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 明治五年(1872年)五月。佐賀の江藤と言う男が司法卿に就任した。


「松坂、まずいほ!」


 人目を忍ぶように鐘屋に訪ねてきたのは陸軍大輔となった山県である。


「まずいのはお前。もう何? こんな遅くに」


 もうすでに哲学の時間である。それを邪魔された俺は不機嫌だった。


「ごめんだほ! けどとにかくやばいだほ!」


 仕方がないので座敷に上げてやり、トシと板倉さまを呼んだ。難しい事を言われても俺じゃわからないのだ。


 山県はその二人に向けて山城屋がフランスで外務省の役人に目をつけられたことを語る。山城屋は返済をすでにあきらめ、フランスのパリで豪遊していたらしい。それを聞きつけた陸軍省の会計監査役が調査をはじめ、山城屋に対してなんの担保もなく巨額が貸し付けられていたことが判明したのだ。


「んで、いくらなのかの?」


「……64万円だほ」


 それを聞いて俺たちはいっせいにブーっと茶を吹き出した。64万? 俺たちの財産合わせても10万あるかないかなのに?


「して、現状は?」


「その会計監査役は薩摩だほ。桐野少将が中心になって騒ぎはじめて大変なんだほ! このまま司法省にでもねじ込まれたらまずいだほ!」


「返せる当てもなし、か。山県、お前、腹斬っちゃえば?」


「な、何を言うだほ! そんなこと絶対嫌っほ!」


「だから俺は言ったろ? あの時山城屋に腹斬らせちまえばそれで済んだのに」


「そうっほけど、同じ釜の飯を食った仲間だほ。できれば助けたかったほね」


「しかしこうなっては誰も無傷で、とはいくまい。山県閣下、わしらにその債権の一部をくれぬかの?」


「どうするだほ?」


「その債権を口実に山城屋から一切を取り上げる。お主との関係を示した書付などもあろう? 世に出る前に始末を。それがお主への対価、ということじゃの」


「えっと、取り立てたものはどうするだほ?」


「それは我らの取り分じゃ。ただ働きをする謂れはないからの」


「山県閣下、どっちにしたって陸軍にゃ金は戻らねえ。同じことだろ? だったらあんたの名に傷がつかねえように。そう言うこったな。証拠がなきゃ、桐野も司法省もあんたに手は出せねえさ」


「うーん、困ったほねえ」


「して、その山城屋を呼び戻して腹を切らせれば解決、という訳じゃな」


「困ってる場合じゃないんじゃないの? 山県、あんたが転べば聞多だって木戸だってどうなるかわからないんだろ? そうなりゃ今は異国にいる春輔だって帰ってきても座る場所がない、そんなことになるんじゃないの? そうなりゃあんたは長州の恥さらし、鼻つまみ者だね」


「――そうっほね。山城屋にはバチを被ってもらうっほ。けど、書付は出せないだほ。それが見つかればまた騒動になるだほ」


「なるほどの、では我らは山県閣下のご依頼を受けて取り立てに、と言う形を取るかの」


「とにかく、頼むっほ! 陸軍の中での話であれば何とかするっほ。けど司法省が首を突っ込んで来たらお終いだほ! あの江藤は容赦ないほ!」


「そうならぬよう、明日にでも。のう? 松坂」


「そうだね、山県に何かあっちゃ聞多も困るし。ま、これは貸しって事で」


「恩に着るほ!」


「……なあ、山県閣下? 西郷さんは旦那の貸しで江戸城明け渡しに同意させられてるんだ。俺たちが函館から誰にも頭を下げずに帰ってこれたのもそれ。旦那の貸し、甘く見ねえほうがいいぜ?」


