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西国巡幸から戻った西郷さんは俺と聞多を逃がさんとばかりに長椅子に座らせてお茶を用意させる。そしてそのあとは愚痴、愚痴、愚痴だった。
「もう、ほんっと最低! あの田舎者!」
そうまで言い放つ西郷さん。その田舎者とは主筋に当たる島津久光。倒幕の実質的な主導者、と言っても過言ではない人だ。
だがその島津久光は今の政府に不満を持ち、巡幸に訪れた帝に政府の文句を書き連ねた14か条もの意見書を建白したと言う。
「もうね、オイさんたちの面目丸つぶれ。そりゃあね、久光さまがいたからこそ維新はなった。それは重々承知なの。だけどあーた、廃藩置県は気に入らん、自分が県令になれないのはおかしい、本来なら征夷大将軍なのに、って」
「征夷大将軍はともかく、他は何が不満なのさ? その久光さまは」
「自分を差し置いて家臣のオイさんや一蔵どんが国のかじ取りをしてるのが気に入らないの、あの人は。そりゃあね、好きか嫌いかでいったら大嫌いだけど、別にないがしろにしようって訳じゃないの。ちゃんと位階だって、オイさんたちより上にしないとまずいだろうって、従二位だし、オイさんたちだっていろいろ気を使ってる。なのに、廃藩置県は長州の陰謀だ、とか言い出しちゃって」
「えっと、西郷さん? 私たちは全くそんなつもりは」
「そうよね、井上さん、オイさんは全部知ってる。ちゃんと確認した上で署名してるもの。ほら、都城、あそこが鹿児島県から切り離された、それが気に入らないって。もうね、口を開けば文句しか言わないんだもん、あの人」
西郷さんの話ではそもそも島津久光は大嫌い。その理由はいろいろあるが、お由羅騒動と呼ばれたお家騒動が原因らしい。
お由羅と言うのは先々代、島津斉興の側室で久光の実の母。その兄の斉彬は正室の子。その正室が早くになくなると、側室のお由羅はわが子である久光に家を継がせたい、そう思った。そして家臣たちは開明的な斉彬を推す一派と保守的な久光を推す一派に別れ、一触即発。保守派の言い分は斉彬達の祖父、島津重豪がやはり開明的で、その進歩的な政治は薩摩の財政を圧迫した、斉彬が家を継げばまた同じことに、そんな理屈だった。
そしてなんやかんやあって幕府の介入を招き、当主であった斉興は強制的に隠居。筋目の正しい斉彬が後を継いだ。
この時に西郷さんの父親の上司も切腹、そして一蔵さんの父親は遠島、職も罷免。一蔵さんは食うに食われぬ状況になった、という訳だ。
「けどさあ、それって久光公のせいじゃなくね? 周りが担いだだけで」
「そのくらいオイさんだってわかってます! もうね、そういうの抜きにしても全部嫌いなの! 大体ですよ、あーた、久光さまは殿様でも何でもないの! 薩摩の当主は忠義公! それを差し置いて自分が殿様面よ?」
「まあね、そういうとこ、あるよね。前に勅使つれて家茂公に拝謁したとき佩刀したままだったんでしょ? すっごく気に入らなかったもん」
「そう、人の権威はないがしろにしておいて、自分はあがめてほしい。そう言う人なのよ! だからね、政府の参議となったオイさんも一蔵どんも未だに家臣扱い。自分が一声かければなんとでもなる、そう思ってんの。もうね、そういう時代じゃないってのに」
「まあ、しかしアレですわ。殿様たちとしちゃ、そういう気持ちの一つも持つのはわかりますわな」
「うん、けどね、普通はそういうことは口にしない。毛利様だってそうでしょ?」
「うちの殿様は元からそんな感じでしたわ。伊達にそうせい公、なんて呼ばれてませんって。ま、それでも私は好きですけどね、うちの殿様」
「オイさんだって好きよ? 斉彬さまも今の忠義さまも。久光さまは殿様じゃないもの。それでね、オイさんどうしても許せないことがあって」
「どうしたの?」
「新さんは見たよね、オイさんのとこの子」
「ああ、あの可愛い犬?」
「そう、久光さまがさ、わしも一匹買ってやるから寄越せって。もうね、頭の中真っ白になっちゃって、わーわー文句言っちゃったもん」
あらら。西郷さんの犬がいなければこの国の問題の半分ぐらいが片付きそうな気がする。木戸ともそれが原因で喧嘩してるし。傾国の美女ならぬ犬、か。ははは。
