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 気が付けば俺は寝間着姿で布団に寝かされていた。ここは新たに作った鐘屋の俺の部屋。和風で障子の向こうに不忍池がよく見えた。そして枕元には律がいた。


「新九郎さま。」


「あ、律っちゃん。」


 そう答えると律は俺にむぎゅっと抱き着いた。


「お話はトシさんから。その、わたくしは。」


「あはは、ひどい目に遭ったよ。」


 律はうるうると目を潤ませてじっと俺の瞳をのぞき込む。


「わたくしはずっと信じておりました。新九郎さまはわたくし以外にお手を触れぬと。」


「そうさ、約束しただろ?」


「ええ、ですが、佐奈さんが。」


「あいつは龍馬に捨てられてるから敏感なんだよ、その辺。」


「……でも、お綺麗な方と聞かされて、心がぎゅっと締め付けられるような痛みを。」


「律っちゃんとこうして夫婦になって十五年。その十五年を曇らせるようなことはしないさ。」


 そう答えると、律は俺の頭を胸に抱き、ひっくひっくと泣き始めた。結果としては振り切ったが一瞬でも心が揺れた事は事実。律の涙が俺にとっては何よりの罰になった。



 さて、その翌日、蔦吉が秀を連れて鐘屋にやってくる。


「えっと、何?」


 俺と共にまかり出た律は硬い顔で蔦吉を見ていた。


「あら、この人が奥方様? あはは、なるほど、これじゃアタシも袖にされるってもんさ。安心して、奥方様。新さんはアタシの誘いをきっぱり断った。そりゃ、アタシも女だからね、悔しくない、と言えば嘘になるさ。けどね、アタシは気風の良さで売ってきた辰巳芸者さ。振られた男にしがみつくような真似はしないさ。」


「……その、若いころは新九郎さまがお世話になったと聞いております。妻として、礼を。」


「あはは、ありゃアタシが勝手に入れあげてただけさ。それに捨てられるのが怖くて姿を消したのはアタシの方さ。ま、昔の女としちゃ、あんたみたいな綺麗な奥方様と仲睦まじく。そういう昔の男を見るのも悪くはないさ。」


 さすが蔦吉は元芸者、人とのコミュニケーション能力が高いのだ。最初は硬い顔をしていた律も徐々にではあるが柔らかい顔になる。


「それで、蔦吉さんは今は?」


「ああ、アタシはやくざの女房だったんだけど、ご一新の騒ぎで旦那は死んじまってね。今はあとを継がせたこの秀の世話になってるさ。」


「いえ、世話だなんてとんでもありやせん。オイラたちは姐さんの顔があるからシノいでいけてるんで。」


 昨日聞いたように蔦吉たちは博徒の仁義を無視するろくでなしに押され、なかなかに苦しい立場だという。


「そこでね、新さんにアタシらのケツを持っちゃくれないかってお願いに。京だの蝦夷だのの話は聞いてるけど、この東京じゃやっぱり不忍池十二人斬りさ。不埒な輩を十二人も斬り捨てた新さんの名はアタシらの中でも有名さね。その新さんがうちの組の後ろには控えてる。そう聞けばクズな連中だって。」


「そういう事で、オイラたちとしちゃ情けねえ話ではありやすが、このまんまじゃいずれ奴らの足を舐めることになっちまう。ろくでなしのうちらがこうして世をはばかりながらでも生きていけるのはみんなのおかげ、だから誰かが困ってたのなら決して見て見ぬふりをしちゃいけねえ。先代の残した言いつけでさぁ。

 けど、若い衆にもこの身にも飯を食わしていかなきゃならねえ。今のオイラたちはその言いつけを踏みにじるかどうかの瀬戸際なんですよ。」


「なあに、難しいことを頼もうって訳じゃないんだよ、新さん。ただ、アタシたちがほんのちょっとあんたの名を借りたい。そうだねえ。『不忍池の方から来てる。』そうとでも言わせてもらえりゃ十分さ。」


