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 明治三年(1870年)三月末、鐘屋に帰り着くと、そこに海舟からの文が届いていた。


 それによれば、海舟の母、信おばさんがこの十五日に亡くなられたのだという。だが、今の静岡はいろいろと不穏。俺が出向くときっと騒動になるから来るな。と書いてあった。


「そっか、信おばさん、亡くなったのか。」


 元々勝のお家は信おばさんの血統だ。そこに男谷から妾の子であった小吉が婿に。小吉は勝のお家の婆様とそりが合わず、家出をしたりして、勝家はあわやお取りつぶしの目にもあっている。それからも小吉は無茶ばかり。信おばさんは毎日のように叩かれていた。

 しかし何と言っても極めつけは小吉がほかの女に惚れこんで、「それならば自分は邪魔にならないように死ぬ。」そう言ったにもかかわらず小吉は「そうか、」と外に遊びに出かけてしまった事だろう。結局周りの人の説得もあって、小吉が過ちを認めたが。

 まあ、小吉のような婿を迎えたばっかりに信おばさんは苦労のしっぱなし。海舟が偉くなって、楽な老後を、と思いきやこの維新の騒ぎ。最後まで大変な人生を送った人だった。


「新九郎さま、そう決めつけてはなりませんよ?」


「そう?」


「ええ、夫婦の事は当人にしかわからぬもの。小吉様のお話はわたくしも父からよく。ですが、そうした殿方に魅力を感じるのもおなごなのです。お信さまはきっとそんな小吉様がたまらなく愛しく思えておられたのでしょう。」


「まあ、そうかもね。小吉はいつも殴るから好きではなかったけど、いやな人、という訳ではなかったし。面白くて、面倒見もよくて、話し上手で。それに誰より強かった。」


「義父上さまはいつもわたくしに仰いました。新九郎さまは小吉様によく似ておられると。」


「確かに俺も褒められた生き方はしてないけどさ。けどあれは。ま、いいか。とりあえず弔文と香典だけでも届けようか。」


「ええ、そちらはわたくしが。実は、新九郎さま、お話が。」


「どうしたの?」


「その、わたくし、お子ができたようで。」


「えっ?」


「その、ずっとそうではないか、と思ってはいたのですが。」


「本当! すごい! すごいね!」


 俺はさっそく医者を呼びつけ、律を診察させた。医者の見立てではもう三か月になるそうだ。このままいけば生まれるのは十月ごろになるらしい。俺は三十八にして子を授かった。十年下の律は二十八。我が松坂の家は新たな家族を迎えることになった。

 みんなから盛大に祝われて、律には何をするにも誰かが付き添う。子を持つ女たちがあれこれと世話を焼いてくれるのだ。


 だが、残念な事に当然哲学もお預けとなる。子が生まれるまでは大事を取るべきだろう。


 律との哲学の時間がなくなってしまうと実に暇である。何もすることがないのだ。一郎も鉄も板倉さまも鐘屋の仕事が忙しく、相手をしてくれない。かといって手伝うにも、俺は熊にやられた傷面。接客は無理、ならば裏方をと思っても、そこを仕切る容保さまが許さないのだ。


「もう、容保さま? 俺にも何かやらしてくれてもいいじゃないですか!」


「ダメだな。お前はいわばここの殿様。殿様とはそういう者よ。何をしようとしても家臣に止められ手を出せぬ。わしのように音曲などの趣味を持てばいい。」


「えー、そういうのはちょっと。良いじゃないですか、一緒にやりましょうよ。」


「いやだ。わしはこうして働くのが気に入っておる。仕事の邪魔だからどっかに行ってくれないか?」


 そう言って生き生きと水汲みをしながら宿の男たちに指示を出す。容保さまは風呂の仕事を任されていて、水汲み、薪割り、そして掃除と精力的に働いていた。


「ほら、旦那様、仕事の邪魔するんじゃないよ! 暇なら敏郎の店にでも行っておいで!」


 お千佳に追い払われて、仕方なく鐘屋珈琲店に顔を出す。そこにはいつも通り、だらけた態度のうちの連中と、苦い顔で俺を迎える敏郎夫妻。


 うーん、これはやっぱりよろしくないぞ。はたから見れば俺もこう見える。子が生まれ、その子が今の俺を見たらどう思うだろうか。


「はい、みんな集合!」


「うぃーっす。」


 俺は現状が非常によくない、それを熱心に伝えた。確かに食うに困らぬ金はある。だが、寝て、起きて、飯を食う。それが生きていると言えるのだろうか! と。


「ふむ、それは我らも常々思うておりました。なあ、みんな?」


 安次郎はそういったが完全に嘘である。その証拠に、みんなは、あ、うんうん、みたいな反応だった。


「けどよう、旦那? 何かするっていったい何を? 今更小銭を稼ぐってのもな。」


「そこはさ、やっぱり世の為人の為的な?」


「そうですな、我らにふさわしき役目があるのならすぐにでも。」


 あくびをこらえながら安次郎はそういった。あんた、完全に何もする気ないよね!