しばらくそんな感じで愚痴が続き、最後にぼつり、と、とんでもない事を言い出した。
「それでね、今日からはオイさんが陸軍の元帥、それと近衛の都督もやることになったの」
「「はぁ?」」
「山県さん、後ろ暗い事があるって辞表出しちゃって。ま、その一件じゃうちの半次郎たちも騒いでたし、潮時かなってね。一時的なものですよ、一時的な。陸軍大輔はそのまま続けてもらうし。形だけみそぎをって」
「あいつ、なにやってんだ! せっかく俺たちがおぜん立てしてやったってのに!」
「狂介もバカだねー。昔からバカだと思ってたけど」
「もう、そう言ったらかわいそうでしょ? 山県さんはね、この国に必要な人なの。時期を見てオイさんが元に戻すから」
山県は陸軍中将と近衛都督を辞任、山城屋の一件で内部、特に桐野を中心とした薩摩閥の反感に耐えかねたらしい。
「けどねえ、山県さんの言う事ももっともなのよ。陸軍には金が必要、政府にその金がないなら利殖して増やすべきって。そりゃ公金勝手に貸し付けて焦げ付かせたのは悪い事よ? だけどね、金がなきゃ何もできないのは事実だもん。だからいったん辞職、それで全部終わりってね」
西郷さん、こういうとこ結構あいまい。まあ、昔から正義の人って訳じゃなかったけど。
「んじゃ陸軍は当面西郷さんがって事ですか?」
「まあね、ほとぼりが冷めるまでは仕方ないよ」
ようやく西郷さんの愚痴から解放され、東京城を後にする。聞多は仕事があるらしくそのまま大蔵省に。俺は適当な店で昼飯を済ませ、文句の一つでも言ってやろうと陸軍省に山県を訪ねた。
「山県閣下はご多忙である。取り次ぐので姓名と官職を名乗られよ」
応対に出たのは若い士官。なんでこんな奴に、そう思った俺は人の名を聞くならまずお前が名乗れ、と言ってやった。
「自分は東京鎮台第3分営大弐心得、乃木少佐である」
少佐、少佐と言えば六等官。七等官である俺よりも格上だ。こんな若僧が? なんの手柄で?
「俺は大蔵省の松坂、山県閣下に用がある。取り次いでくれ」
四十歳の年齢が二十台前半の乃木と言う男に頭を下げる事を許さない。そう、俺は男谷の男、これまでほとんど頭を下げずに生きてきたのだ。
「用件を伺おう」
「お前に言う事じゃない」
「貴様、小官を愚弄するか!」
そう言って俺のチョッキに手をかけたので、その手をひねって投げ飛ばす。そしてその頭をふんずけてやった。
「坊や、うちに帰って母ちゃんに甘えとけよ。こんな弱さじゃ軍人はつとまらないからね。俺から山県にそう言っておく」
「何を! 無礼者!」
その若者の声に陸軍省の門衛たちがやってくる。そして乃木少佐を踏みつける俺を見てぎょっとした顔をした。何しろ俺は元近衛。二日とはいえ軍にいたのだ。当然顔を知っている奴もいる。
「ちょっと、松坂さん、そいつはいろいろ訳ありなんですって」
「なんでもいいけどさ、こんなのが少佐じゃ国威に関わるんじゃないの?」
「それが、その、薩摩の黒田閣下の肝いりもあって。ま、仕方ないんですよ」
「ふーん、どうでもいいけど。ともかく山県は?」
「あ、はいはい、すぐに。少しお待ちを」
ともかくも気絶するまで乃木少佐の頭を蹴り飛ばし、苦い顔で俺を見る士官の案内で山県の執務室に通された。
「松坂! ごめんだほ!」
「ごめんじゃねーよ、せっかく力を貸してやったのに何やってんの?」
山県は捨てられた犬のような目をしていた。
「で、どういう事?」
「桐野達が西郷さんにあれこれと言っただほ。西郷さんも庇ってはくれたんだほ? そしたら桐野がチェストー! って」
「あー、チェストーって言いだしたら話聞かないもんね、薩摩の人って」
「そういうことだほ。それで、このままじゃ収まりつかないからとりあえず辞任って事に。しばらくは反省して、陸軍大輔としての事務仕事に集中するほ」
「なるほどね、復帰前提、西郷さんもそう言ってたからいいけどさ、でも」
「でも、なんだほ?」
「いや、聞多の所に司法卿の江藤ってのがやってきたんだよ」
「えっ? マジかほ?」
「うん、尾去沢の件で訴えがあったからって。とりあえずぶん殴って追い返したけど、こっちにも来るんじゃね?」
「困ったほねえ。江藤は参議でもあるっほ。なんやかんや言われたら木戸に話を通さなきゃならなくなるほよ。それは嫌っほねえ」
「まあね、木戸、うるさいし。ともかく注意しなよ?」
