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 慶応四年(1868年)一月六日


 なんで、どうしてこうなるのか! 俺は理不尽にもいくさの真っただ中にいた。打ち鳴らされる鉄砲、地をえぐるは大砲の玉。そしてあの苛立ちを掻きたてる笛と太鼓の音。


「突っ込めぇ! 突っ込めっ! 」


 腰を鉄砲で撃たれたたださんが、隊士に手当をさせながら声を枯らさんばかりに檄を飛ばす。


「今井さん、行くよ。」


「ええ、遅れは取りませんよ。」


 俺は鉄砲の音が少なくなったのを見計らって、さっと手を上げる。そろいの羽織を鎖帷子の上に着込んだ隊士たちが叫びをあげて敵の隊列に飛び込み、血煙を上げる。学生服のような隊服を着た薩長の連中も、腰の刀を抜いて応戦した。


 俺は、目の前の男を袈裟懸けさがけに切り下げ、返す刀で次の男の腕を飛ばす。そして振り向きざまに後ろの男を斬り捨て、その隣の男を盾にして斬撃を防いだ。目指すは白熊はぐまを被った将校。そいつをやれば楽になる。

 その将校を庇うべく、年端もいかない若者が前に出る。その若者の首を刎ね、白熊の将校を斬り下ろす。側にいた隊士に命じ、その白熊の首を獲らせ、敵陣に投げ入れさせる。


 動揺した敵軍が我先にと引いていった。


「新さん、そろそろ。」


 今井さんがそう言うので、うんと頷き、刀を振って血を払う。それを鞘に納めて生き残りの隊士を集め、俺たちも引いた。


「はは、新さん。俺はここまでかな。最後に一花、そう思ったけどこのざまじゃね。」


「只さん。」


「腹を切るのも癪に障るし、悪いけど手をかけるよ。今井! あとは任せる。」


 俺は隊士に命じ、戸板に只さんを乗せて船でけが人と共に、先に淀川を下らせた。それが只さん、俺の親友だった佐々木只三郎ささきたださぶろうとの今生の別れとなった。




 嘉永三年(1850年)四月二十二日


 ――朝起きたら武士に改造されていた。人から聞けば鼻で笑うところだが、現実なんだから仕方ない。元の俺の記憶は非常に曖昧で、代わりにこの体の記憶はしっかりと残っている。


 名は松坂新九郎まつざかしんくろう。二百俵取りの旗本、松坂家の末っ子だ。とはいえ長兄は暴漢に襲われ死んじゃったし、三人の兄は御家人株ごけにんかぶを買ってもらい、家を出た。今じゃ須藤、黒部、川上と名乗っている。家は長兄の子が後継ぎに決まり、俺はいわゆる部屋住みだ。


 どうも長い事、病で寝ていたようで、体の節々が痛くてたまらない。うーっと体を伸ばすとふすまが開き、下女が苦々しく俺を見て、仕方なしに茶を淹れてくれた。それをすすり人心地つくと、着替えを済ませて外に出た。父も母も、俺などには興味がない。部屋住みの扱いなんてそんなもんらしい。

 

 三百坪の敷地には屋敷と蔵、それに離れがある。俺はその離れの一つで暮らしている。飯も別、厠もなにも別。以前は屋敷で一緒に暮らしていたが、兄が殺され、若い身で後家となった兄嫁と何かあるといけない、そんな配慮だ。もちろんそんな配慮をされるのは俺の素行がよろしくないからに決まっている。


 ははっ、と乾いた笑いを浮かべて門を出る。中身が現代人であるらしい俺は、銭湯に向かって歩きながら体に残った記憶を頼りに知識のすり合わせを始めた。


 俺の家である松坂家。父である松坂三郎左衛門はそもそも男谷おたに家の次男で、俺の爺様である男谷平蔵が金の力で養子に押し込んだ。

その男谷家がなぜそれほど金があるかと言えばその父、俺にとってはひい爺さんの盲人、男谷検校おたにけんぎょうの蓄えた財があったからに他ならない。


 検校けんぎょうと言うのは盲人だけが就く事のできる役職で、当道座とうどうざと言う盲人たちの組織の長である。按摩あんま鍼灸しんきゅう、三曲と言われる音楽、そういった物を生業としていたが、計数に長けた者も多く、幕府の許しを得て、金貸しなども営んでいる。社会的な地位も高く、そうした検校を取りまとめる惣録検校そうろくけんぎょうともなると、大名並みの格式を持つようだ。


