第零話 『改変の時、魔女の存在』
――夜。
太陽が地平線や水平線の下にあるこの時間帯では、人の手によっては決して抗えぬ暗闇が天を支配する。
それは、ある者にとっては安らぎの時であり、ある者にとっては休息の時であり、またある者にとっては恐怖の時ともなる。
街は人と同じくして眠りにつき、それに伴い音は消え、視界は塞がる。
たとえ街に明りが灯ろうとも、全てを照らし出せるほど人間の力は万能ではない。
故に日中とは相容れぬ、別空間が自然とそこに出来上がる。
青色から黒色へと塗りつぶされた空は生物の動きを鈍化させ、束縛する。
草木も眠る丑三つ時。この時間帯は特に色が濃く、深くなる。
自ら進んで外を闊歩する者などまずいないだろう。
いたとすれば酔漢や遊び人の類か、もしくはその”筋”の者か。
どちらにせよ、碌でも無い者ばかりなのは間違いないだろう。
さて、前置きはこのくらいにして本題に入ろう。
今回はその碌でも無い者たち――丑三つ時こそを真に生きる狂人たちの話をしよう。
昼は昼。夜は夜、といった風にいくつもの自分を使い分け、一般人に紛れて暮らす彼等の騒がしくも痛快な劇をご覧に入れよう。
……ふむ、舞台の準備が整ったようだ。
では早速だが役者諸君、物語を始めようか。
最高の悲劇を、最低なシナリオと共に皆様にお届けしよう。
◆
その日、天を覆っていたのは闇だった。それも纏わり付くような重苦しい雰囲気を持った晦冥だ。光という光を飲み込み、陰湿な空気を吐き出す雲は生物さながらに蠢き、新たな光を求めるかのようにその怪異な体躯を走らせていた。
そんな雲の下で煌々と光を放つ大きな街がある。
街の中央には線路の束の集う場所に大きな白亜の建築物がある。それは地上七階建ての駅ビルだ。
まだ終電と言える時間ではないというのに駅に人影はない。
駅だけでなく周りのビルやコンビニエンスストア。ありとあらゆる場所からは人の気配すらしない。
すべて無人。音も動きも何もない世界。粛々たる空間がそこにはあった。
しかし、それは突如として破られる。
静寂を砕いたのはガラスが割れる音だった。
駅ビルの南口の二階部分。
二人の人間が息を荒げながら走っていた。ガラスに映るシルエットは女性と子供のものだ。
走りながら、何度も何度も後ろを振り返る。
二人が走っていた道は次第に靄のような闇へと飲み込まれていた。
何故このような場所にふたりがいるのか。それは本人たちにもわからぬことだった。
気が付いたらココにいた。気が付いたら何かに追われていた。
何故自分たちが追い回されているのか、何に追われているのか、何も分からぬまま必死に走り続けていた。
駅ビル内部。
必要最低限の明かりが灯るエスカレーターの踊り場。そこにひとつの影が、荒い息とともに足を止めていた。
小さな非常灯の下、髪を乱した姿は三十代前半とみられる女性と、五歳くらいの少年だ。
少年を抱えて立ち止まる。体を前に折りつつ、唇が言葉を音無く作る。
「なんなのよ……いったい、あれは」
腕の中の少年を抱きしめる力が強くなる。
――さっき見たのは夢だった。だから、自分たちは大丈夫。
何度自分に言い聞かせても、身体の震えが止まらない。それに、本能的に"アレ"に追いつかれてはならないと警告が頭の中を駆け巡る。
息をつくと、応じるように頭上で音が響いた。
直上、天井の向こうを杭打つように足音が近づいてくる。
彼女は再び少年の手を取り、エスカレーターへと身を躍らせた。
下へ行くことを選び、アルミのステップを駆け下りていく。
走り降りる自分の足音。それと重なるように、上から足音が聞こえる。
だが、そこで全ては終わらない。
外だ。ビルの南面側、先程自分達が必死に駆けていた方向。
そちらにひとつの音が近づいてきた。深く長く広く響く低い音。