 なにその「消防署の方から来ました」的なニュアンス。


「そう、それでいいんだ、旦那。旦那みてえな元幕臣がオイラたちみたいな入れ墨もんとつながりが深くちゃ差し障りもあるだろうさ。だからそれとなく匂わせられりゃそれで。」


「それに月々のもんだってそれなりには包ませてもらうさ。ね? いいだろ、新さん、奥方様?」


 うーん、どうなんだろ。そう思っていると律が俺をじっと見て口を開いた。


「新九郎さま、よろしいのでは? これが江戸の頃であれば確かに差し障りも。幕臣の矜持、しかし今はその幕府とて。そのために困っている人を見過ごす事は義父上も望まぬ事。男谷の矜持は新九郎さまが決められるべきことでもありまれば。」


「律っちゃん的にはそれでいいの?」


「はい、すべての人を、とはいきませぬが、縁のある方の窮地を見過ごすような真似は。」


「そっか。なら、どうするのが一番いいかみんなにも聞いてみようか。」


「はい!」


 トシ、板倉さま、容保さま、それに一郎、安次郎と佐奈、うちの主だった面々を集めて協議する。すると話を聞き終わった板倉さまが「うひょひょひょひょ!」っと奇声を上げた。


「ふむふむ、実に良い話だの。」


「そうなの?」


「そうじゃ、世は常に表と裏。裏に伝手があるならそれに越したことはないのじゃ。」


「えっと、オイラたちはそんなたいしたもんじゃねえんで。」


「いやいや、何事もきっかけが大切。民の平穏には世の裏側を握ることも大切じゃて。その、なんというたかの、主らの組は。」


「へえ、うちらは辰巳組と名乗らしてもらってやす。先代が拵えたんで、新門の辰五郎親分の「を組」なんかの足元にも及ばねえちんけな組ですが。」


「賭場と祭りの出店が生業、裏家業としては真っ当も真っ当。それにその先代が残した言いつけももっともじゃな。」


 当然秀も蔦吉も板倉さまが元ご老中などとは知る由もない。いぶかし気な目でこのうさん臭いおっさんを見ていた。


「のう、松坂。これも世の為人の為じゃ。力を貸してやってはどうじゃ?」


 ――嘘だ。板倉さまが人の為? きっと裏があるに違いない。


「うん、そうだね。そうしようか。」


「本当かい、新さん?」


「任せといてよ。そういう悪い奴らは許せない。だろ? トシ。」


「ああ、そうだな。」


 トシも察するところがあったらしく、素直に頷いた。あとはこちらで、そういう事になり、蔦吉たちの住む家を聞いてその場はお開きとなった。



「……で、どういうことだ? 板倉さまよ。」


 蔦吉たち、それに律っちゃんや容保さまたちが席を立ったあと、俺とトシ、そして板倉さまがその場に残って具体案を協議する。


「まずは内藤、お主の存念を聞こうかの。」


「俺が思うにはだ、この鐘屋、そして旦那の松坂の名は今は主家も同然。よくねえ事をやらかして汚しちゃまずい。ま、今更って気もするがな。んで、あの辰巳組の名を借りて悪さの一つでも、と思ってるんじゃねえか? 板倉さまは。」


「まあ、それもあるの。賭場から金を奪うとなればよくない噂も立てられる。しかしじゃ、この話の肝はそこではない。」


「とすると?」


「まず、わしらは裕福に暮らせるだけの蓄えを持ち、こうして流行りの店も構えておる。井上の斡旋で地所も押さえておるし、暮らしには事欠くまいよ。」


「まあな。だからこそ、毎日ポケーっとして暮らしてられる。」


「だがよそはそうではない。榊原、それに千葉を見るまでもなく、今の東京には食えぬ士族があふれておる。そ奴らがわしらを見てどう思うか、と言う事じゃな。」


「そりゃあ、羨ましく思ってるだろうさ。日がな一日暇こいて、やれコーヒーだの洋酒だのと好き放題してるんだ。」


「そう、まだ世が変わって三年目。蓄えのあったものたちはそれを食いつぶして生きておる。商いを始めたものもおるが付け焼刃ではうまくいかんのは火を見るよりも明らかじゃ。そこに賭場から金を強奪した、などと噂になって見ろ。食い詰めた士族どもがこの鐘屋に縋って列をなすのは目に見えておる、そう思わんか?」