「わかったほ」
「それと、乃木とか言うの? あれは無能だからクビにした方がいいね」
「……何かあったほ?」
「お前に取り次げっていったらなんやかんや文句つけるから蹴り飛ばしておいた。もうね、すっげー弱いの」
「はぁ、やっぱりそうなるっほねぇ。乃木は元奇兵隊っほ。だからってひいきしたわけじゃないっほよ? 黒田さんがあいつを気に入って。あいつが将来薩摩と長州の融和に、そう思って無理な人事をしたっほよ。桐野達はそれも面白くないって。二十三歳の少佐は流石に」
「そうだよね、俺より等級上だもの」
「うん、それに同じ時に少佐になったのが北陸戦争で活躍した薩摩の野津だほ。こっちは三十三歳。誰もが認める人事だったほよね。もうね、ウチも頭痛いほ。黒田さんの顔もあるし」
「へえ、お前の事だから長州閥優遇とかそんな感じかと思ってた」
「ほかの事ならともかく、軍人は無能な奴が上にいるとみんな困るほよ。だからそこに関しては薩長優先ってのはあっても、それ以外でひいきをしたくなかったほね」
「へえ、考えてんじゃん。確かにね。無能な上官は下が困る。俺も宇都宮以来、無能な上官に付けられて苦労したもん」
「ほう、松坂がほ? ちなみに誰だほ? その上官って」
「トシだよ、トシ。城を攻めればちんたらやってるし、ちょっと鉄砲で撃たれたくらいで死にかけるし。ほんと、手がかかってさぁ。普通さ、鉄砲の二、三発くらい余裕じゃね? ま、俺は撃たれたことないけど。うちの連中は平気だったもの」
「……そ、そうなんだほ。すごいっほねぇ」
「ま、トシなら熊の方が見どころがあるね。あれはやばいって思ったもん」
「熊?」
「うん、北海道にはでっかい熊がいてね。すんげえ強いの。ほら、俺の顔の傷、その熊にやられてさ」
「……大変だったほね」
ともかくもそう山県には注意を促し、陸軍省を後にした。
その年の十一月、帰国した山城屋は陸軍省で切腹。取り調べには一切応じず、ひたすらに山県との面会を願ったのだと言う。山県は完全にそれを無視。ま、いい判断だよね。
その二十三日、司法卿の江藤はまたもや皆の反感を買った。「妾廃止令」の提言である。
「ほんとあいつバカじゃないかと。そりゃ確かにですね、人権って言う意味じゃその通りですわ。けど、妾をやめたら生きていけないって女だって山ほどいるし、今の政府高官だってみんな妾もちなわけですわ。現状に合わないこと言われても、今度は別の名前で囲われる事になるでしょうし、そもそも誰も困ってない」
「そうねえ、ま、俺は律っちゃんだけでいいからどっちでもいいけど。春輔なんかはものすごく怒りそうだよね」
「あいつはね、女は囲わず、遊ぶだけ。うまいことやってますわ」
「で、聞多はどうなの?」
「今は妻もいるし、あとは春輔を見習って遊ぶだけですわ。だからね、個人的には反対する理由はないんですけど、政治として見るとその案は無理がある」
「まあね、遊女なんかは金持ちの妾、それが唯一救われる道でもあるし」
「そうそう、いずれは西洋に合わせて、と言う事にもなるんでしょうけど、維新のごたごたで未亡人だって山ほどいるんですよ。何も今じゃなくたって」
当然のごとくこの提言は却下。結果として江藤が嫌われただけとなった。
そして十二月。この年、暦が改められ、西洋諸国に合わせる形で太陽暦が採用された。これにより一年は三百六十五日。一か月は三十一日。四月、六月、九月は三十日。二月は二十八日で、うるう年には二十九日となる。そして一日も二十四時間。こんな大きな決め事が発表から実施までわずか二十三日。
ちなみにそのつじつま合わせの為、明治五年の十二月は三日で終わった。
「これはね、新さん。大蔵省の都合でもあるんですよ」
「そうなの?」
「来年は閏月もあって一年は十三か月。その分余計に給料も払わなきゃいけない。政府はね、本当に苦しくて。そう言う兼ね合いもあってやるなら今でしょ、って事なんですわ。それに時間の方も、ほら、九月に開業した鉄道、あれには今までよりも正確な時刻表示が必要って訳で。辰の下刻、とかいうよりは午前8時、の方が判りやすいわけですわ」
「ふーん、なんか世が変わるって大変なんだね」
「暦、それに時間、そのほかもろもろの習慣も世界基準に合わせていかないとやりづらいんですわ。異国との交流、取引、そうしたものはもう、やめることもできない訳で。洋装、断髪、そしていずれは廃刀令。まだまだこれからですよ」