「あ、う、うん。わかったほ」


 ともかくそんな話になって、翌日、俺たちはいつも通り大蔵省に出勤して、聞多の許しを得た。


「で、あればあそこの土地の権利書も。横浜はこれから栄えますからね。そこに土地があればいろいろとはかどりますわ」


 つまり聞多にも取り分を、と言う事である。


 そういう事になって、容保さまと一郎、それに安次郎の隊を残し、板倉さまとトシ、それに鉄と残りの連中を連れていく。敏郎が抜け、うちは今24人。8人ずつで3隊に分かれているのだ。

 聞多の許可を得た、と言う事はもちろん公務の出張扱い。横浜までの乗合馬車の代金も経費である。


 横浜に付いた俺たちはともかくも山城屋を制圧にかかる。


「陸軍大輔、山県閣下の手の者である! 神妙にいたせ!」


 そう宣言し、応対に出た番頭を殴り飛ばすとあとはいつも通りだ。トシたちが刀をちらつかせ従業員を奥の一部屋に追い込み、金品を運び出す。山城屋は貿易商。西洋や清国からの舶来品が蔵にはぎっしり収まっていたし、現金も三千円ほどの貿易銀貨で見つかった。他にも書画や骨董、そう言った品々を押収した荷車に積み、そこにあった書類もすべて奪った。


「あったあった、借用の証文に、その他諸々。ま、これがなければ立件はできぬの」


 書類を漁っていた板倉さまがそう言ったので、奪った荷を懇意のアメリカ商人に引き取ってもらい、山城屋の家族、従業員を店から追い出した。あとはその店の前に、「従四位 井上馨所有」と書き記した立て札を立てておいた。そして役人たちがやってくる前に横浜を発つ。これですべては解決、という訳だ。


「うーん! やっぱお国の為の仕事となると充実感が違うね」


「だな、世のため人の為、ってのは悪くねえ」


「そうじゃの。ただ奪うだけではなく、それが世の平穏につながっておる。実にすがすがしいの」


「ちなみにいくらだったの? 儲けの方は」


「ざっと一万、と言うところかの。まずまずの仕事じゃった」


「だよねー」


 帰りも乗合馬車、今でも十分に速いが、試し運行の始まった鉄道が走ればさらに速くなると言う。横浜に一日がかりで歩いて行っていた頃からすれば夢のようだ。


 大蔵省に帰り着いたのはその日の夕方。聞多からは仕事の速さと確実さをお褒めにあずかった。人から褒められ慣れてない俺たちははにかんだが、悪くはない。やるからには誰かに褒めてもらったほうが嬉しいに決まってる。

 その夜も山県がこっそりやってきて、奪ってきた証文を見せると這いつくばって頭を下げた。


「ま、これでお主は知らぬ存ぜぬを通せばよいのじゃ。うるさいようなら会計官の一人でも辞めさせれば良い」


「本当に助かったほ!」


 まだまだ不安定な明治政府。それをこうして支えると言うのも悪くないものだ。


 その五月の十日、海舟が上京して、海軍大輔に任じられた。今までも外務大丞、兵部大丞に任じられたが慶喜がどうの、幕臣がどうのと言い立てて、即日辞職してきたが今回の廃藩置県、それに慶喜の赦免とあって、言い訳のネタが尽きたらしい。さらには海軍少輔となった薩摩の川村純義、これが元長崎伝習所にいた男で海舟の就任を強く斡旋したらしい。


 で、その海舟はこちらに引っ越してくることとなり、それまでの間、鐘屋に仮住まいすることになった。


「けどいいよなあ。海軍大輔って言ったら聞多や山県と同じ二等官。月給だって400円だぜ?」


「勝はそれだけの責任を果たさねばならぬ、と言う事だ。誰かのように70円分の働きもできぬでは民の申し訳なかろう?」


「まあまあ、容保殿、松坂は大蔵省にいるだけで十分役に立っておるのじゃ」


「ともかくは赤坂の氷川に目をつけた屋敷地がある。オイラはそこに屋敷を構えるつもりだ。ま、これからこっちで政府の為にって訳だな。板倉さま、容保さまも悪いがこのバカをよろしく頼みます」


