2
それから、アレックスが家に来るようになって、1年くらいが経った。今はもう私の受験先も決まって、学校と家と塾の行き帰りが続いている。
その日、私は塾に行く途中、忘れ物に気がついて家に戻った。なんとなく恥ずかしくてそっと家に上がると、ダイニングから声が聞こえた。お母さんとアレックス、扉のガラスに影がちらちらと映る。
私は廊下で立ち止まった。くぐもった低い声が聞こえる。
「どんな感覚なのか忘れたな」
アレックスの声が響く。私は息を殺して体の動きを止める。
「あなたにとっては短い時間でしょ?」
「そうだなあ。もう歳を数えることがないからだけどさ、久しぶりにこの1年は長かった。珍しく働いてたからか?」
そりゃよかったわね、と母さんがため息をつく。
「で、出版の方はなんとかなりそうか、キミコさん?」
「今いろいろ編集さんと打ち合わせしてる。出版って意外と時間かかるのよ」
「うまくいかないなら、別に無理しなくていいんだぜ」
母さんのため息が聞こえる。
「……前も言ったけど、あなたの話を、ノンフィクションとして書くのは難しいから。創作なら娯楽要素をいれないといけないし、それは私の仕事だけど。まあ、満足いく出来にはなってるから」
「へえ、俺が生きてるあいだに、出版できるかな」
アレックスが両手で頭を抱える。その形の影が見える。
「あんまり聞いてなかったけど、あなた、これが終わったらどうするの?」
「さあ、どうしようか」
「……前は言ってたじゃない。自分の人生が残せたらもう死のうかって」
ピュー、とアレックスが口笛を吹く。
「最初はそのつもりだったんだけどな。なるべく区切りのいいとこで逝きたいし」
「少なくとも、本が出版されるまでは待つでしょ?」
「いや、俺にとっては、本ができるかどうかはどうでもいいんだ。あとはあんたの力を信じる。今のところ、俺はけっこう満足してるんだ」
「人気が出れば、続編だってオファー来るわよ。まだ書き足りないことだってあるでしょう」
「そこはホラ、キミコさんの腕の見せどころで」
沈黙。
「……勝手な人」
「まさかキミコさん、俺に生きててほしい?」
「私は出版のことが気になるだけよ。あなたが生を絶つのは別に反対じゃないの。こう言うと冷たく聞こえるかもしれないけど、そっちにも色々事情があるんだろうし、この仕事を受け取ったときから、これはあなたにとって遺作になると私は思ってたから。そのつもりで書いてきたし。
でも、アサミにはどう説明するの?」
会話が途切れた。アレックスの忍び笑いが聞こえる。
「それが問題なんだよなあ」
「あなたには色々感謝してるけど、私はあの子を説得する自信ないわ」
「参ったな。今までたくさんの女と一緒にいたけど、取り残されるのはずっと俺だったんだよな」
私はそこで呼吸が激しくなった。口を押さえて玄関まで足をひきずる。アレックスには立ち聞きがばれているかもしれなかった。そんなことはどうでもよくて、単純に泣きそうだった。
夜。塾からの帰り、自宅の最寄り駅に着くと、喫煙所でアレックスが待っていた。半そでの白シャツとジーンズ。せまい部屋の中で煙を吐いている彼を見ると、やっぱりどこか浮いて見えた。
1000年生きている男。この男を見ていったい誰がそう思うだろう。街の中に埋もれた男。誰にも見られていない男。
こちらに気がついた彼は、タバコを捨てて私と一緒に歩く。焦げた臭いが鼻孔の中に流れてくる。
「変なメール送ってこないでよ。こわいから」
「なんか送ってたか? 『迎えに行く』って送っただけだろ」
「それ全然できてないから」
アレックスは、電子機器の類がほとんどつかえない。半年前に一緒に買った携帯電話も、ちゃんと使えているとは言えない。彼の日本語の読み書きがへたくそなこともあって、メールは暗号みたいな文面になる。