「……何?」
そう身構えた直後。
「――a、g、Arrrrrrrrrrrrrrrrrrr!」
雄叫び。獣の如き叫喚。
ビルが殴られたように横へ振動。窓ガラスはひとつ残らず粉々に砕け、床には亀裂が入る。揺れは断続的に続く。
「――ッ!?」
全身が震えて総毛が立ち上がった。足など一瞬で止まる。
咄嗟に砕け散る窓ガラスから身を盾にして少年を守る。
身体に聞こえる重音は東に通過。
揺れる建物も落ち着きを取り戻し、また元の静寂を取り戻している。
沈黙……。
気付けば音から解放されていた。
身を一度震わせ、踵をステップ。足に血を供給し、腕には子を守る力を宿し、意思は前に進むことを望む。
ココに居てはいけないと駆け出した。
息を吐き、下を見ればエスカレーターはあと数段で終わり。
急げと感情が、身体が叫ぶ。理性と言うよりそれは本能に近い。
最早エスカレーターは駆け下りるのではなく、飛び降りているに近い状態だ。
一階に到着。このままどこかに隠れるべきかと思案する。
しかし、視界から得た情報が思考を止めた。視界にわずかな闇がかぶっていたからだ。
それは上から、エスカレーターの吹き抜けからの影。
耳の中、上で響いていた足音が消えている。
――何かが
来る、と思ったときには既に身体が動いていた。
少年の頭を抱え、出口に向かって思い切り跳躍。擦り傷が出来ることもかまわず、飛び込んだ。
直後、先程まで自分が立っていた場所には人の姿をした影が轟音と共に着地をした。
その細く伸びた腕らしき部分は軽々とアスファルトの床を貫き、大きな穴を開けている。
歪んだビルとその影を尻目に二人は走った。
後ろからは底知れぬ恐怖。
暗闇の中、得体のしれない影が自分たちにその鋭利な凶器を向けている。
外に出たからだろうか。影を纏う何かが月明かりに照らされ薄らとではあるがその姿形を垣間見る。
影は人であった。
表情はない。眉一つ動かさず、その濁った眼でこちらを見てくる。
生気のない瞳。感情などソレにはなく、ただの操り人形のようだ。
二人は走る。姿が見えたところでどうすることも出来ないのだ。今はこの場から逃げ延びる以外に選択肢など存在しない。
影はすぐさま追いつこうとはしなかった。
しかし、徐々に徐々にその距離を詰めていく。
開いたと思った次の瞬間には先程よりも二人に近い位置に立っている。
ようは楽しんでいるのだろう。追いかけられる側に勝ち目は万に一つとない、この出来レースを。
走り始めて二十分も経った頃か。ついに女性の身体が悲鳴を上げた。
足がもつれ、無様にも転倒する。
走れと頭が信号を送っても小刻みに震えるばかりで足は言うことを聞かない。それに、転んだ際に足を捻ってしまったようだ。関節部からズキリと鈍痛が走る。
もう限界なのだ。
成人してから全力疾走どころか体を動かすことなどまずなかったし、更に今回は少年を抱えて走り続けいた。
結果、足はパンパンに腫れあがり、痺れるような感覚が下半身全体を覆っていた。
「お、お母さん!」
腕の中にいた少年が叫んだ。心配からか、恐怖からかはわからないが、目に涙を溜めている。
「お母さん、足を挫いちゃったみたい。後で追いつくから」
先に行きなさい。
悲しくないと言えば嘘になる。
けれどせめて、せめてこの子だけでも生きていてくれれば……。
彼女の想いとは裏腹に、少年は彼女の腕にしがみつき「いやだ」と言った。
彼女にはその言葉が嬉しくて、同時に悲しいものでもあった。
ついにあの足音がしなくなった。
振り返れば、すぐ後ろには自分たちを追いかけてきた”何か”が立っていた。
黒ずんだ肌。ただ一点を見続ける淀んだ眼。閉まらずに開け放たれた口からは緑の吐息がもうもうと漏れている。ダランと下げられた腕には所々に切れ目や穴。糸で縫い合わせてある箇所もいくつか見受けられた。