「けどよお、食えない士族は静岡で面倒見るって勝の先生が。その為にあんたらから金を。」


「そうではあるが東京を離れきらぬものもおろう? 武士の矜持、自分自身は食わねど妻や子が飢えるのを座視できまいて。その矜持折ってまで縋りついたものを突き放すは。」


「同じ武士として見るに堪えねえってか?」


「いや、面倒事になるの、と。刀にかけて、ともなれば斬り捨てる事にもなりかねん。そうすればまた政府がなんやかんやと。」


「それはわかるが今回の件とは関係ねえだろ?」


「わしらに代わり、そうしたバチを被るもの、必要とは思わぬかの?」


「蝦夷での渋沢みたいにってか? で、誰を。」


「榊原、いや、今井かの。それと千葉。奴らに金を奪わせて、我らは高みの見物と。」


「それじゃあ銭は入らねえだろ?」


「今回はじゃな。だが、この先買い付けた土地をめぐっての問題も起きよう。そうしたときに辰巳組の名で暴れるものも必要じゃて。」


「つまりあれか? 千葉に榊原、剣術を学んだ腕っこきどもに暴れさせ、買った土地に問題を起こして周りの奴らに金を払わせる。そういう事?」


「これ、今少し丸めて物を言わぬか! これはあくまで困窮する榊原、千葉を救済するため。榊原は松坂の同門、千葉は一郎が婿であろう?」


「ま、いいんじゃねえの? とばっちりはろくでなしどもと金持ちだけってんならな。」


「そういうことじゃな、どうだ? 松坂。」


「よくわかんないけどそれでいいなら。確かに健吉も定さんも苦しそうだしね。」


「とりあえず内藤、お主は榊原の今井と話をつけよ。一郎と佐奈は千葉に。」


「ああ、わかった。んじゃ旦那、それに板倉さまも、こっちの方は頼んだぜ?」


「こっちって?」


「ばっか、あれだよ。容保さまに砕かれた壁は俺んちじゃねえか。あんだけ風通し良くされちゃ困るんだよ。ちゃんと直しとけよな。」


 そう言い捨ててトシは出かけて行った。


「……あれは俺たちのせいじゃないよね?」


「そうだの。」


 ともかく俺たちはあんたが壊したんだから修理してよ、と容保さまに言いに行く。だが、「知らぬ!」と言い返されて終いにはゴールドフィンガーで威嚇された。もちろん安次郎たちも知らん顔。仕方なしに二人で壁の修理をすることになった。



 数日後、この東京に本当の意味での暴力団が二つ誕生し、その名を高めることになる。



「あは、あは、あはははは! やっぱり持つべきものは出来のいい婿だよねぇ。佐奈、あんたはエライ! この一郎さんはお父さんにとっても自慢の婿さんだもん!」


 うちにやってきた定さんは上機嫌で杯を重ねていく。高齢の定さんに代わり、実戦指揮を執って、ろくでなしから金を奪い取ったのは婿である一郎。小千葉の門弟たちもさすがは婿殿と感服しているらしい。


「ほーんと、一時はどうなるかと思ったけどさ、これですっかり息をつけるもの。金がないのは首がないのと同じ、とはよく言ったもんだよね。」


「それはいいけどさ、重太郎はどうしたの? 定さんの名代だったらあっちの方がふさわしくない?」


「やだなあ、新さん。わしも重太郎も、鳥取藩士よ?」


「うん、知ってる。」


「鳥取藩はか・ん・ぐ・んですよ? 官軍。 あーたたちと違って。だからしっかりお役目も頂いてますぅ。今は官吏としてあちこち飛び回ってるのよ。」


「へえ、そいつは結構なこって。」


 トシが不貞腐れたようにそういうと、定さんはまあまあ、とそのトシを宥める。


「官吏って言っても薄給なのよ。うちの事までは手が回んない。それに比べりゃあーたたちは良いじゃない。戊辰のどさくさに紛れてひと財産築いちゃったんだし。うちもね、道場の方はいろいろやってみたけどまるでダメ。坂本龍馬の修業した道場ですよ! って触れ回ったのに全然でさ。」


