不和来訪
和一殿に頼まれ、紀代隆様の代わりに道場に赴いたその日。
休みのはずの人が、其処に居た。二人共に揃って……
「なんか、カナデねーちゃんも、紀代隆師範代に呼び出されてたみたいだよ」
久弥の方がまだ事情を知っているようだ。
「冬臥! 悪いが向こう片付けてきてくれ」
「はい!」
「あ、冬臥先生、おれも一緒に行く!」
紀代隆様に言われ、久弥と時川殿との三人で、着替えの散乱している部屋をそれぞれ片付けに掛かった。
「手馴れてるね」
「まあ、なぁ」
大和が新しい着物を作る時に、床に広げてみていた時と比べたら、まだマシだ。
しかし、これだけ床に散乱しているのを見ると、棚でも増やし作っておいた方が良いかも知れないな。
「おお、これ誰のだろ」
驚く久弥の手に、生地の質が良い深い緑茶色の十字絣。
けれど、驚いたのは少しの間だけで、時川殿のところで働いているだけの事はある。綺麗に畳んで、空けた籠の中に帯と揃えて仕舞っていた。
「さっきの絣、色褪せもしてなかったし、糸もかなり良いヤツだったよ」
「そうか、だからと言って言外にするなよ」
后守の表名はそれなりにある分、武家に名を連ねる人が道場を訪れる。
女性だが時川殿がその最たる例だろう。だが、どのような門下生がいるのか吹聴して周るわけには行かない。
一通り片付け終わり稽古場に戻れば、紀代隆様の傍に胴衣姿のはとり殿の姿が見えた。
「片付けて参りました」
「ああ、ご苦労。今日はすまなかったな、折角、お前が休みをくれたのに」
「いえ、それは別に」
「すんませんな。たまに“身体動かさんと”と思うて、紀代隆はんに無理に、お願いしたんです」
相変わらず癖のある話し方で詫びを入れられ、なるほどと思ったが、久弥にしては珍しく、紀代隆様への挨拶もそこそこに、頭を下げて下がってしまった。
「子供達の面倒見てきますね」
時川殿も以前に屋敷でみた時のような、ぞんざいな空気を纏って、久弥たちの方へと行ってしまった。
「カナデはん、わいも一緒に良えか」
「え……?」
はとり殿の申し出に、時川殿が眉根を顰めて振り返ったのが見えた。
「冬臥はんも折角、お師さんがおるんやし、構んじゃろ。向こうさんが、おひぃさんの指導で困っとるらしいんじゃて」
「はとり殿。この場では瑣末な事であろうと、口外無用と言ったと思いましたが」
声の音量は抑えたつもりだろうが、現に紀代隆様にも聞こえてしまっている。
「あぁ、つい。冬臥はんになら良えかと思ってしもうたわ」
苦笑したんだろうな。愛想の良い事を言って来てくれているが、初めて会った時と変わらない瞳に、どうしても構えてしまう。
「あれー、師範代二人とも今日居るじゃん? あ、はとりんも来てたんだ。随分久しぶりだなぁ」
棘つき緊張したかのように、悪くなった空気を裂く明るい声が入り口から聞こえてきた。
「和一はんは相変わらずのようじゃの」
「なんか、酷い言われ方した気もするんだけど。ま、いっか。師範代、冬臥と組みたいんですけど宜しいですか?」
「あ、あぁ。構わない。好きにしろ」
「そんじゃあ冬臥、この前の返し技教えて。師範代、指導お願いします」
時川殿が年少組の方へ回ったばかりと気が付いてか、言い添えて、先日の奇襲から遡って稽古を始めた。
和一殿との組み手をしていても、どうしても集中しきれていない自分が居る。
攻め手の受け流しが甘くなっている。集中しなければと思うほど、注意散漫になっている。
「左足ッ!」
一瞬のうちに飛んだ紀代隆様の声に、反応できない。
代わりにそれに応じた和一殿から足を刈り取られ、受身も甘く落ちた。
「うぉっと、大丈夫か?」
「えぇ、すみません」
返事は返したが、すり傷が出来た。まあ、たいした事は無いんだが……
起き上がり礼を交わし、二人並び紀代隆様の言葉を待つ。
「お前、普段からそんな稽古を積んでいるのか」
「……いえ、違います」
低くなった紀代隆様の声に、何故か不貞腐れた声で返してしまった。
そんな風に、返したかったわけじゃないのに。
「それとも、下に付く人間が出来て稽古を軽んじているのなら、今すぐ出て行け」
「……」
「ま、まあまあ、師範代。冬臥もちょっとくらい調子悪い時だってあるよ」