 そう言ってはははっと笑う海舟の髪はかなり白いものが混じっていた。


「ところでの、勝よ、聞いてはおると思うが」


「ああ、山県の件。その件じゃ新九郎、おめえもよくやった。やっとこさ拵えた明治政府。できて早々頭のすげ替えじゃうまくねえ。それにな、長州閥が引くにせよ、そのあとを佐賀や土佐で埋められちゃこっちとしても面白くねえやな」


「んじゃ海舟はその分薩摩が強くなればいいって?」


「ばっかだな、おめえは。その分はオイラたち幕臣が埋めんだよ。薩摩長州、それに土佐や佐賀のぽっと出なんかにいつまでもまつりごとを任しちゃおけねえだろ? それにな、おめえは別として、幕臣には才たけたもんがごまんといる。そいつらに働かせなきゃ損ってもんだ」


「なるほどの。確かにそうじゃ」


「ま、しばらくはオイラが辞める辞めると言いながら政府の中をとっくりと眺めてくらぁ。その中で甘いところがありゃおめえがぎっちり締め上げりゃいいさ。なんせおめえは頭が悪い上に手が早え。男谷の男もオイラがいなきゃ片手落ちって訳だ」


「確かにな。わしも板倉殿も表には名を出せぬ。名が出せねば大きな働きは望めぬからな。勝、お主はそこを」


「わかってますよ」


「んで、静岡はどうなのさ?」


「あっちは最悪だな。オイラはどこまで行っても裏切りもんだ。いつ斬られるかと毎日身を縮めてびくびくもんだったぜ」


「それなら早く上京すりゃよかったのに。今までも話あったんだろ?」


「まあな、けどよ、オイラは徳川の家臣をやめられなかった。二君に仕えちゃ男谷の名折れ、そういうこった。此度の廃藩でようやく自由になれたんだよ。なんせ辞表を上げりゃ後見役の確堂さまが握りつぶしちまう。にっちもさっちもいかねえってのはあの事だな」


 二十三日に海舟は元五千五百石取りの旗本、柴田七九郎の屋敷を買い取りそこに引っ越した。四十一石の海舟、そのことで成り上がりだのなんだのと静岡では言われ続けたらしい、それがこうして二千五百坪の邸宅を構えたのだ。うれしくないはずはない。海舟はその屋敷を眺め、感無量と言った顔で涙を流した。


 それはそうと大蔵省は忙しい。特に渋沢の栄一さんは八面六臂の活躍だ。この人の手掛けた事は大きなものだけでも廃藩置県、貨幣制度、紙幣の導入、鉄道の敷設。今進めているのが銀行づくりの為の法。こうした近代化政策の中心を成しているのだ。


「でね、新さん、今栄一さんに進めてもらってる銀行、これの設立に投資をお願いしたいんですよ」


「銀行? お金を預かったりするところの?」


「まあ、それもありますが主には貸し付け。今までの金貸しじゃ出せる金額も知れたものでしょ? だからそういうやつらを纏めて大きな金をって訳で。とりあえず三井組と小野組にその前身組織を拵えさせて、それを法に沿った形で国立銀行って事に」