 その男谷検校は元は越後からの流れ者、行き倒れていたところを同じ盲人仲間に助けられたのがはじまりらしい。


 さて、その松坂家は二百俵取り。石高になおせば七十石ほどだ。蔵米と言って、要するに米の現物支給。領地などは持たないのだ。知行取りと呼ばれる領地持ちの収入に換算すれば二百石ほど。だが作物の出来不出来にかかわらず、安定した収入である事と領地の雑事にかかる金がない事を考えれば収入の面では全然いい。その分格式は落ちてしまうが。


 そんなわけで松坂の家は羽振りがいい。元々抱えていた借金は男谷が全て支払い、その代わりとして旗本株をもらったのだ。同じやり方で俺の兄たちも御家人株を買ってもらい、それぞれ一家を構えている。俺もいずれはそうなるのだろう、と漠然ばくぜんと感じていた。


 銭湯、この当時は湯屋と言う。その湯屋に入るには8文かかる。月単位で支払うフリーパスの羽書はがきなんていうのもあってこれが月148文。俺も財布の中にそれを忍ばせているが毎日来るのだ、否応にも顔見知りになる。いちいち見せなくても顔パスと言う訳だ。

 ちなみに屋敷には風呂がない。禁止されているからだ。よほどの身分でないと内風呂などは許されない。火事の原因になるかららしい。


 と、いう訳で武士であろうが町人であろうがみんな風呂屋に通う。ここは本所、林町という所で今でいう墨田区の森下に近い。江戸城にも歓楽地である浅草、吉原にも近く、人も多い。昼を過ぎたこの時間は仕事を終えた大工や職人で風呂はにぎわっていた。


 鍵のついたロッカーに脱いだものを入れ、刀は番台に預けておく。そこで手拭いを借りて湯殿に下り、三助を雇って体を流してもらう。そう言った三助の雇い賃や入浴代はすべてツケ。月末に屋敷に集金に来るのだ。さすがに飯代くらいはその場で払うが町内で過ごす限りすべて顔パス。困る事などは何もない。奥のざくろ口から湯船に入り、あっという間に湯から出る。とにかく熱いのだ。こういう熱い風呂とかの江戸っ子文化はいい加減にしてほしい。


 風呂から上がり、体を拭いて着物を着こんで二階に上がる。そこは休憩所になっていて襦袢姿のおっさんたちが碁や将棋に勤しんでいた。ここの世話役の女が茶を淹れてくれたのでそれを啜りながら腰に差したキセルを咥える。タバコの葉を詰めて、煙草盆の火種で火をつけた。ふーっ、と一服してカンと音を立てて灰吹きに灰を落とし、また葉を詰める。放蕩ものらしく、俺のキセルは吸い口と火皿、雁首はいぶし仕上げの銀細工。蛇の彫り物が浮き彫りにされた贅沢なものだった。それに合わせるかのように煙草入れもキセルを収める筒も蛇皮で出来ている。帯に留めるための根付は鬼の面を象った象牙製。煙草をもう一服付けると下に降り、番台で刀を返してもらって外に出る。季節は春の中頃でさわやかな風が頬を撫でた。


 そのあとは髪結いだ。髪を流してもらい、髷を結いなおしてもらう。公の場に出るわけではないので、月代さかやきは剃らず、総髪そうはつのままだ。髭も綺麗に剃ってもらい、耳かきもしてもらう。一回28文。さすがに毎日ではないが、数日おきにはしてもらっていたようだ。もちろんここでもツケが利く。江戸のサムライライフも悪くない。そう思い始めていた。