それは二人の前に立ち尽くすだけで何もしない。
ただじっと佇んでいる。面白がるわけでもなく、感傷に浸るわけでもない。
主の命令を待つ犬のように、ひたすらに何かを待っているように。
待つ理由は何だろうと、いつかは殺されることに違いはないだろう。
しかし、足がカタカタと震え、立つことすらままならない。
恐怖で一杯になった頭で必死に思考を行うものの、頭の中は真っ白。何も思いつかない上に、考える余裕もない。それでも彼女は生きるために、その恐怖から逃れるために頭を動かし続けた。
だが、その思考は暗がりから聞こえたアスファルトの地面を打ち鳴らす音で中断させられる。
コツ――。コツ――。コツ――。
音の正体は靴だ。
誰もいないはずのこの場所に人がいる。助かるかもしれない。
そんな淡い期待を胸に、彼女は音のするほうへと身体を向けた。痛む足を引きずりながら。
現れたのは、黒いコートを羽織った長身の男だった。
被られた帽子は目深でコートの襟を立てているせいか顔を見ることが出来ない。
コートの下より男の片腕が持ち上げられた。
ゆるり、と左腕を肩と水平になるまで持ち上げる。その掌は力なく広げられており、遠くの誰かを呼び止めるような、そんな仕草に似ていた。
男は何かを握り潰すように開いていた掌をぐっと握る。
直後、立ち尽くすだけだった人形がゴギリと気味の悪い異音をたて、動き出した。
「……追いかけっこは終わりか?」
底知れぬ冷徹さを持った、ドスの利いた声。
男は二人の味方ではなかった。
命を狩ろうする者。二人を追いかけまわしていたものの正体。
「う、ぁ………」
声など出せるはずがない。完全に男の持つ雰囲気に呑まれてしまった。
頭の中は真っ白で、何も考えられない。
真っ白な頭の中に文字が浮かび上がった。
――死にたくない。
――まだ生きていたい。
「やめろ!お母さんにいじわるするな!」
少年が叫びながら人形と母親の間に割って入り、人形の動きを止めようとする。
それを見た男は少年をギロリと睨むと、握りしめた掌をゆっくり解く。
それに応じて隣にいた人形は力なくダランとその身体を垂らした。
「そんなに母親が好きか?」
男はそう問うた。
少年は何も言わずに、ただ泣きながら頷くだけだ。
そうか、と男は懐かしむような、それでいて哀しい眼で少年を見る。
「……誰も助けられない、己の無力さを嘆くがいい」
男は深く息を吸うと、ためらいも無く腕を振い人形を操った。
伸ばされる継ぎ接ぎの腕。
少年のか細い首を捻じ切ろうとその黒ずんだ手を伸ばし、喉にその爪先が触れた――
瞬間、
一筋の光が人形の腕を薙ぎ、アスファルトの地面に突き刺さる。
そして少年は、その間に入ってきた何かに抱かれその場から一気に離脱した。
「……間に合った。もう大丈夫だからね」
少年を抱き抱えたその人はメガネをかけブレザーの制服を着込んだ、コレと言った特徴のない地味な少女だった。
少女の優しい声を聞いた少年は一度頷くと安堵したのか静かにその意識を手放した。
「けっ、イラネェ仕事増やしやがって。そんなことやってっから必要のないモノまで背負い込む羽目になるんだ。わかったかボケナス」
その反対側、コートの男の背後からは腰に刀の鞘と思わしきものを引っ提げた荒々しい青年が少年の母親を抱えて、愚痴を言いながら立っていた。
母親を近くにあったベンチに寝かすと、懐に手を突っ込みタバコとライターを取り出して徐に吸い始める。
母親の方も少年同様、既に意識を無くしているのか横たわったまま起きてこなかった。
黒いコートの男は、乱入者ふたりを睨む。
しかし、その表情には焦りがなく、むしろ嬉々としているようだ。
