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 講武所が開かれると旗本たちが続々と修練に訪れる。彼らはみな、講武所風にまげを改め、刀を柄の長いこしらえに変えさせられた。俺と健吉にとっては変な頭の仲間が増えて嬉しい限りだ。


 さて、その講武所であるが、創建したのは老中首座、阿部正弘。その阿部正弘もいまは老中首座を堀田正睦に譲っている。

 講武所の責任者である総裁は大身旗本で大番頭を務める久貝因幡守正典、同じく旗本で江戸城留守居役の池田甲斐守長顕の二人が務めた。まあ、名目上の事ではあるけれど。

 実務を仕切る頭取には天保の改革の実行者、老中水野忠邦の実弟、跡部甲斐守良弼と、土岐丹波守頼旨が当たった。二人とも勘定奉行など。奉行職を歴任したキャリア組だ。


 そして頭取並として親父殿、男谷精一郎信友が座る。他にも頭取並として兵学にくわしい窪田清音などもいた。その下に各部門の師範が居て、さらにその下に俺たち教授方が付く。新設された砲術師範には今、長崎にいる勝海舟も内定されているらしい。そうなれば俺よりも格上。なんかむかつく。


「まあまあ、いいではありませんか。その勝様は面倒な事を引き受けてくださっている。そう思えば。」


 家に帰り律にその事を愚痴ぐちると、律は俺を膝の上に寝かせてそう言った。


「けどさあ、律っちゃん。あいつは確かに頭はいいけど弱っちいし、性格も悪いんだぜ? 」


「わたくしは表の事には詳しくありませぬが、剣術と砲術、おなごとしてはやはり剣術に長けた殿方の方が。砲術はしょせん飛び道具でありましょう? 」


「あはは、そう、そうだよね。」


「それに、いざという時に大砲が手元になければ何もできないような方では、身を任せるのも不安にござりまする。剣術に長じた上で、砲術も、というのであれば宜しいのでしょうけれど。」


「俺もね、砲術は学んだんだけどさっぱりでさ。塾頭なんて言われても学問の方はどうにもね。」


「新九郎さまはその分、剣に長じて。人は何もかもはできぬものでございますれば。わたくしも、新九郎さまの事だけ。他は何もできませぬ。」


「えー、律っちゃんは料理も洗濯も、針仕事もなんでも上手だってみんな言ってるよ? 」


 律は道場でも非常に評判がいい。骨惜しみせず、立場に胡坐をかくこともなく、下女たちに混じって洗濯や掃除などもしているようだ。もちろん親父殿にも義母である鶴さんにも、ものすごく可愛がられている。


「それも新九郎さまの為なればこそできるのです。新九郎さまとのお話があってからと言うもの、まだ見ぬ夫の為、そう思って精進して参りましたから。他の方の為には何もできませんし、する気も。」


「あはは、そういうのも嬉しいね。そうだね、俺もあの試合、律っちゃんの為に、そう思ったからこそ頑張れたもの。」


「うふふ、新九郎さま、私たちはそうして互いの為、その為に力を尽くせばいいのでございまする。他所の方の事で悩む必要など。ね? 」


「うん。そうだね。そうだよね。」


「そうですよ。新九郎さまはわたくしの事だけ。さ、あとのお話はお布団で。」


 しかも好色でもある。



 講武所では各流派が集まる為、それぞれルールというか取り決めが結構違う。例えば柳剛流と言う流派では足を狙うのがその極意であったり、中には長い竹刀で先んじて突く、なんてのもあったりだ。それもあって講武所では竹刀の長さは三尺八寸と決められた。俺は刀と同じように竹刀に長い柄袋をかぶせ、それを使った。


 しかし流派によって剣術もいろいろだ。北辰一刀流は速さに勝り、神道無念流は力に勝る。なんでも力のある打ち込みでないと一本とは認められないらしい。我らが男谷にはそんなこだわりは無く、いいものは全て取り入れよ、そんな感じだ。なのでいろんな流派の集まる講武所は非常に為になる。ここで見たことを道場に帰って親父殿と健吉、鑓次郎と俺の四人であれこれ言いあって検討するのだ。