「新九郎さん、ずいぶん久しいじゃねえですか。」


「うん、寝込んでたからね。」


「部屋住みじゃ、碌に看病もしてもらえねえんじゃねえですか? 」


「はは、そんな感じかも。」


「どうです? お屋敷から出て長屋暮らしでもしてみちゃあ? 」


「収入がないから部屋住みなんだよ? 外で暮らす金なんか。」


「そこはほら、勝の御隠居にお願いして見ちゃあ。あっちだって新九郎さんの伯父なんだ。世話ぐれえはしてくださるさ。」


 その言葉を聞いてぞくっとする。そうだ、あいつがいた。この体、松坂新九郎が最も恐れるのがその伯父、勝小吉かつこきちなのだ。


「あは、あはは、伯父さんも忙しいだろうしね。迷惑かけるわけには。」


「何言ってんです、勝の御隠居は度量の広いお方だ。俺たちの仲間だって何人も世話になってる。甥っ子のあんたがくすぶってんのをほっとくようなお方じゃねえさ。」


 お願い、放っておいて! 心の底からそう思う。簡単に言えばその伯父は人間爆弾みたいなもの。親戚にいて欲しくない人ナンバー1だ。


「長屋で暮らして下女の一人でも雇えばいい。そうすりゃ今見てえに不貞腐ふてくされてなくても済むんですぜ? 」


「いや、全然大丈夫だから。まったく不貞腐れてないからね。父上にも母上にも感謝でいっぱい! 」


「はは、よく言うね。喧嘩の腕は伯父譲り、剣術は男谷の先生に叩き込まれた凄腕ときたもんだ。そこらの穀潰しとはわけが違う。あっしはね、新九郎さんなら大きな仕事ができるんじゃねえかって。ずっとそう思ってた。風呂屋の多吉も蕎麦屋の政も飯屋の女将もそう言ってる。勝の御隠居だって若い頃には相当やらかしてんだ。あんたも今少し落ち着けばあの御隠居に負けねえ侍になってくれるさ。」


「ははっ、俺はああいうのはちょっと。」


「ま、病がえたんなら何よりだ、ほれ、綺麗になったぜ。」


 ははッと笑いながら髪結いを後にする。茶がどうだのと言っていたが用事があるからと逃げてきた。冗談じゃない、ああいうイカレ系とは距離を置かねば。勝小吉、今は夢酔むすいと名乗るその伯父は俺にとって災厄以外の何物でもなかった。


 いやーな気分を払うため、蕎麦屋の暖簾のれんをくぐる。仏頂面の店主、政にかけそばを頼んだ。それと上等な酒も一合ばかり冷やでもらう。そばは一杯16文。一文が大体30円くらいの感覚だ。酒は高めの20文。そばを啜り、お猪口ちょこで冷や酒をあおった。座っていた縁台に金を置いて外に出る。川の流れを見ながら堅川沿いを歩いていく。屋敷に戻り、奥の離れに行くと、四畳半のその部屋に奴がいた。


「よう、ご機嫌じゃねえか。昼間っからほろ酔いとはな。」


「あ、あはは、伯父上、なんでここに? 」


 迫力のある笑い顔で伯父上は俺を見ると、あごで上がれと命じた。凶悪な顔に人を殴り慣れた拳、小さなころから喧嘩となれば人を斬る。是非とも生涯を隔離された場所で生きて欲しい、そんな猛獣のような男が俺の伯父、なんてついてないんだ。


「で、伯父上? 俺に何か? 」


「おめえはうちの麟太郎りんたろうと違ってろくでなしだからな。そんな奴がいつまでも居ついちゃ兄貴だって迷惑すんだろ? 」


 いや、あんたほどじゃないからね、と言う言葉をぐっと飲みこむ。


「それに若奥さんの事もあっからな。兄貴に言われてこの俺が一肌脱いでやろうじゃねえかって事になった。」


 全然脱がなくていいからね。完全に大きなお世話! 


「それに一族にクズが居ちゃ本家の精一郎せいいちろうだって困るんだ。ま、とにかくおめえの事は俺が決める。嬉しいだろ? 」


「あ、いや、」


「あっ? なんか言いてえことでもあんのか? 」


「いや、伯父上に迷惑かけられないかなって。」


「かっかっか、そんな事か。俺ぁな、てめえがクズでろくでなしだったから、おめえのようなクズを叩きなおすすべを心得てる。ま、任せとけや。流石は男谷の一族様よ、と世間におめえの事を言わせて見せるからよ。んじゃついてこい。この屋敷は今日でおさらばだ。荷物なんぞは後でいい。」


