12.真夜中の攻防
12.真夜中の攻防
夕食が終わると、洋兄ちゃんは「陽子を頼む」そう言い残して帰って行った。陽子ちゃんは心細そうにその後ろ姿を眺めていた。
「さあ、宿題をやっちゃおう」
僕たちは広間の茶卓で宿題の算数ドリルと漢字の書きとりをやった。算数が得意な僕があっという間に問題を解くと、陽子ちゃんは悔しそうに残った問題を必死に解こうとした。
「見せてあげようか?」
「いい!」
陽子ちゃんはそう言って最後まで自分で問題を解いて見せた。
宿題をやっている間も僕たちはずっと手をつないでいた。陽子ちゃんが左利きだったので鉛筆を握っていてもそうすることが出来た。宿題が終わると、僕たちは僕の家族と一緒にテレビを見た。その間も陽子ちゃんが僕の手を離すことはなかった。
「お風呂が沸いたけど、どうする?」
母がそう言ったけれど、僕は「今日はいいよ」と答えた。陽子ちゃんが僕の手を離すのを不安がると思ったから。
「私入りたい…。お風呂入りたい」
小さな声で陽子ちゃんが言った。
「でも…」
「一緒に入ろう」
「そうそう、もったいないから一緒に入っちゃいなさい」
母は笑いながらそう言った。母にしてみれば小学1年生の男女に“男”と“女”という関係など全く気にもしていなかったのだろう。けれど、僕は恥ずかしくて仕方がなかった。
「お願い…」
陽子ちゃん懇願するような目で僕を見た。その時、声が聞こえた。
『離しちゃだめだよ』
真二君の声だった。その声が何を意味するのか僕には解かった。僕たちは二人で風呂に入ることにした。僕はその時、初めて母以外の女性の裸を見た。抱き合うように湯船に浸かって、お互いに体を洗った。風呂からあがるとそのまま僕の部屋へ行った。既に母が布団を敷いていてくれた。僕たちは手をつないだまま横になった。色んなことを考えながら、しかし、僕はすぐに眠りに落ちた。
陽子ちゃんと信二君が学校を出ようとすると、急に辺りが暗くなった。真二君は誰かに引っ張られるように陽子ちゃんのそばから引き離された。
「お母さん!」
「真二!」
陽子ちゃんは必死で真二君の後を追った。
空気が異様に重苦しくなった。僕は授業を放りだして廊下へ出た。真二君の叫び声が聞こえた。声がした方へ僕は走った。真二君が宙に浮いたまま何かに引きずられるようにプールの方へ消えた。陽子ちゃんが後を追うのが見えた。
「陽子ちゃん!」
「しんちゃん!」
僕は陽子ちゃんと合流すると、陽子ちゃんの手を取った。あの時と変わらない柔らかい手だった。
「行き先は判っている」
真二君の声だった。
「ポンプ室」
「ポンプ室!」
僕と陽子ちゃんはそう確信して頷いた。
夜中にふと目が覚めた。僕は動くことも声を出す事も出来なかった。左手にあるはずの感触が感じられない。僕は目だけを動かして隣を見た。その瞬間、心臓がとまるほどの衝撃が僕を襲った。陽子ちゃんの小さな体がはち切れそうなほどに肥大していたのだ。全身が痣に覆い尽くされるように黒くなっている。
「しんちゃん、助けて…」
消え入るような声で陽子ちゃんが僕に助けを求めている。まだ、痣に侵されていない左手を必死で僕の方に伸ばしている。けれど、僕は動くことも叫ぶことも出来ない。その時、部屋の窓が開いた。学校の用務員さんが窓から入って来た。そして、陽子ちゃんを羽交い絞めした。すると、僕は動くことが出来るようになった。すぐに陽子ちゃんの手を掴んだ。
陽子ちゃんを覆っていた痣は用務員さんの中へ吸い込まれていく。用務員さんの体が黒くなったり白くなったりしている。そして、もがき苦しむように床に膝まづいた。しかし、その眼光には力強い光が宿っていた。用務員さんは力を振り絞るようにして窓から外へ出て行った。
「あとは任せて。もう、大丈夫だから。しんちゃん、君に会えて本当によかった」
用務員さんはそう言うと、もがきながらも学校の方へ歩いて行った。いや、あれは用務員さんの体を借りている真二君に違いない。
陽子ちゃんは意識を失っている。肩にあった痣はもうなくなっている。僕は真二君のことが気がかりだったけれど、陽子ちゃんのそばに居てあげることにした。真二君はもう大丈夫だと言った。だったら、信じよう。今僕に出来ることは陽子ちゃんのそばに居てあげることだから。
翌朝、洋兄ちゃんが迎えに来た。
「陽子、真一!迎えに来たぞ」
僕の両親に通されて洋兄ちゃんは僕の部屋までやって来た。陽子ちゃんの意識はまだ戻っていない。静かに横になったままだ。
「おい!陽子?どうしたんだ?まさか…」
洋兄ちゃんが僕の顔を見た。
「真一!どうなってるんだ?説明しろよ。陽子は大丈夫なのか」
僕は昨夜の出来事を洋兄ちゃんに話して聞かせた。そして、陽子ちゃんの痣が消えていることも説明した。
「本当だ。じゃあ、大丈夫なんだな?」
「うん、僕は陽子ちゃんが目を覚ますまでここに居る。それで、洋兄ちゃんにお願いがあるんだけど…」
夕方になっても陽子ちゃんは意識が戻らない。でも、その顔は穏やかで微笑んでいるようにも見える。僕はずっと陽子ちゃんの手を握りしめていた。
「真一、お前の言う通りだった」
洋兄ちゃんが学校から帰って来た。
「用務員のおっさん、今朝、あの部屋でぶっ倒れていたらしいぜ。美術の吉田先生が登校して来て見つけたらしい。吉田先生が驚いて大騒ぎしたらしいけど、おっさん、何も覚えていなかったって話だ。ただ、筋肉痛がひどくてまともに歩けなかったらしくて今日は休んでもらったって」
「僕たちの教室は?」
「ああ、窓際の一番後ろの席か?」
「うん。どうだった?」
「普通に、里中ってやつが座ってたけど」
「そう…」
やっぱり、あの席は僕にしか見えないんだな…。