「これはこれは、思っていたよりも大物がかかったようだ。海老で鯛を釣るとはこういうことを言うのかな」
男は品定めをするかのごとく、上から下まで舐めまわすように少女と青年を観察する。
男の目にはすでに親子は見えていない。
あの親子は少女と青年を誘き寄せる”餌”としては十分に役立った。
使い終わったものは捨てる。それが彼等のいつものやり方であった。
「テメェの事は知ってるぜ。ゼダ・R・コルビネンだろ」
青年が男の名前を口にすると帽子の奥で一瞬驚いたような、意外だとでもいうような表情を浮かべ、クツクツと笑う。
「ほぉ……。私の名を知る輩はそう多くはないはずなんだがな」
「だろうな。実際にオレだってテメェのこと知ったのは一月ほど前の話だしな。蛇の道は蛇ってな、そんな奴がウチんとこにもいるんだよ」
そいつは厄介だ、心にも思っていない言葉を男――ゼダは口にし、またクツクツと笑う。
――何が可笑しい。
ゼダの態度に青年の苛立ちは高まるばかりだった。自らの気持ちを押し殺し、続く言葉を放つ。
「……で、そいつからもらった資料によると、結界系の術式が得意だそうだな。後は人間を生きたまま人形として行使する生人形遣い――まるで吸血鬼だな。死霊術師よりも悪趣味、と言うか……ただの変態だろ」
「別に共感してもらおうとは思っとらんよ。価値観はその人間によって違うからね。私はこの人形を息子とさえ思っている。君にこの価値観を強要するのは罪と言うものだ」
「へぇ。力を誇示するためにそうなった、って口じゃないな。なかなか肝が据わってんじゃないの」
「お褒めに預かり光栄至極……とでも言っておこうか。私はただコレを完成させたいだけなのだ。手を加え理想の形への一歩を踏みしめた瞬間、何とも言えぬ気持になる。おそらく、子を持つ親の気持ちというのはこういうものなんだろうね。しかし、いつかは神に召し上げなくてはならないことを考えると複雑なのだが……」
左手で額に触れ、本気で悩んでいるかのような仕草を取るゼダに対して青年は舌打ちをした。その反応を見てゼタはまたクツクツと笑う。
「んで、その子煩悩な親バカ人形遣いはこんな結界張って何を待ってたんだ?」
「君たちのような優秀な素材だよ。ありふれた素材では質が悪いからね、使い物にならないんだよ。クク、しかし君の身体は何度見てもいい。鮮度ある丈夫な肉体。体内に秘める魔力の純度は高い上に量もある。久しぶりだよ、こんなにもそそる人間に会えるなんてね。今日は人生最良の日と言っても過言ではないかもしれない」
「最良の日? ハ、笑わせんなよ三下。テメェの今日は人生で一番最低で最悪な厄日だ。明日の朝日なんて拝ませねぇ。ここで消し炭になるってのが道化なテメェにぴったりの末路さ」
青年が言い切ると同時、場の雰囲気が豹変する。
温度は急激に下がり、空気が振動する。
青年は柄を軽く握り、腰を浅く落とす。若干前のめり気味に重心を足の指先へともっていき、いつでも飛び出せるようなスタイルを取った。その様はサムライの居合そのもの。
彼の口元が微かに動く。既に何らかの術式を発動させていることが窺える。
魔力は微量ながら青年を覆うようにして発生していることから、術者自身を強化するための術式であると断定。
以上のことからゼダは青年を特攻型――それもかなり強引な――の戦士であると判断する。
人形の自立プログラムにスイッチを入れ、コントロール権限を移譲する。
両の腕を肩と水平にし、炉にくべた火をより強く激しく燃やす。
いかなるタイミングで飛び掛かられようとも即座に対応できるように。
どのようにして攻めるか、既に互いに方針は決まっていた。
青年はゼダを手早く切り捨てる事。
ゼダは青年から時間と一瞬の隙を勝ち取る事。