 そう言って伯父上は俺の返事を聞く事もなく外に連れ出した。屋敷から覗いていた母上がほっとした顔で息をついたのが見えた。


 松坂新九郎はこの年17歳。現代で言えば高校生だがこの当時は立派な大人。まして中身の俺ははたぶんもっと歳食ってる。酒を飲もうが煙草を吸おうがとがめるものは誰もいない。

 そして今は隠居して夢酔だのと名乗っているこの伯父は今年で49。人生五十年と聞いたことがある。早くこの伯父にもお迎えが来て欲しい。


 結構な距離を歩かされ、連れてこられたのは麻布狸穴あざぶまみあな町にある男谷道場。最悪だ。ここには俺のもう一人の天敵と言ってもいい男、本家のいとこにあたる男谷精一郎がいる。いとことはいえ年はウンと上。今年で40かそこらになるはずだ。頭の決まり具合は伯父の小吉と同じくらい。なにせ、昔は伯父と精一郎さんとその兄の3人で数十人を相手に喧嘩したこともあるのだ。そんな精一郎さんは今では剣聖などと言われている。世間に対しては温厚な人だが俺に対してはそうではない。ああ、やっぱりついてない。


「いいか、新九郎。俺をかんがみるにだ、悪さをすんのは退屈だからだ。おめえは精一郎のとこで剣を磨き、虎のところで柔術を学べ。んで夜は書物を読んで学問を修めろ。手え抜きやがったらぶちのめす。いいな? 」


 死刑宣告が下される。虎と言うのは浅草に道場を持つ伯父上のお気に入り、島田虎之助。気が合うだけの事はあり、やっぱりいろいろおかしな人だ。


「虎は浅草、麟太郎と一緒に通え。3の日と7の日だ。他は精一郎にみっちりと鍛えるように言うてやる。寝起きもここでしろ、」


 伯父上はずかずかと道場に上がり込み、精一郎さんを手招くと俺の方を見て何やら話す。精一郎さんはにやりと笑い、頷いた。


 それが地獄の日々の始まりだった。



「新九郎。どうした? このくらいでへばってちゃ男谷の男はつとまらんぞ。」


 この言いぐさである。俺が倒れようが吐こうがお構いなしで稽古けいこを続けさせる。防具を付けさせ何十人もの相手をさせられた。弱い奴相手ならまだいいが、俺の相手は高弟。免状めんじょう持ちや精一郎さんが見込んだ相手しかいない。中でもいくつか年上の榊原健吉さかきばらけんきちはびっくりするほど強かった。


 そもそも好きで男谷の男に生まれたわけじゃねーし。そう思う余裕すら与えられなかった。道場での稽古が終わると今度は竹刀しないを刀に持ち替え畳斬りだ。これが中々に難しく、刃筋が少しでもぶれると畳は切れてくれないし、竹刀のように叩き付けるだけでは表面に傷がつくだけだ。


「いいか、新九郎。こうやるのだ。」


 そう言って精一郎さんは抜き打ちに立てた畳を斬った。ズバッと快い音がして畳が両断される。なるほど、剣聖とはこう言う物か、と納得させられた。


「刃物は全て引かねば斬れん。包丁であれ何であれだ。押し付けて力を籠めれば裁つ事は出来ようがな。これが出来ねば人は斬れん。小吉などは先代の朝右衛門あさうえもんに弟子入りし、死体斬りをしたほどだ。」


「あは、あはは。そうですよね。」


「われらの祖である検校殿は公儀こうぎのご恩で身を立てた。我らは公儀に大事があった時にお役に立てるよう、常に自らを鍛えねばならん。小吉も麟太郎をそのように育てているし、わしも子らをそうしている。松坂の家はお前がその役を果たせ。」


「いや、兄貴とかいるじゃないですか。」


「あいつらは他所の家を継いだのだ。それに才に欠ける。お前には才があり、気も強い。あとはその曲がった性根を叩きなおすだけだ。」


「いや、でも! 」


「気にするな、お前の事はわしと小吉で立派な男谷の男にして見せる。」


 はっはっはっと何が楽しいのか笑い声をあげて精一郎さんは奥に引っ込んだ。話の通じない人はこれだから困る。あんたらの話にはねえ、俺の希望とかそう言う物が一切加味されてないんですよ!