1000年も生きているくせに、こういうことはダメだ。技術の進歩に適応していくのは得意なはずなのに。それだけ最近の技術の進歩が速いのだろうか。
それとも、もう技術を追いかけことのをやめてしまったのだろうか。
暗い夜道をふたりで歩く。目の前でスーパーの袋がバサバサと飛んでいく。アレックスは私の肩掛けカバンを持ってめんどくさそうに歩く。
「アサミ、受ける大学はどこだっけ?」
「一応、第一志望は東京の大学、って前にも言った」
「ほォ、そりゃ頑張らないとな。やっぱり将来は作家か?」
私は、この間の母さんとアレックスの会話を思い出していた。夜空を仰ぐ。
「わかんない。受かるかどうかもわからないし」
「そりゃなあ」
「ねえ、本ができたらどっか行くの?」
私はふと尋ねていた。こんなことを聞くつもりはなかったけれど、このままズルズルと見逃していたら、アレックスが突然いなくなってしまいそうだった。
彼は顔をきょとんとさせた。
「ああ、どうかな。俺も先のことはわかんねえな」
「……この世からさよならするっていうのは、本当?」
私は『死ぬ』という言葉を使いたくなかった。アレックスはポケットからタバコを取り出して口にくわえる。手持ち無沙汰になるとすぐこれだ。
「さあなあ。最初はそうするつもりだったんだけどな……途中でどうかなって思ったけど、やっぱり、死ぬかな」
「……なんで今?」
私は眉をひそめる。1000年も生きたんでしょ。ならよりにもよって、いま死ななくてもいいのに。
「なんでだろうな。あれだけど、結構、幸せなんだ。いま」
「幸せ?」
「まあ、俺の人生が本になって、1000年がムダにならずにすみそうで、いろんなやつに知ってもらえそうで、な。
あとまあ、おまえがそこそこ幸せそうだからな。いま逝くのが一番いいかなって思ったんだ」
私は目を見開いてアレックスを見た。私が幸せだから死ぬだって? どこを見たらそう思えるんだろう。
「最初に会ったときはおまえ、ゾンビみたいな顔だったぜ。母親とケンカしててな。今は受験先も決まって、前向いて、そこそこいい顔してる。まあ、一応キミコさんからもお礼言われてるし、俺でも人の力になれるんだなって、結構うれしかったんだ。そういう満足のなかで逝くの、一番いいんじゃないかと思って。
俺はたぶん、ずっと死に場所を探してたんだろうな。1000年も生きてると、どのタイミングで終わるのがいちばん幸せかって、そればっか考えるんだよ。言っちまうと、満足したときに死ぬのがベストだ」
「……何それ」
私はぽつりとつぶやいた。言葉が夜の空気の中に溶けていく。
「方法は?」
「ん?」
「……死ぬ方法」
「あー、たぶん、拳銃かなんかだと思うけど……」
一発で終わるし、とアレックスはつぶやく。私はアレックスの顔を見ることができなかった。パスポートすら偽造してしまう彼だ。拳銃を手に入れるなんてわけないのかもしれない。誰もいないところで、彼がこめかみにピストルを当てているところを想像する。
気持ち悪かった。アレックスが死ぬのは、私のせい。私が幸せになったからだって? それなら、私が苦しんでたら、死ぬのをやめてくれるのだろうか。私が死んだら、彼は代わりにずっと生きてくれるのだろうか。今の私だったら、喜んで命を投げ出すと思う。
色々な感情がふつふつと湧き上がってくる。単純に、アレックスがいなくなる悲しさと、認めたくない気持ちと、私のわがままと。私は認める。アレックスにそばにいてほしい。でも、彼の1000年に比べれば、わたしのわがままは、とても小さくてくだらないことなんだ。
アレックスは短く、悪い、とつぶやいた。別れるとわかっていたら、これ以上一緒にいたってしょうがない。そうだろうか?
これから死のうとしている人に、私は何をすればいいのだろう。