「難しい所ですね。竹刀稽古であれば北辰一刀流に分がありますが、実際に戦う、となればあれでは。」


「そうですよね、けど神道無念流はいかんせん隙が大きすぎて。」


「やっぱりさ、一本とかそういうのをやめちゃって、何でもあり、参ったと言うまでやるのがいいんじゃない? 竹刀打ちだけなら町の道場でもいいわけだし。」


「そうですねえ、しかしそれではついてこられない方も多いのでは? 厳しく辛い、となれば。」


「そうですよ! 何でもありなんてなれば喧嘩に長けた新さんの独壇場どくだんじょうじゃないですか! 」


「いいじゃん、どっちにしたって鑓次郎は弱いんだし。」


「ちょっと先生! 何とか言ってくださいよ! 」


「うーむ、実戦に耐えられぬ、となれば講武所の意義を問われるな。かと言って健吉や鑓次郎の言うように、続けられぬ者が多く出ても公儀の威信にかかわる。」


「であればまずは畳斬りから始められては? 刀を使えば竹刀打ちに長じた方々も認識を改める機会になろうかと。」


「そうよな、健吉の言うようにそれが一番かもしれぬ。竹刀打ちに熟練したものは畳を。それができるものは新九郎の言う実戦方式の稽古を。そうすればよかろう。」


「うん、それがいいと思う。」


「ですね。」


「いずれ大きく評判が上がれば講武所に入るものも選ぶこととなろう。まずは評判作りをせねばな。」


 こうしている間にも情勢はどんどん変化していった。公儀はロシア、それにオランダとも和親条約を結び、ロシアと国境の確定した蝦夷地の開拓に手を付けた。また、オランダからの勧告もあり、公儀は開国、そんな雰囲気だ。

 異国の文物を研究するための蕃書調所ばんしょしらべしょ。海舟のいる、長崎海軍伝習所、そしてこの講武所と次々と専門機関が設立されていく。講武所の教えるところは剣術だけでなく、洋式の兵学、砲術等、いろいろあるのだ。


 その一環として六月になると俺たちはすぐそこの海で水練をさせられる。みんな旗本、上級武士だ、泳ぎだなんて碌にできるはずもない。意外な事に鑓次郎は上手に泳ぎ、ポパ〇のような体型の健吉は金づちだった。俺は上手と言うほどでもないがそこそこは泳げる。現代人は学校にプールがあったからね。


「ちょ、ちょっと新さん! 鑓次郎も、まってくださいよ! 」


 健吉のふっとい腕が海から出たり入ったり。あんなのに掴まれたら間違いなく溺れる、そう思った俺と鑓次郎は急いで健吉と距離を取った。


「ほら、健吉、なにをしておるか、もう少しだ、がんばらんか! 」


 小舟でこぎつけた親父殿が叱咤する。いいよね、泳がなくてもいい人は。


 八月になると公儀はなんだかんだとすったもんだした挙句、下田にハリスというアメリカの外交官の駐在を認めることになる。貿易や捕鯨の基地としてではなく、正式な外国の要人がこの国に居座る事になったのだ。


 だが、市井の反応はふーんと言った感じ。もう慣れたのか誰も騒いだりしなかった。


 なんだかんだと忙しかった俺は、その八月、妻の律を連れて桶町に引っ越した定さんを訪ねた。


「ふーん、良い所じゃん。」


「でしょ? わしもね、ここはお気に入り。なんたって五十両もあったから贅沢に造れたしね。」


「ははっ、そういう意味では龍馬さまさまだね。」


「そうそう、その龍馬なんだけど、先ごろ土佐藩邸から使いがあってね。正式に藩から江戸遊学を認められたって。九月にはこっちに来るらしいよ。」


「へえ、よかったじゃん。さなも喜んでるじゃない? 」


「うん、もうね、大変。すっかり機嫌もよくなっちゃって。今買い物に出てるから、そろそろ戻るんじゃないかな? 」


「あの、その龍馬と言う方は? 」


「ああ、奥方は聞いてない? 新さんの塾の同門でね、土佐藩士。んでうちの門弟なのよ。しばらくうちで暮らしてたんだけど、うちの娘と良い仲になっちゃってさ、一応婚約者って事になってんの。」