 さて、そんな地獄にいつまでもいるわけにはいかない。そう悟った俺はその日の夜に道場から金を盗み出し夜道を走って逃げ出した。ふところには二十両。松坂の家に帰れば大至急連れ戻される。いや、入れてもらえない可能性すらある。かと言って兄貴たちも信用ならない。兄貴たちがあの二人に逆らえるとは到底思えないからだ。

 だとすれば行先は一つしかない。吉原だ。金が尽きるまで入り浸ってやる! なにせ人生は五十年だ。ほっとけばこの二人にもお迎えがくるだろう。


 そう決めてひたすら浅草方向に駆けていく。


 吉原の中は夜でも明るい。店の中には大きな行灯あんどん。天井からも明かりがぶら下がっている。もうだいぶ夜も更けたが今夜の相手を求める女が格子の向こうから手を伸ばしてくる。うん、やっぱこうだよね。汗くさい道場に比べればおしろい香るここはまさに天国。

 そんな中、ちょっと顔は勝気そうだが洒落た女が俺にキセルを差し出した。店の格からしてもさほど高くはないだろう。そうあたりを付けて、そのキセルで一服する。店の下男がニコニコ顔で迎えに出て、店に招いた。中では愛想の悪い女将がぶすっとした顔で手を差し出す。


「お辰かい? なら銭二刺しだ。」


 銭二刺し、一刺しが百文なので二百文。小銭をそんなに持ち歩いているはずもなく、財布から元々持っていた一朱金いっしゅきんをぽんと投げ渡す。


「釣りはいらないよ。」


 そう言ってやると女将は、はっと鼻で笑い、頭をわずかに下げた。1朱は250文。ま、朝まで追い出されずに済めばそれでいい。


 しばらくするとさっきの辰と言う女が迎えに来て、三つ指ついて頭を下げた。


「お辰でありんす。よしなに。」


 そう言って俺の手を引いていく。このありんす言葉はなまりを隠すためのものらしい。連れていかれた部屋は相部屋で6畳の座敷が衝立ついたてで四つに仕切られている。部屋持ちの女ともなれば揚代その他で最低でも一両はかかるのだ。手元の金は二十両。出来るだけ安く済ませたい。


 女は酒膳しゅぜん禿かむろと言う少女に運ばせ酌をする。衝立の向こうではすでに行為の真っ最中。声もすれば音もする。盃を交わし、一夜の夫婦めおとちぎりを立てると俺もお辰を相手に行為に没頭した。お辰は体も綺麗で、いい客が付けば部屋持ちぐらいにはなれるだろう。

 手の届くのは今のうちだけ。そう思って存分に楽しんだ。


 翌日は朝から湯屋に行き、ひと風呂浴びる。そのあとは屋台でマグロの漬けの寿司を一貫食べた。俺の知ってる寿司と違いやたらでかくてびっくりしたが、マグロはこの当時、下物げものとして扱われていたらしく、お値段も4文とリーズナブル。出がらしの茶を飲んで、吉原をぶらぶら歩き、花魁道中おいらんどうちゅうなどを眺めて過ごす。うん、これだね、俺の求めていた人生は。


 茶屋で茶を飲みながら煙草を一服付けていると人相の悪い男が何人か、俺をチラチラ見ながらひそひそとささやきあっている。そちらをじろりと見ると向こうも顔を傾けへらへらっと笑いながら睨み付けた。松坂新九郎と言う俺の体は生来喧嘩っ早いらしく、そっちに向かい歩き出す。中身の俺も大した違いはないらしく、すでに奴らを殴ると決めていた。


「おう、あんた。」


 そう声をかけた男をぶん殴る。


「何しやがる! 」


 そう叫ぶ隣の男にケリを入れた。そのころには「喧嘩だ! 喧嘩! 」と声がして野次馬が俺たちを囲みだす。残りの三人が真っ赤な顔で俺に殴り掛かった。

 その拳を躱し、腕を掴んで引き寄せて、その腹に膝蹴りを見舞う。掴みかかってきた次の男には頭突きをくれたやった。最後の男は懐の匕首あいくちを抜いたので、その腕を逆にねじりあげ、取り落した匕首の柄で首元を思い切り叩いてやった。5人の男がうずくまると、取り巻いた弥次馬たちから歓声が上がる。


