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明治五年(1872年)五月二十九日
この日、帝が品川から船に乗り、西国巡幸に赴かれた。その補佐を務めるのは参議である西郷さん。岩倉使節団として昨年の十一月末より、一蔵さんに、木戸、それに春輔といった政府の重鎮は海外。留守政府は西郷さんが守っている。その西郷さんが東京を離れた合間を見計らって、司法卿、江藤新平が動きを見せた。
「隊長はん、なんや司法卿だか何だかがお見えどすえ。井上閣下に用があるとか」
いつも通り容保さまの冷たい視線を浴びながら執務室でうだうだしていた俺は、なんとなく嫌な予感がした。
「そっか、とりあえず応接室に。聞多は忙しいから会えるかどうか聞いてくるね」
「それが、邏卒を連れて来とるんです。なんや物々しい感じどすえ?」
ふむ、と、それまで書類に目を通していた容保さまが顔を上げる。
「渡辺、中に通すのはその司法卿だけ。邏卒は外で。否と言うなら外でお待ちいただくしかあるまい?」
「そうどすな。一応安さんたちにも声かけて、警戒を厳重にしときまひょか」
ともかくも聞多の部屋に行き、忙しそうに書面に書き物をしていた聞多にそのことを告げる。
「邏卒を? マジですか?」
「うん、なんかよろしくない感じだよね」
「よろしくない、よろしくない。とりあえずですよ? 新さん、話聞いてみてくれません? 私も後から行きますって事で」
「邏卒を連れて、とか、気に入らないよね。追い払っていいならそうするけど?」
「そうね、今はこっちが後手になりますもん。正院での閣議が開かれるのは西郷さんが戻ってから。それまでは何の文句があるのか知りませんが知らぬ存ぜぬって事にしときましょうか」
「だね。ま、とりあえずは話を聞いてみるよ。俺が代理、それでいいね?」
「ええ、任せますよ」
聞多の代理となった俺が応対に出る。難しいことを言われるとまずいので板倉さまにも同行してもらった。司法卿の江藤は一人で中に入るのが躊躇われたのか外で待っていた。
「あー、司法卿閣下。私が井上の代理として受合います」
「誰だね、君は」
「俺は松坂、大蔵省の官吏ですけど?」
そう言うと一列に並んで威嚇していた邏卒たちが苦笑いして一斉に三歩くらい下がった。
「で、何の文句があるんです? 邏卒の人だって忙しいでしょうに。ねえ?」
邏卒たちは顔を歪めて愛想笑いして首を傾げた。
「私は司法卿ですよ? 邏卒は私の配下になります。これも立派な公務なんです! して、井上さんは?」
「忙しいから俺が代理。わかる?」
「上位者たる私を迎え入れもせず、代理? 井上さん、いや大蔵大輔は何を考えてるんです!」
「もういいから、俺も暇じゃないし、用件があるなら早くしてくれません?」
江藤はこめかみに青筋を走らせてぐっと奥歯を噛むと、一つ深呼吸して口を開いた。
「尾去沢銅山の件で話があります。持ち主の村井より訴えがありましてね」
「それで?」
「井上さんには司法省の方で取り調べを受けてもらう事になりますね」
「へえ、それはどんな法令違反で?」
「あなたに説明する必要はなありません」
「だって、法があるからそれに違反した聞多を捕まえる、そういう事ですよね? その法が何なのかって聞いてるの。国民の一人として」
「あなたには関係ない!」
「だって、村井から財産と鉱山、押収したの俺だし。そうなりゃ俺も罪に、そういう事でしょ? 関係ないじゃすまないじゃん」
「……そうですか、ならばあなたを逮捕します!」
「だからどんな理屈で?」
「それはあとから説明します。邏卒! この男を確保しなさい!」
江藤はそう叫んだが、邏卒たちは互いの顔を見合わせて苦々しく笑うばかりで誰も動かない。
「何をしているのです! この男を捕まえなさい! 私はそう言っているんです!」
「あのぉ、司法卿閣下?」
「なんだですか!」
「その、私たちは邏卒総長の安藤さんからくれぐれもこの松坂さんには注意をと。何かあった場合はともかく話し合いで、そう言われて」