お互い睨み合う。隙を窺い、硬直した状態が続く。
高まりあう緊張。熱くなる胃を抑え、思考はよりクリアに、腕には熱を持たせる。炉の火は時を刻むにつれてその勢いを増してゆく。
どちらも相対する者が指一本でも動かせば即座に何かしらの行動が出来るよう準備は整っていた。
「待って」
しかし、戦いの火蓋は切って落とされることはなかった。
今まで何をしいていたのだろう少女が青年の前に手を出し、静止を促した。
ゼダは青年を視界に収めながらも辺りを見回すと子供とその母親がこの場から消えていたことに気付く。この少女がふたりを安全な場所に移したのだろうと考え、身震いをした。
この空間はゼダが構築した模倣結界術だ。
指定した範囲の空間内にある物質を解析し、それを別次元上に再現することで無人の街を作り上げている。
この結界、いくつもの要素が組み合わさることによって成しえた大魔術だ。
指定した座標内にある物質の位置を数値化。
模倣する物質を構成する構造物の解析。
解析したデータを座標データと共に別次元へ出力する演算能力。
模倣世界と現実世界との行き来を行うための経路の座標設定と生成。
模倣世界をその場に現界させるだけの魔力供給など、挙げれば限が無いがどれか一つの要素でも欠けてしまえばこの結界は成り立たない。
ここまで大規模な術式ならば複数人の術者と彼らを支えるバックアップがあってようやく成り立つものだが、この男は難なくそれをひとりで行っている。
数値化された物質の位置データはゼダの頭の中にある。ゼダはこのデータを元に、生きている者の居場所を把握していた。
物というのは基本的に皆不動だ。この模倣世界には生物は存在せず、直立不動を貫く高層ビルディングが立ち並ぶのみ。
そんな動きのない街で数値の変化があれば、それ即ち生物であるということ。
座標値の変動。それがどこに行っても逃れられない追いかけっこの正体。
しかし、今は目の前のふたり以外の座標値の変動を感知することが出来ない。
青年と話をしていた時間は五分にも満たない。だが、現にその短時間で少女は親子ふたりを結界範囲外に移動させている。
先程の生人形の攻撃を防いだ時も彼女と青年の位置は掴めなかった。気が付いた時には目の前にいて、狩りの邪魔をされていた。
ゼダは武者震いを起し、喚起した。そしてただ一言呟く。
――面白い、と。
ゼダの視線の先、少女の介入によって戦闘を止められた青年は水を差されたと言わんばかりに舌打ちをし、柄から手を放す。
ゼダとの相対を少女に譲り、少し後ろへと下がり佇んだ。
少女は小さく「ありがとう」と言うと、前に出てゼダの真正面に立つ。
「ふむ、君も特殊な術式をお持ちのようだ。今回の訪問者は実に面白い。全く私を飽きさせる気がしない」
話をしながらもゼダは青年を警戒していた。
青年の足先には先程よりは軽いが微かに重心がよっている。身体強化の術式が霧散したような跡もないため、いつでも飛び掛かれるように注意はしているようだった。
クツクツと笑いながらも青年の時と同様に少女の重心、仕草、佇まい、炉から漏れ出る魔力残滓など様々な要素を見極め、戦闘の行動指針を組み立てる。
「……む」
観察をするなか、ゼダはひとつの違和感を覚える。
――音がする。
青年と相対していた時にはなかった音。
唸るような、叫ぶような。鈍い音があった。
音源は少女。それに気づいたとき、ゼダは少女への警戒を一層強めた。
炉の火が常にうねりを上げている。それも悲鳴に近い怖気の走るような甲高い駆動音。術者への負担なんてお構いなしの状況。
よくもまあ平常心のままいられたなと感心するほどの暴力じみた炉の稼働状況。
「Fliegen《飛びなさい》」
少女が呟くと同時、宙に青い球体が複数浮かぶ。
球体の周りを紫電の魔力が火花を発しながら奔る。