「そうだなぁ、どうせなら人に誇れるような事がいい。けどなあ。」


「何、トシ、何か文句でもあるの?」


「いや、そうじゃねえが、そうなると政府の仕事って事になんだろ?」


「もうさ、今更幕臣の意地とかなんとか言ってる場合じゃないだろ? 幕府、なくなっちゃったんだし。」


「そうじゃねえよ。あんた、今までやってきたこと、よーく考えてみろ? 少なくとも俺が政府のお役人ならあんたらは雇わねえ。弾正台の市中見回りだって一日でクビだったじゃねえか。」


「あ、あれはたまたまじゃん! 聞多や木戸に聞けば何か仕事だってきっと!」


「ねえと思うがな。そんな仕事がありゃ、長州の連中だって反乱なんぞするもんか。」


「そうやってやっても見ないのに決めつけるの、よくないからね。トシ、明日聞多のところに行くから付き合えよな!」


「えーっ? めんどくせえな。マジで行くの?」


「いいですか! こーんなだらけた姿、子供に見られたらどう思われる? 父上、今日のお仕事は? そう聞かれてなんて答える?」


「なーるほど、そういう事か。おかしいと思ったんだ、旦那が急にそんな事言い出すなんてよ。ま、いいさ、付き合うだけ付き合ってやるよ。」


 ともかくそういう事になり、敏郎が出してくれたコーヒーを啜る。その敏郎が言うには、最近物価が上がって大変らしい。物の値段の基準たる米が暴騰すれば米騒動だなんだと騒ぎが起きる。なので政府はサイゴンというところから外国米を買い付けて物価の安定に努めているらしい。家に籠りきりではそうした世情もわからない。


 そんなことを考えているとこの店の常連の旦那が血相変えてやってきた。ここの店のコーヒーは一杯20文。かけそばよりもちょっとお高め。飲み物にしては結構な値段だ。と言う事で客層もこのあたりで店を構える旦那衆、と言う事になる。


「敏郎さん! ああ、鐘屋の旦那もいてくれりゃちょうどいい!」


「どうしたのさ。そんな慌てて。」


「聞いてくださいよ、旦那! 最近じゃお上の目が届かねえことをいいことに、博徒どもが阿漕な真似をしやがるんです! 文句をつけりゃ壮士たちが出てきて刀をちらつかせやがるんで!」


「けど壮士って、前に相当斬ったよ? そんな地面から生えてくるわけじゃあるまいし。」


「よその土地から流れ込んできやがるんですよ! 俺ァ明らかなイカサマに十両からやられちまって! このままじゃカミさんが怖くてうちにも帰れねえ! ねえ、何とかしてくださいよ、旦那!」


 うーん、ちょっとめんどくさいかな、そう考える俺をよそに、トシはその旦那から詳細を聞き出していく。賭場の規模、他にどこにあるかなどだ。


「おし、それだけきけりゃ十分だ。敏郎、十両立て替えてやりな。」


「えっ?」


「いいから、あとできちんと返すからよ。」


「絶対ですよ!」


 しぶしぶと敏郎は奥から十両分の官札を持ってきて旦那に手渡した。


「ありがてぇ! これでカミさんにも文句は言わさねえ! 敏郎さん、俺、毎日コーヒー飲みに来るから!」


 そう言って旦那は走り去っていった。


「さって、あとは俺らの仕事だ。」


「仕事って、どういう事さ?」


「いいか、旦那、賭場ってのは幕府の頃からご法度だ。」


「そうだね。」


「つまりだ、賭場の金を根こそぎ奪ったところで奴らは政府には申し立てできねえって事だ。聞いた話じゃなかなかに賑わってるらしいからな。最低でも数百両、うまく行きゃ千両箱の二つ三つもあるだろうさ。」


「けどさあ、それだけでしょ? 今更。」


「ばっか、聞いた通り諸物は値上がり。そのうち一両なんてのはそばを食うのがやっとになるかもしれねえだろ?」


「まっさかー。」


「すぐにって訳じゃねえよ。あんたの子がでかくなるころにそうなって見ろ? 我が子に貧乏させたくねえだろ? だったら稼げるときには稼いどかねえと。それを怠けちゃ健吉さんのとこや、定吉先生のとこみてえになっちまう。」


「そうだね、そうしよう。行くよ! みんな。」


「「応!」」


 そう、わが子に貧乏はさせられない。その為には金が要る。いくらあっても足りると言う事はないのだ!


 賭場と言えばかつては寺、そう相場は決まっていたものだ。寺は寺社奉行管轄で、市中を取り締まる町奉行は手を出せない。そして寺銭てらせん、なる言葉があるように、賭場を開くものは寺に場所代を奉納していた。寺と賭場はまさにWINWINの関係だったのだ。


 だが今はこうした賭場は寺ではなく、誰もいない空き屋敷で行われる。なぜかと言えば政府の布告、それに今年の初頭に出されたみことのりにおいて神仏分離、廃仏毀釈はいぶつきしゃくの政策が示されたからだ。これによって寺は大きな弾圧を受けることになる。今まで寺社奉行の元、人別帳を管理することで特権を振るってきた寺は民衆からも反発を受け、容赦ない破壊が行われているという。そんな状況の寺に賭場を保護する力などあるはずもなかった。


 目的の賭場はいわゆる旗本屋敷。俺たちは例によって、表と裏に別れ、誰も逃さぬ配置を取ることにする。


「いいか、斬っちゃいろいろ後始末が大変になる。殴り倒して奪えるもんは奪えばいい。旦那もいいな?」


「はいはい、みんな、斬っちゃダメだって。」


 俺がそう言うとみんなはブーブー。どんだけ人殺ししたいんだろう、こいつらは。



廃仏毀釈、すっごく大変な事になってたみたいですね。奈良の興福寺の五重塔も安値で売りに出されてあわや薪に。伊勢神宮のある伊勢市では300からあった寺がわずか5に。薩摩も1616の寺が廃止。あぶれた坊さんの三分の一が軍人に。世が変わるといろんなことがありますね。

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