「何を言っているのです! 真の前に罪を犯した男がいるのですよ! それを捕らえるのが邏卒の仕事ではありませんか!」
「だからさあ、俺は何の罪な訳?」
「松坂よ、この男はの、要は井上閣下とお主が気に入らぬのじゃ。難癖つけてとりあえず身柄を押さえ、適当に罪をでっちあげる、その腹積もりなのじゃろう」
「はぁ? 何それ」
「政治がらみではよくある話じゃ、のう? 司法卿閣下? 今清盛とまで謡われ、権勢をふるう井上閣下が気に入らぬ。いや、長州閥が、と言った方がええかの?」
「何を言うのです! そのような事は関係ありません!」
「なればいかなる罪で、その辺をはっきりせねばのう? 幕府の頃とは違うのであろう? 維新で碌な働きもできず、政府では数合わせ、佐賀の出のお主が焦るのは無理ないが、いささか横紙破りも過ぎようて」
「つまり、罪はないけど逮捕したい、そういう事ね。邏卒の人たちもつき合わされて大変だったね。帰っていいよ」
「はぁ、それじゃ。司法卿、我々も色々やることあるんで、これで」
「ま、待ちなさい! あなたたち! 誰がそんなことを許しましたか!」
「さて、あんたにはお仕置きが必要かな。国の法をつかさどる司法卿がそれじゃいけないよね?」
「は? 何を言っているんです!」
そのあとみんなでフルボッコ。服をはぎとり、ミノムシのように縄でぐるぐる巻きにして、雇った人力車に乗せて司法省に送ってやった。
すっきりして聞多の執務室に報告に上がった。
「ご苦労様、ほんと新さんがいて助かったよ」
聞多はそう言って俺たちを長椅子に座らせると従卒役の鉄を呼んでコーヒーを出してくれた。
「マジさあ、たまらないんだけど。罪もないのに逮捕とかありえないよね」
「そうだの、ま、幕府の頃であればああしたことも許されたのであろうが」
「そうなの?」
「そうじゃよ、わしとて何も悪くないのに井伊大老に幕閣をクビにされたじゃろ? それに安政の大獄もそうじゃ。当時の一橋派には明確な罪があるにしろ、吉田松陰をはじめとした志士たちは自らの主張をしたにすぎん。首切られるほどの罪ではなかろうよ」
「あ、吉田さんは罪あるから。老中さらって攘夷を認めさせようとしてたからね。完全な犯罪者だから」
「……なるほど、井伊大老は誠に正しきなさりよう、という訳じゃな」
「そうそう、板倉さまがクビになったのだって、なんか悪いとこあったんじゃないの? 空気読めなかったとか」
「わしは空気を読むことにかけては自信があるぞい! 容保殿と違って!」
「まあまあ、昔の事だし良いじゃないですか。確かに容保さまは空気読めないし、吉田松陰は犯罪者、ですよねえ、新さん?」
「うん、俺は友達だったけど、高杉を育てたって一点だけでも万死に値すると思うな」
「うんうん、あんなのが今も生きてたらきっと政府はめちゃくちゃですわ。それで、江藤はなんて?」
「例の尾去沢、あそこの村井が訴えたらしいよ」
「ま、問題はなかろう。なにせ西郷にも話を通しておるのじゃ。何かあれば西郷に、そういえば済む事じゃからの」
「なあるほど、それで西郷さんが席を外した今、って訳ですか。私を捕らえて大蔵省の業務が滞れば、今度はその非を鳴らして辞任にでも追い込むつもり、そんなトコでしょうよ」
「そうじゃの、事の本質は政争。それは間違いないの」
「なんかむかつくね、そう言うのって。じゃあさ、こういうのはどう?」
「なんです? 何か良い仕返しでも?」
「仕返しっていうか、当然の事なんだけど、政府は金がないわけだろ?」
「ええ、そりゃ間違いないですわ」
「だったら司法省の予算を絞ればいいじゃん。あいつらなんか、紙と筆がありゃ仕事は成り立つんだし。だろ?」
「ふふ、そりゃいいですね! 栄一さん! 栄一さん!」
聞多は栄一さんと打ち合わせ、司法省の予算をぎりぎりまで絞ることにした。司法省から大蔵省への要請はすべて却下。流石は今清盛である。ま、金を握る相手を敵に回す、それがどういう事か思い知らせる必要はあるよねー。