オレ達の間に和一殿が割って入ったが、棘つく空気は消えないし、オレ自身も、ささくれ立つモノが無いわけではなかった。
「それで死ねば後の祭りだ」
「そりゃ、そうでしょうけれど……」
「すみません、和一殿。少し頭を冷やしてまいります」
「あ、冬臥!」
「放っておいて良い」
二人の会話を背で聞きながら、文字通りに井戸水を頭から被っていた。
先ほどまでは平気だった……いつも通りだった。
纏まらない感情を、どうにかしようとし過ぎているのかも知れない。
一つずつ、何故そうなっているのかを自分の中で問いかけ、当て嵌めていく。
もう一度水を汲み上げ、被る。
分かっている……何故そうなってしまったのか、自分が一番分かっている。
口先では気にしていない、気にするなと言えた。
でも、そんなわけが無い。
嫉ましいと感じてるその感情に、どうにか折り合いをつけようとして、奥底で完全に拒否している。
ただそれだけの事だ。
「冬臥ぁ、大丈夫か?」
気遣うように、近付く足音に顔を上げれば、驚いた表情を向けた和一殿と眼が合った。
「あー……まあ、とりあえず拭いとけよ」
「申し訳ありません、ご心配をお掛けしてしまいました」
差し出された手拭は辞退して、自分のもので濡れた顔を拭う。
「でも、師範代もきっついこと言うよな。冬臥だって、仕事しながら、道場も毎日のように来てんのに」
「いえ……紀代隆様は間違っておりませんよ。自分でも気が付かないうちに、そうなっていたかも知れないですし」
少し、ぐずついた鼻を啜りながら言えば、和一殿の暖かい目があった。
「そんなら、もう一回やろうや」
その声と共に思い切り背中を叩かれ、思わず声が出てしまった。
再び稽古場に上がり、もう一度和一殿と組む。
先程よりかはマシな程度だったかも知れないが、集中は出来ていた。
けれども、師匠が納得するほどのモノではなく、見学していろと言い渡された。
年少組と大人達と両方の稽古が見える位置の壁際に一人座り、稽古を見る。
目の前の相手をしっかりと見て、時折、紀代隆様の指導を復唱する和一殿。勝敗決した折には、こちらを気に掛けている。
対して、久弥はオレの有様を見て集中を欠いてしまったようだ。
時川殿が何度も言い含めて、集中させ直すがチラチラと視線が向けられてくる。
悪い事をしてしまったな……
「なんや、冬臥はんに悪い事してしもうたみたいやなぁ」
近くに寄り立って、はとり殿がへらりと笑って言う。
「いえ。自分で撒いてしまったものですから」
「いやぁ、でもなぁ。わいが無理言わんとったら、こないな目ぇにも合わんじゃったろうに」
「貴方のせいだとは思っていませんよ。自分がまだ未熟なだけですから」
何かを含んだ物の言い方に、落ち着いてきたはずの心がざわつく。
「そうゆうて、あんたさんはあの二人を甘やかしとったんじゃな」
すっと感情が落ちる物言いに、思わず視線を上げた。
前を向いて年少組の稽古を見ながらも、気配は此方を窺っている。
「おかげで随分、苦労させられとるで。こっちの話に耳も貸してもらえん」
「瑣末なれど口外無用とお伝えしたはずですが」
「いやいや、主さんたちの事、知りたがってると思うてなぁ。興味無い事言い寄ってすまんかったですわ」
確かに嗤っていた。だが、はとり殿の視線はオレに向けられていなかった。
「あ! それはちゃうって言うたやろッ。何度言わせりゃ覚えるん」
年少組の型稽古。その中の一組が他と比べ遅くれをみせて、手こずっていた。
攻める手を掴み、相手を組み倒す流れ。久弥はそれが苦手だ。
「長谷川。その子の面倒は自分が見てるんだけど。邪魔しないで」
「そう言わはっても、こんな物覚え悪いんも珍しいで。さっきから何度、同じ処で躓いとると思っとるん?」
「だから、邪魔しないでって言ってんの。人の話し聞けないの?」
時川殿の容赦のない声に、暫し一帯に沈黙が訪れた。
先に沈黙を破ったのは、はとり殿の重たい溜息だった。
「先生も先生なら、それ慕うヤツも同じやな」
「てめえ! 今なんて言った!」
久弥が叫ぶと同時に飛び掛っていた。小さな体でぶつかられ、僅かによろめいてたが、はとり殿は小さく肩を揺らして嗤った。
「久弥、よしな!」
「なんで、お前なんかに言われなきゃいけないんだよ!」
