第一話 『爽やかな空、難行苦行の起床』
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私こと天野 歩翔は朝というものが大嫌いだ。
カーテン越しの陰鬱な木漏れ日。朝を告げる小鳥のとがり声。隣の家からは、今年晴れて幼稚園に入園した翔太君の大咆哮……。
最後のは朝とは関係ないが、まあいいだろう。
とにかく、朝の一体全体何が良いのか私にはさっぱりわからない。
神様とやらがいるのならば私は問いたい。どうして朝、昼、晩と一日が三つの時間帯に分かれるようなシステムを作り上げたのだろうか。もう昼と夜だけでいいじゃないかと私は思う。
朝なんて人を不機嫌にさせる要素がありすぎる。眠たい、食欲無い、学校行きたくない、と素敵な三拍子が揃っているのだ。
早起きは三文の徳、なんて諺があるけど、誰か私に朝の素晴らしさとその諺についてご高説頂けないだろうか? 出来れば作文用紙二枚以内で分り易いものを求む。
「はぁ、起きちゃったものはしょうがないか。
う~、朝起きて最初にやることが大自然へのいちゃもんだなんて……自己嫌悪」
一日の始まりがこんな調子ではこの先が思いやられる。
この後、いつも通りに学校があるのだ。しかも、昨日終わらなかった仕事も残っている。それ以外にも打ち合わせとか準備とか、とにかくやらなければならないことは沢山ある。
全て投げ出して遊びに行きたいと願う心を自制して、諦めの溜息を吐くことで無理矢理我慢した。
「はぁ、私に平穏はやって来ないのかしらねぇ」
おぉ、ゴッド! 私はただ普通の女の子として、平和に暮らしていきたいだけなのです。それなのに何故このような仕打ちを……ッ。
シスターのように両手を合わせて木漏れ日の照らす窓へと身体を向けるが、そこで私の寝ぼけ眼が捉えたのは汗ばんだ両手だった。
まさかと思ってシーツとパジャマを触ると、これまた汗でびっしょり。これは学校に行く前に洗濯機の中に放り込む必要がありそうだ。
原因は昨夜の夢だろう。今回のは特に夢見が悪かった。
夢なんて記憶に残るものは少ない。
起きる寸前まではしっかり夢を見ている感覚はあっても、目が覚めてしまうとそれがどんな夢だったのかは途端に思い出せなくなる。
夢というのは結果の印象が強い。終わりよければ全て良し、というわけではないが、結果に満足してしまうため、そこまで至った過程が薄れてしまい、内容が曖昧になる。しかし、悪夢は結果よりも内容の方がより大きなインパクトを体験者に与えるため、内容をより鮮明に記憶に残し、結果を陳腐なものへと変換する。
まぁ、いろいろ御託を並べたが、詰まる所今回私が見た夢は後者のものだ。
――真っ暗だった。ただ、ひたすらに”黒色”が世界を包み込んでいる。
そこには私だけではく、どこにいるかは解らないが他に何人かいるようで。
度々、金属音が鋭く響く。同時、音源で発生した火花で辺りがほんの一瞬だけ色が付く。
そこで私は見た。
お互い、手に持つ何かをぶつけるふたりの人間。
突き破られたアスファルト。
引き裂かれた樹木。
燃え盛る街並み。そして、地面に転がる――
「……ッ」
思い出そうとした時、私の頭がズキリと傷む。
これ以上は考えるなと脳が警告を発しているのだろうか。それならば本能の赴くままに、無かったことにしようと思う。なんだか気分も悪いし。
深呼吸の代わりにちょっと深めの溜息を吐く。
やはり、朝はまだ寒いせいか肺に入ってくる空気が刺々しい。冷えた酸素で満たされた我が呼吸器は、それを活力とばかりに盛大に活動を開始する。
心臓の鼓動が一層大きくなる。今取り込んだ酸素を体中へと運び、無理矢理私の意識を覚醒させる。ドクン、ドクンと脈打つ鼓動を感じながら私は「起きるの面倒くさいなぁ」と独りごちる。