「さっすがお侍様だ。ろくでなしどもなんぞ相手じゃねえってか? 」


「近頃じゃ、腰抜け侍が多い中、たいしたもんだ。」


 そんな称賛しょうさんの声を心地よく聞きながら振り返る、するとそこには鬼がいた。


「あっ、こりゃあ、勝の御隠居で。へへ、あっしらはこの辺で。」


 弥次馬も、俺にやられた奴らもクモの子を散らすように逃げていく。鬼の後ろからは榊原をはじめとした男谷の門弟たちが広がって、俺を囲んだ。


「いや、その、伯父上? これには深ーい訳があるんですよ。だよね、健吉? 」


 俺は縋るような目で榊原健吉を見た。その健吉はむずっとした顔で目をそらす。伯父上はそのでかい手で俺の額をガバッとつかみあげるとそのまま俺を引きずり歩いていく。


「なあ、新九郎。俺はなんて言った? 」


「あ、いや、その。」


 俺の額を掴んだ手にぎりぎりと力が籠められる。


「痛い! 痛いから! 」


「痛くしてんだ。当たり前だろ? おめえのようなクズには言葉じゃ伝わらねえ。そうだな、健吉? 」


「はい! 先生の好意を無にする振る舞いは許しがたく! 」


「今日は丁度3の日だ。虎のところでみっちりと性根を叩きなおさねえとな。健吉、おめえはこいつを連れてこい。他の奴らは道場に戻んな。こいつは手間賃てまちんだ。うめえそばでも食って帰るがいいぜ。」


 伯父上は門弟たちに一朱金を投げ渡し、「ご苦労だったな。」と言葉をかけた。俺はようやく大きな手から解放され、代わりに健吉ににらまれながら後をついてい行く。


「ねえ、伯父上。ところでなんでここが? 」


「決まってらな。吉原には顔が利く。ろくでなしどもはみんな俺の子分みてえなもんだからな。おめえが逃げるならここ、あたりを付けて使いを出してやったって寸法よ。」


 なるほど、吉原はすでに伯父上の勢力下って訳だ。


「ま、若えうちは女が欲しい。わからねえでもねえが、あんな安店に入り浸られちゃ俺の顔ってもんが立たねえだろ? 」


「だって、金少ししかないし。」


「道場から盗んだのがあんだろうが! おめえはそういう所が野暮やぼなんだよ! その金全部使って花魁でもげてみろってんだ。」


「もったいなくない? 」


「いいか、銭なんてのはその気になりゃいくらだって稼げんだ。おめえは部屋住み、厄介もんだ。この俺がそのうちにはそう言うのもしっかり指南してやるさ。」


「あはは、そうですね。」


 健吉に後ろから突かれるようにして連れていかれたのは浅草の島田道場。例によって伯父上はずかずかと道場に上がり込み、「虎! 」と道場主の島田虎之助を呼びつける。稽古の指揮を高弟に任せた虎之助さんが面を外してやってきた。


「どうした、小吉さん。」


「麟太郎から聞いてると思うがこいつの性根を鍛え直してほしい。」


「新九郎を? 男谷の先生は? 」


「あいつには剣を、おめえは柔術を叩き込め。剣もある程度は使えるし、喧嘩もそこそこはできるがまだ甘え。」


「そういうことかい。別に構わねえけど。俺は今の新九郎の腕を知らねえ。まずそこからだな。新九郎、おめえは防具を付けてきな。そこらにあるやつでいいから。」


「えーっ。まじでやんの? 」


「あっ? なんか文句あんのか? 」


「いいえ何も。」


「健吉、おめえはどうする? 」


「私はここで見取りを。」


「ならここで俺と一緒に見てろ。虎、悪いが茶が欲しい。」


「ん、持ってこさせるからそこの座敷で。」


 道場に併設された畳敷きの座敷に二人は移る。俺はその汗臭さに顔をしかめながら防具を付けた。





時代劇っぽくするとよくわからない言葉があります。それをここで解説を。


公儀……幕府のこと。


一朱金……16枚集めると小判一枚(一両)に変えてもらえます。小判は価値が変動しますがここでは4000文=一両として考えています。

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