 定さんは嬉しそうにこれまでのあらましを律っちゃんに語り聞かせる。


「では此度こそ、その坂本様に。そういう訳でありまするか? 」


「そうそう、ばちーっと決めてもらわないとね。もうね、さなもいろいろ口うるさくて。」


「しかし、その坂本様も罪作りな方でありまする。おなごはお慕いする殿方と離れるのが何よりの苦痛でありますのに。」


「ほんとだよね、罪作り罪作り、定さん、なんだかんだ言うなら詰め腹でも切らせたらいいと思うよ? 」


「ですよねー、今回はね、わしもお父さんとして引く気はないから。なんせ、五十両、使っちゃったし、今更破談になって返せって言われても跡形もないもの。」


「あはは、それは深刻な問題だよね。」


 そんな話をしているとちょうどさなが戻ってきて、俺たちに茶を淹れてくれた。


「さな、こっちが新さんの奥方、律殿、で、これがわしの娘のさなね。年もいくつも変わらないし、仲良くしてあげてよ。」


「松坂新九郎の妻、律と申します。さなさん、宜しゅうに。」


 律は妻、という所を強調して挨拶をする。さなは額に青筋を浮かべ目元をひくつかせた。


「私は千葉定吉の娘、さな、と。土佐藩士、坂本龍馬の許嫁でもありますの。」


「許嫁ですか。それも宜しいかと、ですが許嫁のままでは定吉先生のお心も重いままにござりまするね。」


「どういう意味かしら? 律さん。」


「今少し、踏み込むべきでは、と僭越ながら。」


「本当に僭越ですね! 」


「これは失礼を。わたくしは夫を持つ身ゆえ、独り身の方のお気持ちがわからぬようで。」


「ああん? ふっざけんなよ、この雌ガキが! 」


「やだやだ、はしたない。殿方に逃げられた女はこれだから。」


「はは、上等じゃない。ちょっと向こうでお話しましょうか? 」


「ええ、わたくしが僭越ながら殿方の心の掴み方、御指南して差し上げます。」


「ちょっと、律っちゃん! 」


 そう言って止めようとすると定さんが俺を捕まえて首を振った。


「ああいうときに口出ししちゃダメ、怪我するからね。」


「けど律っちゃんはさなと違って狂暴じゃないんだよ? 」


「ちょっと、うちのさなだっておしとやかな時もあるの! 」


「嘘つけ、俺が見る限りそんな要素はかけらもないけど? 」


「新さん、それを言っちゃあお終いですよ、あーた! 」


「だから龍馬に逃げられるんだよね。」


「あ、うん、それはあるね。」


「やっぱり心配! 見に行こうよ! 」


「うん、そうだね。」



 二人はなぜか道場にいた。門弟たちをすみに追い払い、中央で顔を斜めにしてにらみ合う。さなに比べて律っちゃんは頭半分ほども小さいのだ。パワー系のさなに勝てるとは思えない。