「じゃあ道場は?」


「兄者の隠し子がいてね。東一郎っての。そいつにさせようと思ってる。お父さんも道場出るのは流石にきついし。あとは東一郎の判断って訳。ねえ、新さん、男ってのはさ、腕が立とうが何が立とうが金儲けできなきゃダメなのよ。その点一郎さんはいいわ。ちゃんと儲け話を持ってこられるんだから。こういっちゃなんだけどさ、龍馬はそういうの期待できそうになかったからね。」


「ああ、あいつ、なんだっけ? 海援隊? あれも経営がうまくいかなくて結局土佐のお抱えに。ま、バカだったしね、あいつ。」


「そうそう、天下国家がどうとかよりも、まずは飯を食えなきゃね。なんだかんだと言いながらこの世は金ですよ、金。」


 定さんはそんなことを上機嫌に言い募って帰っていった。あれだけ嫌がっていた佐奈にも、一郎と一緒に桶町で同居したら? などと勧める始末。ほんと人って変われば変わるよねえ。


 そして今一つの暴力団。こちらはガチで貧乏だった。


「新さん、まずい、まずいですよ!」


「なにがさ、今井さん。結構儲かったんじゃないの? 定さんなんか、にっこにこだったけど?」


「それがですね、居酒屋は相変わらず儲からないし、私の両親も静岡で病気だなんだといって金の無心。もうね、私の蓄えは底をつきそうなんです。」


「えっ? 静岡は海舟が何とかするって。その為に金を出したんだし。」


「それがですよ、父上は借金だなんて格好の悪いことはできん! って。しかも嫁の世話するから近々静岡に来いって言いだして。」


「あら、そうなの?」


「その上ですよ? 昨年出来た刑部省からはまたも近江屋の一件で取り調べがあるとかで。ほんともう、最悪なんです。」


「土佐もしつこいねえ。」


「坂本は転んで頭を打って死んだ、それじゃあ土佐の連中が納得しない、だからうまい事話をって。お金をくれるならまだしも、タダなのになんで私が。」


「もうさ、そういうのはみーんな只さんのせいにしちゃえばいいじゃん。実際只さんがやれって言ったんだしさ。」


「そうですよね、佐々木さんがすべて。で、薩摩の件は黙ってる方がいいんですよね?」


「そうね、それがあるから政府は俺たちに遠慮する。それにさ、今更そんなこと言い出して、土佐が暴れだしたらみんな困るし。」


「ですよね。世を壊しちゃ意味がないですし。まあ、うまい事答えておきますよ。」


「うん、頼むね。」


「その、それで、榊原先生の事なんですけど。」


「あ、うん、健吉が?」


「ほら、その、先生はなんていうか貧乏慣れしてて、危機感が全くないんですよ。私が静岡に、そういう事になれば暮らしの事とて。」


「あー、健吉はものすごく貧乏だったからね。金がなくても生きていける、そう考えてるんじゃない?」


「いや、先生はそれでよくても私たちは見てられなくて。勘定のできる私がいなくなればきっと、困ったことに。」


「ま、泣きつかれたら何とかするさ。」


「お願いしますね。」


 今井さんは何度も俺にそう言って帰っていった。この人も苦労性と言うか、何と言うか。


 ともあれ板倉さまの懸念は杞憂に終わる。なぜならば、この年の春に営業を許された人力車、これの引手に困窮した武士を雇い入れたのだ。特に必要な技術はなく、江戸生まれの江戸育ちである幕臣たちは地理にも詳しい。問題は武士の、幕臣の矜持だったがそんなものに構っていられないほど彼らは困窮していたのだ。


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