この件により、聞多の権威はますます増大。どの役所も大蔵省に嫌われまいと、できるだけの便宜を図ろうと必死になった。明治政府の大魔王、聞多はそんな感じになってきていた。
六月、またしても大問題。横浜に停泊していたペルーの船、マリア・ルス号に乗っていた清国の船員が脱走、イギリス船に保護を求めたのだ。このころの清国はかつて高杉が見てきたように最悪の情勢で、異国に雇われた清国人もまた、苦力と言う奴隷のような立場だった。イギリス公使はこの件でマリア・ルス号を奴隷運搬船と判断、イギリス公使は日本政府に清国人の救助を依頼した。
当然ペルー側としては、「イギリス、お前がそれを言うのか?」とばかりに反対するわけだ。
さて、今の外務卿は副島とかいう佐賀の人で、これが頭でっかちにふさわしく、国内でもまだ進んでいない人権主義を言い立ててマリア・ルス号の出港を差し止めてしまう。
「ま、副島さんとしちゃ、この機に国際社会に日本の主権独立を言い立てたいんでしょうよ。ペルーとしちゃ、散々海外で収奪を働いたエゲレスに言いたいことも山ほどあるんでしょうがね。ま、エゲレスがそんなことを言い出すって事は国際社会はそういう人権ってのを大事にする流れになってるってわけですわ」
「ま、俺たちにはどうでもいいよねえ?」
「「ねー」」
そして七月、暫定の処置として、清国人はマリア・ルス号から降ろされて日本政府の保護下に置かれた。裁判が開かれ、その正当性を争ったのだが、不思議なことに、マリア・ルス号側の弁護人もイギリス人。こいつがまたとんでもないことを言い出した。
奴隷がだめなら、この国の遊女はもっとダメじゃん。と。
「あはは、ごもっともだよね」
「ですよねえ、副島さんもわが身を顧みず他所に文句つけるからこうなるんですわ。ともあれですよ? 新さん。この一連の事で、人権主義ってのは国際的にも国内向けにもウケがいいって事がわかりました。政治家の私としちゃ、ここで一ついい格好をしときたいとこで」
「ふーん、で、何をするの?」
「身売りの廃止、それと人権って奴に基づいた自由ってのを建白してみようかって。私もたまには人気稼ぎもしておかないと」
「しかし、それは難しかろう? 要は年季奉公の禁止、そういう事になるの。そうなれば雇い入れた側だけでなく雇われた方とて路頭に迷おう」
「板倉さま、こういうのはね、ともかく概念の問題なんですわ。最初は遊女、ともかく外国から女を性奴隷に、って見られるのだけは避けないと」
「それで、その放たれた遊女はどうなるのかの?」
「どうにも? 特にこの件で金を使うつもりはないですし。今度は年季奉公じゃなく、普通に雇われるんじゃないですか? 元の店に」
「それじゃ何も変わんないじゃん」
「新さん、急に何もかもってのは無理な話ですわ。だからね、結果が変わらないことはわかっていても、とりあえずダメって言っとくんです。そうすりゃ少なくとも親に売られる娘はいなくなる。あくまで本人の意思で遊女をってのまでは止められないでしょ?」
「ふむ、まずはそうした名目を、という訳か」
「そうそう、遊女本人たちにとっちゃ、ありがた迷惑な話かもしれませんが、国際社会から指摘されたことをやらないって訳にも行きませんからね。足並みは合わせておかないと。まずは名目、そのあとの事はそのあとで、って訳で」
「まあ、確かにウケのよさそうな話ではあるの」
「そういう事もね、少しはやっとかないと。私はこれでも政治家ですから。あはは」
「ま、聞多にはもう少し偉いままでいてもらわないと、俺たちも困るしね」
「そうじゃの。まだまだ稼ぎ時、うひょひょひょ」
帝が巡幸から帰還なされ、西郷さんが戻ってきたのは七月の半ば。これまでの間にも、群馬県には官営の富岡製糸工場が開設、工業化に向けての第一歩を記した。
そしてその西郷さん、新たな問題を引き起こして帰ってきたのだ。
「もう聞いてよ! オイさん、本気で嫌になっちゃう!」
太政官改め正院となった東京城内の西郷さんの執務室に、聞多と共にあいさつに訪れた俺に向かっての第一声がそれだった。