色の付いた魔力は高質かつ高濃度で複雑な術式が組み込まれている場合が多い。
さらに、赤色は火を用いた術式。青色は水を用いた術式と言った風に色で使用する術式も大雑把だが知ることが出来る。
通常、このような場面では術者は自らの魔力を隠す。そうしなければ次の一手を敵に見破られ、対策を立てられた上に逆に利用されかねないからだ。
しかし、少女は臆すことなく挑発するかのように色を見せつけてくる。
このような人間には種類がある。自分に絶対の自信を持つ無謀者と、油断という隙を突け狙う狩人と。
ゼダは判断した。彼女は後者である、と。
一芸に特化した固定型の巨大な砲台。それがゼダの少女に対する見解だ。
さらに、少女の魔力色――紫は雷の属性。食らえば一瞬の隙と、次射の装填が出来る。
――なるほど、これは確かに、相性が悪い。
いくら頑丈とは言え、生人形なぞ所詮は人の手で作り上げた造形物。疑似神経から送られる電気信号を麻痺させられてしまえば、それはただの肉の塊だ。
ならば、とゼダは思案した。新たに組み立てられた計画書の数は三十二。
迂闊に距離を取ろうものならその銃口の餌食にされること間違いなし。
しかし、動かぬ敵なら距離を縮めるのが道理。いくら属性付加をされようと、掻い潜ってしまえばこちらのものだ。
ゼダと人形の炉に再度火が灯る。
相対する敵を少女へと変更。魔力は瞬間、瞬間にのみ爆発するように解放手順を設定。魔力充填率六十四%。術者から人形への魔力供給安定。不安定時、自動保護作動。
――準備は整った。後は開戦の狼煙を待つばかり。
だが、ゼダの想定した流れは早々に打ち切られる。
少女はゼダの発した言葉を少し吟味するとこの場に不釣り合いな微笑を浮かべ、口を開く。
「そうね。私も、貴方のような大きな力を持った方にはつくづく驚かされるわ。
この前は大気を操作できる人だったし、その前は海水を使った大規模な魔術儀式で太平洋のど真ん中にちょっとしたクレーターを作ってしまうような人だった」
優雅に語るその口調。柔らかな印象を持つ彼女の唇から甘く囁くように綴られる言葉。
聞き入るようなその声にゼダの脳内では激しく警報が打ち鳴らされていた。
――この女の話を、声を聞いてはならない。
だが、ゼダの身体は本能とは違い動くことを拒絶した。思えばこの時点で既に彼女の術中に嵌っていたのだろう。
少女の口は止まらないし、止められない。
「そのふたりとも、醜く歪んで潰れてしまった。バラバラにされて、血反吐を吐き、身体の中身を撒き散らしてね。――それでも這ってでも動こうとするの。無い四肢を必死に動かして、助けてくれって処刑人に懇願して。今まで自分がしてきたことを考えたのなら、そんな戯言通るはずがないのに……。
生きる執念って凄いのね。時には美しく人の涙を誘い、時には醜く人の憎悪を湧き立たせる。だからね、執行部隊は容赦はしない。世界の害悪となる連中は片っ端から消し炭にするの。焼かれた者は聞くに堪えない断末魔以外は跡形もなく燃え尽き、この世からその存在を抹消させられる」
ゼダの中からえも言われぬ恐怖が募る。
語られた出来事は妄想や狂言でもなんでもない、ただの真実そのもの。
少女の目はただひたすらに黒く、奥を覗けば鈍色の錆びれた瞳が揺れなくゼダを見つめている。
ブレのない眼。年齢に似合わぬ言葉。そして――
「さて、冥途へのお土産話はこのくらいで十分かしら? 私がココに来たのは貴方を私たち執行部隊が主催する舞踏会に招待するため――と言うより巻き込むためって言葉が正しいかな? どうせ招待しても音信不通の不参加ってことになりそうだからコッチから行っちゃえってことでね。でも客引きって大変なのよ。招待状作ったり、現地に足を運んだり、舞台を整えたりとね。まぁ一番大変なのは貴方みたいな乱暴者を引き込む事なんだけどね。