そんなことをしていると待ちに待った出番だと言わんばかりに目覚まし時計が机の上で騒々しくガタガタと鳴り響いた。
「あぁー、わかったわよ……。今起きるからちょっと待ってなさい」
毎朝六時二十分にセットした目覚まし時計も私の機嫌を損ねる要因の一つだ。
もぞもぞと布団の中で蠢いた後、未練が残らぬように布団を蹴り上げて一気に身体を起こす。
目覚まし時計には仕返しとばかりに憎しみを込めてボタンを思い切り叩く。断末魔とばかりに最後に軽く、リン、と鳴くとそれ以降は静かになった。
私はそれを横目で見ながら窓の前に立ち、カーテンを開けた後、大きく伸びをする。関節がコキコキと悲鳴を上げるところをみると、疲れが溜まっているのだろうか。それとも私の寝相が悪いのだろか……。まぁ後者は考えないでおこう。とりあえず、これからは寝る前にストレッチをしておこうと思う。
フラフラと起き上がった私は机の上のメガネを取り、朝の支度をするために洗面所へと向かう。
――余談ではあるが、私の部屋は家の二階にある。洗面所は一階にあるため階段を降りる必要がある。
しかし、さっきも言った通り私は寝起きがとても悪い。起きて不機嫌になっている上に半分寝ぼけているため、よく階段の最後の段差をすっ飛ばして降りる。自分としては最後の段差のつもりで足を運んでいるのだが、実際には二段分の高さがあり、気が付かないままストンと落ちてしまう。そうなると驚きながらも着地できる時とそうでない時があり、今日の私はかろうじて前者だった。まったく、朝から心臓に悪い体験をした。
お風呂場横の洗面台に到着。
蛇口を捻って出てきた水は春を少し過ぎた今でも冷たく、私の寝ぼけた頭を叩き起こすには最適だった。
「っぷぅ……」
お湯はお肌に悪いと聞いた時から洗顔には冷水を使うようになった。お陰様で締りのあるピチっとしたお肌を手にすることが出来たのだが、やはりこの時期は堪えるものがある。
早く暖かい季節が来てほしいと切に願う。
さて、洗顔の後は朝食の準備だ、と言っても、私は基本的に朝はあまり食べない。
そのため準備と言えるようなことは特にないのが現状。
冷蔵庫をモゾモゾと漁り、野菜室からキャベツを取り出す。それをちぎって皿に盛れば朝食の完成だ。気分によってはこのメニューにヨーグルトが付くときもある。
簡単でしょ? お通じのためにキチンと野菜だけは摂取している。
本当はキチンと栄養を取るべきなのだろうが、この食生活を何年も続けているので今更キチンとした朝食を取る気にもならない。
ようするに私は面倒くさがりなのだ。
モシャモシャとキャベツを咀嚼し、コップに並々と注いだ牛乳を一気に飲みほす。
これで私の朝食は終わり。
後片付けを終わらせれば残るはシャワーと身支度のみだ。
壁に掛かった時計を見ると時刻は六時三十分。七時には家を出れば学校には間に合うから、少し余裕が出来た。
え? 女の子なら身支度には時間が掛かるだろうって? いや、だってお化粧とかよく知らないし……。ていうか、お化粧をしている時間を私は睡眠に回したい。学生なんだから、色恋沙汰に現を抜かさず、自分の輝かしい将来を想って勉強すべきだと思うのだよ私は! ……でも彼氏はちょっと欲しいかも。
なんてくだらないことを考えていくうちに時間は過ぎていく。時計は四十五分を刺している。出来た余裕は全て妄想に回ってしまった。
「うわっ、ちょっと余裕かまし過ぎた!」
バタバタと走って向かう脱衣所。
眼鏡は洗面台の上に置き、汗まみれのパジャマを洗濯籠の中にダンクする。シャワーの温度は少し高めに設定し、サッと浴びる。
後は下着を付けて制服に身を通せば私の身支度の出来上がりだ。おっと、髪を乾かすのを忘れていた。
「行ってきまーす」
七時三分前には全ての支度が終わった私は鍵をかけたかキチンと確認した後、意気揚々と家を出る。