「国立? って事は国の資本で?」


「いやいや、あくまで民営ですよ。政府にはそんな金はないですし。国の法によって立てられた銀行って訳で。国立って名がつきゃ信用も増すでしょ?」


「あはは、うまいことやるんだね」


「でね、この銀行、実は紙幣を発行できることになるんですわ」


「金を? 好きなだけ発行できるって事?」


「いやいや、それは交換できるきんの分だけ。円っていう貨幣に価値がつきゃそう言うのも無しにできるんですけどね。ま、食いこんどいて悪い話じゃないって事ですよ」


「なるほどね。で、儲かるの?」


「ま、派手にって訳には行きませんけどね。幕府の頃で言えば札差、どう転んでも損はしませんよ」


 札差ってのはあれだ、旗本や御家人がもらう禄、これは米なわけで、これを金に換えてくれた店の事だ。


「なるほどの、いいかもしれぬ。どんと大きく儲けるは世が治まっては難しかろう」


 じっと話を聞いていた板倉さまが、そうぼつりとつぶやいた。


 ともかくも投資であるので危険も伴う。なので今回は俺の財から4万円ほど出資することにした。板倉さまの金は何かの時の為、取っておいたのだ。まあ、これで現金はほとんど無くなったが、土地もあれば鐘屋の儲けも、官吏としての給金もある。生活に困ると言う事はないのだ。


「ま、できることは今のうちに、って訳ですわ。このままいけばまた一荒れ、悪くすりゃ反乱騒ぎ、なんてことにもなりかねないですし」


「何かあるの?」


「ええ、徴兵令。前から議題には上がってたんですが、どうやら本格的に決まりそうなんですよ」


「そうなの?」


「徴兵、この国の若い男はみんな兵にしちまおうって話ですからね。そうなりゃ割を食うのはまたしても士族、武士、戦うものとしての誇りも何もってわけですわ。ま、長州じゃ当たり前になってますけど他はそうじゃない」


「まあね、その民兵でも偉くなる奴は出てくるだろうし、元士族としちゃそんな奴らの言う事を聞くのは面白くはない、わかるけど」


「だからね、私はもう少し時間をかけて、そう言ってるんです。やることは山ほどあるのに軍事優先じゃ何も。何しろ軍ってのは金くい虫ですからね」


「よそと戦争しているわけでもあるまいし」


「ですからね、戦争しちまおうって話」


「は?」


「実はですね、朝鮮、あそこに明治政府となって国交を結ぼうと使者を送ったんですわ。そしたら、アッチは幕府の頃と書面の形式が違うのなんのと言いだして拒否。んで、それは帝に対する不敬だなんだって事に」


「そうなんだ」


「朝鮮はね、幕府と一緒で鎖国してたわけですわ、この国と違うのは国策として攘夷をやらかし、それに勝っちまったことですわ」


「へえ、すごいじゃん」


「まあね、それだけ見りゃ大したもんですが、新さん、勝っちゃいけないいくさってのもあるんだな、ってしみじみ思いますよ、あの国を見ると」


「そうなの?」


「そこで攘夷に成功しちまったがためにあの国は今だ国際社会ってもんを知らんのです。それで下手に自信をつけちゃって、夷狄に屈したとか言って日本を下に見るわけですわ」


「まあ、無理もないの。今までかの国は朝鮮通信使を寄越してこちらに貢物を献上しておった。その関係を絶ちたいのであろうよ」


「そう、朝鮮は日本からすれば下、だから不敬だなんだって話になる。で、そこに不平士族を送り込んで懲らしめてやろうって話が出てて。日本としても外国と肩を並べるにはほかの国を制圧して、植民地に、ってわけですわ。エゲレス、オランダ、フランスと、地球を半周しなきゃ来れないような連中がちょくちょく顔を出せるのはシャムやらなんやら南の島を植民地として押さえちまってるから。だったらうちもって連中もいるんですよ」


「難しいところじゃの。朝鮮を攻めれば国内の不平士族は片付く上に、軍としては格下相手のいい経験になろう。じゃが、それをするにはいかにも時期が」


「そうなんですよ、まだまだいろんなとこに金がかかる。外征なんかしてる場合じゃないんですって。まあ、国威を示せば外債なんかの買い手もついていろいろやりやすくなるってのはわかるんですけど。国を富ませるのが先、私はそう思うんですけどね」


 なんだか難しい話だが、政府の閣僚で考えても答えの出ないことを俺が考えたところで意味もない。そんな事より、もっと考えねばならない事が発生していたのだ。


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