――さて、今宵の喜劇は貴方にどんな末路をお届けするのかしらね」
甘く美しく、恋人を誘うかのように言葉を紡ぎ、少女がまたクスリと笑ってみせた途端、それまで撫でるように吹いていた風がけたたましくガラス窓を叩き、荒波のような暴力的な魔力がこの空間を占拠した。
今三人が立っている場所は高層ビルの立ち並ぶ中心部から少し外れた交差点だ。当然ビル風のような突風など吹いてくるような場所ではない。
風向きを辿れば少女の方角を差す。
そこでゼダは見た。少女を中心に風が渦を巻く光景。それは風によって作られた竜が姫騎士を守ろうと牙を剥くような。
「貴方が襲った親子ふたりは最後まで悲鳴を上げなかったわ」
吹いてくる風の中央を割るように、彼女はゆっくりと歩き出す。
足音を高らかに、微笑し――
「じゃあ、貴方はどんな風に鳴くのかしら……」
身を宙へと舞わせ――
「Gute Nacht.《おやすみなさい》」
詠唱を唱えると同時に、少女を取り巻く風向きが変わる。
宙に浮かぶ球体が風を紫電の魔力と共にその身に纏い、膨張させていた。
少女を囲むように展開していた球体は速度を持ち、少女を中心として高速で回転する。
点が線となり、回ることで円となる。これで陣は完成した。
陣の中央に佇む少女の身体が鈍く光る。全身を幾何学の模様が埋め尽くす。
彼女に必要なものは術式を補完するための陣のみ。残りの情報は全て彼女の身体に描かれている。
銃口のように向けられた少女の指先、高濃度の魔力が収束し、固定される。
紫電の球体はその色を変え、純白な銃口へと形をも変えた。それは何の付加要素もない純粋な魔力の塊。つまり、少女が使うのは――
「Ich präsentiere einen ewigen Schlaf.《もう二度と目覚めることのない夜へ》」
特大の、レーザーじみた反則級の魔力弾。
縦横無尽に拡大するそれはゼダの視界全てを覆い、世界を白一色へと塗り替える。
「まさか……キミが、」
相対する者が誰なのか、分かった時点で既に事は終わっている。
執行部隊が誇る第一級の刑執行者。一騎当千を成すその力を奮えば、金属は砕け、術式は吹き飛び、人は跡形もなく飲み込まれる。食い散らかしたような残骸だけがその場に残り、沈黙と空虚が漂う空間を一人闊歩する。敵味方関係なく全てを奪い去るその力を讃え、世界は彼女をこう呼ぶ。
”Silent Witch《沈黙の魔女》”もしくは――”大喰い”と。
「Ein guter Traum《良い夢を》」
◆
術者からの魔力供給が無くなった結界はその姿を維持することが出来ずに崩壊した。
元の空間へと戻ってきた彼らが立っているのは街の中心だ。
しかし、煌々と光を放つ街並みには人の姿は無い。既に人避けの結界が張ってあるようだった。
「――まったく、女の子に向かって”大喰い”だなんてホント失礼しちゃうわ!」
青年は少女の言葉に反応することなく、先程までゼダが立っていた方を向く。しかしそこにはやはり誰もいない。
あるのは一筋の炎。ゴウゴウと燃えるそれは力強く、どんなに小さくなろうとも全てを燃やしきるまでは決して消えることはない。
しかし炎が燃やしているそれは金属だった。溶け出した外装の中からは歯車やネジにケーブルといったパーツが零れ落ちてきている。あの「ゼダ・R・コルビネン」と名乗ったモノも人形であった。
「チっ、人形師も人形か。術者本人は別の所から高みの見物、あっさりと姿を見せた理由はこれか。
――今回も骨折り損だったな」
散らばった人形の破片を踏みつけた青年は燃える炎を視界の隅に収め、やれやれと言ったように手を挙げた。
対する少女は青年に背を向けたまま、この場を照らす月を眺めていた。