私の家から学校までの距離はそう遠くはない。歩いて十分もすれば校門へとたどり着くのだからむしろ近いと言えよう。
距離の近い学校。ちょっとだけど余裕ある出発。朝食は既に摂取済み。これだけ条件が揃えば、遅刻寸前でパンを咥えた私が曲がり角でぶつかった男子と口論の果てに仲良くなるなんてベタベタな恋愛ストーリーが成り立つという奇跡は起きない。
昔、そんな展開が私にも降って来ないか期待して、曲がり角の部分で待ち続けた結果誰もそこを通らなかったなんて黒歴史があるくらい私は男と縁がない。
そりゃ自分がどことなく地味な存在であるということはある程度自覚しているし、お化粧や服装といった外見に関しても無頓着な所があることも原因のひとつであることを理解してはいるのだ。
「わかっているのなら行動をすればいいじゃない!」なんて友人に言われたこともあった。でも、さっきも言った通り私は基本面倒くさがりなのだ。やってやろうと思っても三日坊主が関の山。だから私は自分らしく気ままな日々を送ることを選び、それを良しとした今の生活を気に入っている。
慌ただしい朝を迎え、学校では友人との会話に華を咲かせる。放課後には思い思いの時間を過ごし、帰宅したらあっつーいお風呂にザバっと入った後、美味しいご飯をお腹いっぱい食べてテレビを見て笑って寝る。平凡で刺激なんてこれっぽっちもない日常。
――でも私はそれがいい。
スリルなんて映画やドラマの中だけで結構。私は私なりの普通が欲しい。
「しあわせは~歩いてこない だ~から歩いてゆくんだね~ってね」
最初の歌いだししか知らない三百六十五歩のマーチ。
誰しも印象強く残るフレーズを口ずさみながら私は学校への道のりを歩いていく。
上機嫌に鼻歌まじりで学校に到着したのは七時十分。校門をくぐり、教室に向かう前に私はとある部屋へと向かう。
ガラリと扉を開けた先にあるのは、二つの長机が並べられた会議室のような部屋。
部屋の上には生徒会室と書かれたプレートが埃まみれで鎮座している。
少し早すぎたのかまだ誰もこの部屋に来てはいなかった。
壁に立てかけられたパイプ椅子を出して組み立てる。寒い所にあったせいで座るシートの部分がとても冷たいが、我慢するしかあるまい。立ちっぱなしで作業するのも変だし。
長机の上には昨日まとめていた各部活動の今年度の上半期予算案の原稿が乱雑に並べてある。私はそれをかき集め、約二十枚ほどの紙の束になった原稿に間違いがないかもう一度確認といことでサッと目を通す。
ゆっくりと、時間をかけて数字の桁やら部活動の名前やら去年との差額やらを一つ一つ確認していく。
特に目立ったミスもなく、これなら会長に提出しても大丈夫だろう、とホッと一息つくと、聞きなれた音が直上で鳴り響いた。
壁にかけられた時計を見ると針は七時四十分を示している。
私の学校では七時四十分からHRが始まり、五十分には授業が始まる。朝が早いせいか、帰宅時間も他の学校に比べて幾分か早い。
何故会長は生徒会室に来ないのか、なんて疑問は置いておく。今更だが、あの自由気ままな人には何を言っても無駄だろう。
小走りで廊下を高速移動し、担任の先生が来る前に自分の座席に無事――最後の方はスライディングに近い形だったが――着席することに成功した。
HRは担任のどうでもいい連絡事項から始まる。明日は避難訓練があるとか、部活動予算案承認決議の集合時間と場所とか、いろいろな情報が生徒に伝えられていく。
教室では話にしっかりと耳を傾ける者。友達と喋っている者。提出物の写しをしている者。寝ている者とその過ごし方は千差万別だ。
私はというと、担任の先生の声が子守唄となって私の耳をくすぐる。ついついウトウトっとしてしまい、何度も船を漕いでしまう。
私は今日もまた何もない平和な一日が始まるのだと思うと眠気に誘われつい気持ちよくなってしまうのだった――。