時川殿が久弥を羽交い絞めにして、引き離そうとしたが、それをすり抜けて、また殴りかかる。
「止めろ」
「――冬臥さん、何で!」
本当は一瞬だけ、浅ましくも、久弥の拳を止めないでおこうかとも思ってしまった。
だが、それでは意味が無い。久弥の努力は見ている者だけが知る。
「なんでこんなヤツに好き勝手言わせてんだよ! 冬臥さん、悔しくないのかよ!」
「良いから。久弥、今の型の流れ、全部オレとやるぞ」
「はっ? なんで……」
悔しい、悔しくないと言うより、情けない。
久弥がこれほど怒ってくれるほど、心を寄せてくれていた事に全く気が付かなかった。
これほど真っ直ぐに思われていた事に気付けない先生とは、やはり情けないな。
「立て」
有無を言わさず久弥を放れば、しぶしぶと距離を取り互いに礼を交わす。
「なんや、指導もせんと、同じこと繰り返すだけじゃろ」
「久弥。いつも通りにやればいい」
零された声を無視して、久弥だけを見据える。
いつも通りに、すれば良い。
オレに背を向けて立つ久弥はまだ、文句を言いたそうな気配だったが深呼吸を繰り返してから、時川殿に頷いた。
先程の稽古と同じように受け手は久弥だ。
「はじめ!」
時川殿の号令に、オレから動く。
瞬間、ざわめく声が聞こえた。
「はいっ!」
後ろから両腕を塞ぐように抱きつくオレを往なし、投げる。
受身を取り二つ目の型へ直ぐ移行し、体格差も無いように、脇の下からしっかり釣り上げて投げる。
三つ目の型も難なく終り四つ目の型へ。それが久弥の苦手な型だが、それも先ほどとは違い、打ち込んだオレの手刀を躊躇う事もなく、受け止め、身体を目いっぱい使って引き倒す。
身体の位置を入れ替え、相手を崩す技は確かにオレも苦手なところはあるが、久弥自身全く出来ていないわけではない。
最後の最後まで、一気に遣り通し、所定の位置で礼を交わす。
しんっとする道場内だったが、乾いた音を立てて拍手を向けた人が居た。
「おぉ、久坊すげぇな! 普段からそんな速さでやってんのかよ」
「え、あ……」
和一殿の声に久弥は反応できず、おろおろとしていた。
個人的なことを言えば、これは遣りたくなかったが……心持軽くなっていたのは否定しない。
盗み見れば周囲の目も良くは、無いな。好意的な目を向けてくれるのは、ほんの一部だけだ。
紀代隆様も――厳しい目を向けている。
「はあ、なるほど。其処まで出来るんに、格下相手には手抜くよう言われとったか」
溜息を吐くように言われ、落ち着かせていたものが波立つのが分かった。
「そんな下らない、相手に礼を欠くような事を、久弥に教えたつもりはありません」
言葉の前を強く言いながら、はとりの前に立つ。
傍から見れば、一瞬即発とも言えるような状況だろうな。
「先生がどう言おうが、本人にその気が無いとは言えんじゃろ」
「久弥は自分の不得手を克服しようと、慢心せずに稽古に励んでいただけです」
とやかく言われる筋合いは無い。
その言葉は飲み込み、明らかに不機嫌になっていく目を見据えた。
「そう言うて、影じゃ分からんよって」
「長谷川! あんた、一体何しに来たの。喧嘩売りに来ただけなら、はっきり言って邪魔以外の何物でもないんだけど」
きっぱりと断じたのは時川殿だ。
「すんません。今のは言い過ぎたわ……」
棘ついた空気をこちらに向けたまま言えば、時川殿に頭を下げた。
「全員稽古に戻って! 久弥、あんたもこっちに戻る」
時川殿が強く手を叩き、凍り付いていた他の門下生達に向かい声を投げれば、安堵や不満を持った空気が綯い交ぜになって流れていった。
稽古はまだ続いている。
けれど、オレは師と共に外に出ていた。
人があまり立ち寄らない、蔵の前で淡々と怒られていた。
いや、怒られているというのは正確ではないんだが……
あの型稽古のやり様は良くないと、言われた。
分かってはいたが、それでも――あの言われ方は、オレ自身にも頭に来るものがあった。
そこは紀代隆様も理解してくださっていたが、オレには他に、やりようが思い浮かばなかった。
「ともかく、むやみに喧嘩に乗るな。后守の名を背負うものとして自覚を持て」
「はい。申し訳ありませんでした」