「別にいいわよ、また探して仕留めればいいんだから。あ、でも人形壊しちゃったからしばらくは静かになるのかな? よかったわね、久々に休暇が取れるかもよ」
「休暇よりも金が欲しいとこだな、この前散財しちまったし」
「……可愛い女の子見つけては誘ってフラれて自棄酒なんて自堕落ループはいい加減やめにしない?」
「なんだお前、嫉妬してんのか?」
「はいはい、アンタのそのスッカラカンな頭の中一回見てやりたいわ。
――それよりね。やっぱり私、決めたわ」
少女は呟く。誰かに聞かせるものではなく、自分に言い聞かせるように彼女は言った。
「現状の世界なら組織の中からでも変えられるって思ってたけど、やっぱりそれも限界があるかな。だったら、組織なんて枠組みじゃなくて、もっと……もっともっと中から仕組みを変えればいいんだ」
闇の合間を抜けるようにさす月光。それを掬うように、少女は手を伸ばし、
「Alle hoffen nicht,Ich hoffe.《周りが貴方を望まなくても私は貴方を望もう》
Sie bestreiten es,Ich antworte mit einem.《貴方が否定されても私は貴方を肯定しよう》
Wenn wer Sie sein werden, bin ich nicht wichtig.《貴方が誰だろうと関係ない》
Ich helfe Ihnen.《私は貴方を助けるだろう》
Ich bin ein Freund der Gerechtigkeit.《私は正義の味方》
Weil es immer die Gerechtigkeit in der Welt gibt, und es gibt die Welt mit mir.《正義は常に世界にあり、世界は私と共にあるのだから》」
ひとつの詩を読んだ。
指揮をするように少女は腕を振るう。その声は水の如く透き通り、そして流れるように響いた。
カチリとパズルが組み合わさる。
それは構造の組み換えの音だ。
空と空の隙間にヒビが入り、次第に大きくなって割れ穿つ。
割れ目から出てきたのは扉だった。それも少女や青年よりも遥かに大きく、禍々しさを感じさせる古い古い荘厳な作りの扉。
本来存在しえないモノをこの世に厳戒させる創造異界。
「お前の選んだ道は鬼門だぜ。いいことなんてひとっつもありゃしねぇよ。つか、悪いことしか待ってねぇ。あるのは死にたくなるような苦痛と現実。ついでに言うと死にたくても死ねない場所だ。
――それでもお前は行くんだろ?」
青年の言葉に少女は笑いながら頷き、目の前に現れた扉を叩く。
開いた扉が発したのは黄金の光。しかし、その先にあるのは地獄そのもの。
銅を思わせる赤黒い空、土は乾きひび割れ、緑などの豊かさを思わせる物は微塵もない。
正真正銘の異界の扉。この扉を潜れば、待っているのは苦痛以外の何物でもない。
しかし、少女はこの門を潜るといった。一度言い出したら全く聞かない少女のことだ。今回も何を言っても無駄だろうと青年は溜息を吐く。お小言の一つでも吐いてやろうか。それもいいが今はもっと大事な言葉がある。お小言よりも簡単で一番気持ちが伝わる言葉。
「期待せずに気長に待っててやる。
……行ってらっしゃい」
最後の方は小声で呟きソッポを向いた青年を見て少女は一瞬キョトンとしたが、次第に目が潤みだし、泣くまいと必死に両手で目をこする。ある程度落ち着いたころには少し目が腫れ、ちょっと野暮ったい感じになっていたのはご愛嬌だろう。
深呼吸を一息すると満面の笑みで彼女は言った。
「行ってきます」
扉が物々しい音と共に閉まり、割れ目の中へと帰っていく。
この瞬間、賽は投げられた。
世界は変わるのだ。新たな"魔女"の存在をもって……。