等だ、九等だの扱いなんだよ! あんたは少なくともそんな扱いは受けてない。なのに何の文句があるってんだ!」
「そいは勝ち負けの結果じゃ!」
「ああん? ならこの場で久光公、あんたを斬れば俺の勝ち、そうだろ? 俊斎?」
「そいはダメじゃ!」
俺が俊斎ともみ合っていると海舟がはははっと鼻で笑って口を開いた。
「な、久光公、武士ってのは今の世にいらねえ。この二人を見りゃよくわかんだろ? 我慢が利かずに意地っ張りで、何かと言えば刀に手をかけやがる。あんたはこいつらと同じ、そうみられてんだよ」
「……いや、オイはそこまでひどくなか」
「何を言うとですか! 久光公! オイは主家の名誉ん為に!」
「そうだよ! 自分ばっかり!」
文句を言い立てる俺と俊斎の肩を久光公がぐっと抱き、わぁわぁと声を上げて泣いた。
「オイは武士じゃ! 薩摩ン武士じゃ! わからずやで堪えが利かんで、意地っ張りで! そいが世に合わんくなった。ただそいだけのことじゃ! じゃっどん、オイは武士が大好きじゃっで! 俊斎、それに松坂。おはんらと一緒じゃ!」
そう言われてなんとなく照れ臭くなった俺と俊斎は思わず顔を見合わせる。
「……お、俺は違うからね。ちゃんと大蔵省で働いてるし」
「お、オイもじゃ! 議官の仕事も大変じゃ。そっじゃろ? 松坂サァ」
「そうそう、俺たちは政府の一員だからね。古臭い武士は久光公だけだし」
「そっじゃ!」
自分ではいい話をした、そう思っていた久光公は涙を拭くと俺と俊斎を思い切りぶん殴った。
「まあ、よか。勝先生、おはんの説得、胸に染みもんした。オイが上京し、政府の為にできるこつがあるかを諮りもす」
「ああ、そうしてくれりゃみな助かる。あんたの判断、正しいと思うぜ」
海舟は深々と久光公に頭を下げた。
その夜は律も交えて久光公の歓待を受けた。久光公、それに俊斎のお国自慢はうざかったが料理は甘めの味付けであるものの何気にうまいものだった。律は嫌な顔もせず、二人のお国自慢に相槌を打っていた。
「松坂、おはんにはもったいなかよか妻じゃ!」
「本当じゃっで、こればかりはみんなが言うちょる。松坂サァにはできすぎた妻がおるっちな」
「ま、そうだな。お律っちゃんがいてくれなきゃこの新九郎は暇に任せてとんでもねえ悪さをしてたに違いねえ。何しろお律っちゃん、それに容保さまが見張っててすら近衛は二日でクビ、なんせあの西郷がキレたってんだから大したもんさ」
「ふふ、西郷にはいい気味じゃ。あいつ、わしに犬の一匹すら寄越さぬと大声でわめきおった」
「あ、それ、久光さま、西郷さんはね、犬の事になると人が変わるから。木戸ともそのことで喧嘩して、それからずっと仲悪いし」
「器量が無かとじゃ、吉之助サァは。おかしかとこでケチじゃっで」
「そうじゃのう、そっじゃ、知っとるか松坂、あ奴はな、名乗りを隆盛、としちょるんじゃが」
ああ、西郷隆盛、そういう名前だったね。確か。
「そいがな、あれは元々隆永っちゅう名なんじゃ」
「へえ、そうなんですか? ならなんで?」
「なんでも、役人が西郷の父の名乗りを間違って記して、本人もそれでよか、ち。その父の名が隆盛、そげなとこはおおらかなんに、犬のこつはうるさかぁ。あはは、変わった男じゃって」
「そっじゃ、弟の信吾も本当は隆興言う名じゃっど、役人が聞き間違えて従道ち記してそのまんまじゃ。西郷家はそげなとこがおかしか」
「あはは、マジで? そういや死んじゃった吉二郎さん、久光さまは知らないかもだけど、俊斎は知ってるよね?」
「ん、吉二郎サァはよか男じゃった。年が下のオイたちにも優しくて」
「名前だけは聞いたこつがある。して、そん吉二郎がどがいした?」
「これが、すっごく強いの。俺もね、腕には自信があるし、北海道じゃ俺の三倍くらいある熊にも勝ったけど、あの人には勝てなさそうだもん」
「ほう、おめえが勝てねえとは意外だな。健吉だって戦えばおめえには及ばねえ、そう言ってんのに」
「うん、実は越後の退きいくさでね、容保さまと死闘を繰り広げて結局勝負がつかなくて」
「はぁ? 何言ってんだ、おめえ、容保さまがいくさに?」
「海舟は知らないのか。実はね、容保さまって多分、天下最強だから」
そのあたりの事を皆に説明すると、一瞬驚いた顔になり、久光さまはすっごく苦い顔をした。
「その、松坂、実はな、オイは京にいるころ会津中将にきつく当たってしまって。オイのこつ恨んどらんよね?」
「あ、聞いたことある。久光さまにはぶつぶつ言われて大変だったって。そうそう、一蔵さん。あの人二条の城で容保さまに舐めたこと言って制裁されてるから。こう、バチンって弾かれて座敷から玄関まで滑っていったもん。気絶しなかったのは流石に薩摩隼人だなって感心した」
「……その、なんじゃ、松坂サァ、そんゴールドフィンガーっちゅうんは、大村さんの頭突きより?」
「あはは、話にならないよ。大村さんも中々だったけどね。容保さまは指で弾いた銭で五、六人ならまとめて殺せるから。俺も弟子入りして学んだけど全然だし」
それを聞いた久光さまは酒を煽り、いやな事を忘れるかのようにぐでんぐでんに酔っぱらって寝てしまった。
「さて、新九郎さま。南国の夜はまた趣が違って良いものですね」
律は性欲の強い女である。