「講武所教授方、男谷の師範の妻ともあれば多少の心得はおありですよね? 」


「ええ、まあ、それなりには。」


「だったら遠慮はいらないわよね? 」


 さながばっと手を伸ばし、律の襟元を掴む、律はそれを払って逆にさなの襟に手を伸ばした。ばっ、ばっ、と互いに手を伸ばしては振り払う。まるでカンフー映画のように。


「やるねえ、新さんの奥方も。」


 定さんは感心したようにそうつぶやいた。


 どうにもこうした事は律に分があるらしく、襟の取り合いに紛れてさなの頬をぱちんと打った。


「ぼぉーん、上等だよ! アタシをここまでキレさせるなんてさぁ! 」


「遠慮して殿方に逃げられて、また遠慮してわたくしに頬を叩かれる。良いざまですね。」


「ぶち殺す! 」


 ただならぬ様子の二人を門弟たちが止めに入る。


「邪魔すんな! てめえらもブチ殺すぞ! 」


「わたくしに触れないでくださいまし! 新九郎さま以外がこの身に触れることは許しません! 」


 二人を止めに入った門弟たちは次々と投げ飛ばされ、踏まれ、叩かれて、ひどい事になっていた。


「ね、関わるとああいう事になっちゃうから。」


 定さんは俺の肩をぽんとたたいて奥につれて行った。


「ま、お茶でも飲んでゆっくりしようよ。そのうち平気な顔で帰ってくるんだから。でもすごいね、奥方。うちのさなを手玉に取って。」


「うん、なんかね、水戸で男谷の義父や兄たちに剣術なんかも教わったらしい。」


「男谷の忠次郎さんね。あの人も精一郎さんの兄だけあって普通じゃないから。」


「うん、昔、伯父の小吉と精一郎さんと忠次郎さんで何十人も相手に喧嘩したらしいもんね。」


「それだけじゃないよ、あの三人はね、あちこちで道場破りもしてるからね。」


「マジで? 」


「兄者なんかいつうちに来るかって震えてたもの。アレだよ? 今でこそ男谷の先生は人格者だなんて言われてるけど、若い頃はそりゃあひどかったんだから。なるほどね、あの忠次郎さんに仕込まれたなら納得。」


 しばらくすると、髪を振り乱し、顔に痣を作った二人がニコニコと笑いながらやってきた。


「あら、ずいぶん派手にやったみたいね。」


「お父さん、おなごと言うものはこうして拳をまじえてみて、初めて互いを知ることができるんですよ? 」


 聞いたことねーよ、そんな話! 


「そうですよ。言葉だけでは人は図れぬものです。ね、さなさん。」


「ええ、そうですとも。それでね、新九郎さんも、お父さんも聞いて。」


「なに? 」


「今回の遊学で龍馬さんがはっきりしない場合は殺すことに決めました。」


「ええ、やはりそうでなければ。」


「あ、そう、そうなんだ。あはは、そういうのはお父さんちょっとよくわからないけど、本人同士の事だからね。ね、新さん? 」


「う、うん、そうだね。あくまでさなと龍馬の間のことだから。俺たちがどうこう言えるはずもないよ。でしょ? 定さん。」


「そう、それ、本人同士の事だから。それに我が家も当主は重太郎。何かあったらあいつが何とかしなきゃ。」


「律さん、その時はそのような手段を用いるべきでしょうか? 」


「そうですね、やはり、想いは長く、たっぷりと伝えねばなりませぬゆえ、拳、あるいは棒などが適しているかと。」


「やっぱり? 私もそう思ったんですよ。刃物でざっくりと、ってのは簡単すぎますもの。」


「まずは手足を潰し、じっくりと想いの丈を。それで通じねば、肩を。腰は大切なところですから最後まで取っておかないと。」


「ウフフ、そうですよね。」


 やめて!耳が腐るから!



「もう、律っちゃん? 心配だからああいうのはやめてよね。」


 家に戻った俺はそう言って律を咎めた。


「わたくし、ああやって、こらえて殿方を待ちわびるおなごは好きじゃなくて。わたくしの産みの母がそうでしたから。」


「そうなの? 」


「ええ、振り向かせる努力もせずにただ待つ事に慣れて。それに浸っているようなおなごは許せなくて。」


「うん、そうかもしれないけどさ、こうやって律っちゃんのきれいな顔に傷が出来たら困るだろ? 」


「うふふ、このくらいの傷は新九郎さまがお布団で癒してくれればすぐにでも。ね? 」


 やはり好色であった。


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