最近では官吏をはじめとした洋装姿も珍しくはないし、髪も髷を結っている人は少なくなった。なんとなくだが、そう言うことが少し寂しくもある。
明治六年(1873年)一月十日
年が明けてすぐ、陸軍では大騒動。なぜかと言えば徴兵令、と言うものが発布され、ニ十歳以上の男はすべて兵隊、そんなことになったからだ。
この徴兵令、元は大村さんが言い出して、それを山県が引き継ぐ形で進めていた。その山県に反感を抱く桐野達が例によって騒ぎ立てたのだ。武士の本分は戦う事、それが民と一緒にされては士族と言うものが成り立たない。そんな理屈。けれども民兵を採用して一定の成果を収めてきた長州出身の山県としてはこれに大きな期待をかけている。もはや世は刀槍の時代ではなく、銃の時代。極端な話、引き金さえ引ければ兵は務まるのだ。
「まあ、これも世の流れですよ。狂介の奴もこれをやらなきゃロシアには敵わない。それが判ってるんですわ」
「けどさあ、士族は余ってるわけだろ? わざわざ民兵なんか作らなくても」
「そうなんですけど政府としちゃこれを機に士族ってのを無くしてしまいたい。そう言う思惑もあるんですわ。士族、武士の特権って奴は命を懸けて戦うからこそ認められてきたわけで。それを無くすには国民全員が戦う、そうしちまえばいい。そんな話で」
「まあね、今更武士だのなんだのと言っても仕方ないってのはわかるけど。禄もなくなり武士としての矜持までってのは」
「私も武士ですからね。ま、気持ちはわかりますわ。ただ、世が変わるって事は誰かがそういう割りを食うって事でもあるんですよ」
「それが武士、か」
「すべては外国に追い付く為、いろんな不条理を混ぜ込んででも先に進まなきゃならない。例え誰かに憎まれても、ってことですわ」
ま、みんなが幸せ、それができるように世の中はできていない。必ずどこかに割を食うやつが出てくるのは仕方ない。それはわかっているんだけどね。
二月になると、聞多は強硬策に出る。と言う事は俺たちの出番と言う事だ。俺たちは紙幣を発行する造幣寮に出向き、すべての官吏を集め、通達を下した。
「えー、大蔵大輔の命を伝えます。今日から髷は禁止ね。そして出勤するときは洋服で。って事で、今髷を結ってる人はこの場で断髪します」
洋化政策。これが聞多の最優先。その為には多少の強引な手も厭わない。中には涙を流す奴もいたが、そんな事には構わず俺たちは髷を切り落とす。
「ま、これも時代の流れだからね。あきらめてよ」
多少の心苦しさを感じながらも務めを果たす。この時俺は初めて「ああ、負けたんだな」と実感した。鳥羽伏見に始まった戊辰戦争。それは薩長対幕府、などではなく、新しい時代と武士と言うものの戦いであったのかもしれない。髷を結い、刀を差す。そうした武士と言うものがその存在を禁じられていくのだ。
そして三月三日。
「ってことでな、三条閣下がどうしても、っていうんでオイラが薩摩に行くことになった」
鐘屋にやってきた海舟がそんなことを言い出した。この男は海軍大輔のくせに、実務は下についた薩摩の川村さんに丸投げ。なにもせずに過ごしている。本人曰く「有能な若い奴が頑張ってんだ。年寄りが口を出す事じゃねえやな」と、言う事だ。
「へえ、そう。頑張ってね」
海舟が薩摩に出向くのは例の西郷さんと島津久光の喧嘩の仲裁。また面倒な事を引き受けたもんだ。
「何言ってやがる。おめえも行くんだよ」
「は? なんで?」
「冷てえ奴だな。おめえは西郷の友達じゃねえか。友達が困ってんだから手を貸して当たり前だろ?」
「いや、俺は大蔵省の仕事もあるし。ほら、子供だってまだ小さくて、家を空けるわけには」
「大蔵省の仕事なら構わぬ。勝よ、松坂が役に立つなら連れていくがよい」
座敷に顔を出した容保さまがそんなことを言った。今は俺が上司なのに。
「そうですね。わたくしも薩摩には行ってみたいと思っておりました。さ、新九郎さま旅支度を」
あれよあれよと言う間にそんな話になって、俺は海舟と共に薩摩に行く羽目になる。娘の静はまだ小さいが世話をする人はいっぱいいるのだ。
「うむ、大蔵省の事も、静の事もわしに任せておけ」
静を独占できるとあって容保さまは嬉しそうにそう言った。