1.窓際の一番後ろ
1.窓際の一番後ろ
父が脱サラして田舎暮らしを始めた。母の実家があるこの土地で畑を耕し自給自足の生活を始めた。
毎日疲れ果てた夫の姿ばかりを見続けてきた母は、ある日、突然、発した夫の言葉に驚いた。けれど、その言葉を聞いた瞬間、夫に抱きついて涙を流した。
「なあ、お前の実家は農家だったよな?俺も田舎で畑でも耕しながら暮らしてみようかな…」
僕が幼稚園を卒園すると、親子三人、母の実家の離れに移り住むことになった。
新学期、僕は第五小学校に入学した。幼稚園の行事には一度も来たことがなかった父も、母と一緒に入学式に来た。式が終わると校門の前で記念写真を撮った。その後、この町で唯一のファミリーレストランで食事をした。
「真一がママと同じ第五小学校に入学するなんて、なんだか不思議」
「そうか!ママも第五小学校か」
「そうよ。真一の担任になった沢田先生、私の同級生なのよ」
「そりゃあ、何かと心強いな」
「どうかしらね。彼、子供の頃はいじめられっ子だったのよ」
「まさかママがいじめていたんじゃないだろうな」
「まさか」
二人はそんな話をしながら声を出して笑った。父と母がこんな風に楽しそうに話をしているところを僕は久しぶりに見た。
最初にできた友達は陽子ちゃんだった。陽子ちゃんは僕が住む家の隣に住んでいて、母の初恋の人だという横山さんちの末っ子の女の子だった。学校でも席が僕の隣だった。
「しんちゃんって東京に居たんでしょう?東京ってどんなとこ?」
「別に大したとこじゃないよ」
「ふーん、でも、ディズニーランドがあるんでしょう?行ってみたいなあ。しんちゃんは行ったことある?」
「あるよ」
「いいなあ」
「陽子ちゃんは行ったことが無いの?」
「だって、遠いんだもの」
「じゃあ、いつか僕が連れて行ってあげるよ」
「ホント!約束よ」
僕が東京に住んでいたというだけで、クラスのみんなは僕をヒーローのようにもてはやしてくれた。こうして、僕はこの田舎の学校に少しずつ馴染んでいった。
一学期が終わろうとした頃だった。国語の授業中にふと、窓の外に目を向けようとした僕の視線に映ったのは一人の男の子だった。その男の子は窓際の一番後ろの席に座っていた。
「あれっ?こんな子いたかなあ…」
その子は教科書も出さずに、ただまっすぐ前を向いて座っている。教科書を持ってくるのを忘れたのだろうか…。
「真一くん、よそ見しないのよ。続きを読んで」
先生に声を掛けられ、僕は慌てて立ち上がった。教科書をめくってみたけれど、どこから読んだらいいのかわからない。すると、隣の席の陽子ちゃんが自分の教科書を差し出し、どこから読めばいいのかを教えてくれた。
その日の帰り道、僕は窓際の一番後ろに座っていた男の子のことを陽子ちゃんに聞いてみた。
「窓際の一番後ろの席の子って知ってる?」
「あたりまえじゃない。里中くんでしょう。それがどうしたの?」
「違うよ。里中くんの後ろの子だよ」
「何言ってるの?里中くんの後ろなんて誰もいないじゃない」
「えっ?」
「なんだ、しんちゃん、夢でも見てたの?それで、国語の時間にどこから読めばいいのかわからなかったんでしょう?」
「…」
そんなはずはない。その子はその後もずっとそこに居た。僕たちが帰る時もそこに座って居た。
「授業中に居眠りするなんて、良くないよ」
「別に居眠りなんかしてないよ」
僕は強い口調で陽子ちゃんに言い返すと、あっけにとられている陽子ちゃんを置き去りにして、駆け出した。
次の日、僕は朝ご飯も食べずに家を出た。学校に着いて教室に入ると、その子は既にそこにいた。昨日と同じ服を着て昨日と同じようにまっすぐ前を向いて座っていた。僕はその子に近づいて声をかけた。
「おはよう」
その子が僕のほうを見た。そしてにっこり笑った。
「僕が見えるんだね…」
不思議なことを言う。僕はそう思った。だって、その子はすぐそこに居るのだから。
「あまり僕のことを見ないほうがいいよ。だって、僕はここに居ないんだから」
「えっ?」
ここに居ないとはどういうことだろう?可笑しなことを言う子だ。
「ねえ、名前は?」
僕はその子の名前を聞いてみた。
「名前かぁ…。しばらく名前なんか呼ばれたことがないから忘れちゃったなぁ…。君の名前は?」
「僕は野村真一」
「真一くんか。じゃあ、僕は真二でいいよ。うん!真二にしよう。いい名前だ」
「ふざけないでよ」
「ふざけてなんかいないよ。そう言えば、元々、僕には名前なんか無かったのかもしれない…」
僕は何が何だかわからなかった。そうこうしているうちに人の気配がした。
「僕はここには居ない。わかったね?」
その子は念を押すようにそう言うと、また、まっすぐに前を向いた。
がやがやと話し声を弾ませながら、何人かのクラスメイトが教室に入ってきた。
「おはよう!しんちゃん、早いね」
「おはよう…」
僕は何事もなかったかのように挨拶を返した。
「ねえ…」
僕は真二と名乗った子のことをみんなに聞いてみようかと思ったけれど、「僕はここに居ない」と言うその子の言葉を思い出して口を閉じた。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
僕は黙って席に着いた。すると、少し遅れてやってきた陽子ちゃんが心配したように話しかけてきた。
「おなか減ってない?」
「はあ?」
「だって、朝ご飯食べなかったんでしょう?」
「これ…」
陽子ちゃんは握り飯を差し出した。
朝、いつものように僕を迎えに来た陽子ちゃんは僕が朝ごはんも食べずに学校へ行ったと聞かされたのだそうだ。それで、一度、家に帰ってこの握り飯をこさえてきたらしい。何とも不格好な握り飯だったけれど、それを見たとたんに僕のお腹はギュルルーと鳴った。
僕は真二くんのことが気になって仕方なかったのだけれど、なるべく意識しないように過ごした。そして、ついに夏休みがやってきた。