使、嘆くまじ
はらはらと粉雪が舞い始めていた。
一層冷え込みはじめた帰路を急ぐまま大礎川の側まで戻っていたとき、日は既に山影に沈みかけていた。
「あと小半刻以内には、流石に無理みたいだね」
日の沈む方角を向き大和が呟き、オレも頷いた。
屋敷まではまだ四半刻以上は掛かるだろう。
粉雪に陽が反射し朱色に染め、オレたちの頬も照らしていたはずだったが、それも歩き続けるうちに厚い雲に覆われ消えてしまい、雪の量も増えてきていた。
「十斗、もう少し急ごうか」
「わかった」
この季節の天気は読み方を教わっていたとしても、予想通りにはならない。
量が増えてきたと思えば雪の白さが消え、雨に変わった。
オレたちは走りながら大礎川を渡るため、近くの橋を目指した。
雨に解けた雪が足元を滑りやすくし、気を抜けば派手に転倒しそうなものだった。
しかも、大礎川に架かる橋の幅は大人が四人肩を並べて歩くには狭く、左右には身を守るための欄干もないため、更に注意が必要だ。
足元の雪と降る雨が体を濡らし、走り熱くなっているはずなのにどんどん体が冷たくなっていく。
「大和、大丈夫か?」
「このくらいなら平気だよ。でも、帰ったらゆっくりとお風呂に入らないとね」
冗談を言う大和の唇が紫色を通り越して色を失くしていた。
せめて、雨宿りできる場所でもあれば良かったがこの近辺では、当に過ぎてしまった茶屋しかない。
どうするかと考えどうにもならないと後悔した時、低く響く鐘の音が聞こえた。
寺は確かにあるが霜月家の側とも言えるような位置。
澄み渡る空の元ならば音は聞こえるだろうが、思いのほか激しさを増す雨の中で音が響くなどあったか。
「やま……っ」
振り返った一瞬、大和のその更に後ろを見て驚いた。
「大和!」
足に力をいれ、ぐず濡れた雪の上で無理やり止まり大和の細い腕を取った。
そして思い切り引っ張るようにオレの後ろへ回すと同時に、血が舞った。
躊躇ってる場合も、臆している場合でもない。何のために修練を積んだッ。
額に走った痛みを堪え、輝政殿の咒が掛かった懐刀に手をかけた。
「ダメだ! 十斗逃げてっ!」
制止の声は聞き入れるわけにはいかなかった。オレが退けば後ろにいる大和の身が危なくなる。
頂いた土産を押し付けながら手を突き放し、入れ替わり、出る。闇に溶けるような黒い蝶が更に眼前に迫った。
片方の翅が歪に首を刈ろうと伸び、走った痛みと熱になんとか躱せたことを知る。
大丈夫、出来る。倒さなくてもいい……オレが、倒れなければいい。大和が逃げれる時間を稼ぐだけでいい。
自己暗示のように強く想いながら、懐刀を抜き突き刺すように妖へ走った。
けれど手応えなどなく、雨が一瞬浮き上がった。
遅れて感じたのは打ち付ける風だった。音もなく妖が翅で空を打ち、舞い上がっていた。それでもいい。標的がオレにさえなれば、いい。
「大和、走れ!」
ふわりと舞い上がった妖は本当にただの蝶のように、空を舞う。
最初だけしか攻撃らしいものは受けなかったが、ゆらゆら揺れながら警戒するように川の上へと動いていった。
何かを探すように、ゆらゆら、ゆらゆら。
不気味に漂う。
「渡ったよ、十斗!」
「もっと! 先まで逃げろっ!」
渡っただけで地の制限を受けない妖から逃げられたわけじゃない。大和は確かに渡りきった橋の向こうから、返事を返し町のある方向へと走り始めていた。
雨の音は酷くなる一方で、また低く響いた鐘の音が聞こえた。
気のせいと思うには、さっきより近く確かに耳の奥で鳴っていた。
得も知れぬ震えが身体の奥底から湧き上がるのを感じたとき、オレもまた走り始めた。
この一瞬で走り始められなければ、どうなっていたか……。
震える両足を交互に意識して動かし、橋を渡り更にその先を目指したが妖は悠々とその先を遮った。
倒さなくてもいい、オレたちが死ななければそれでいい――
妖は近づきながら少しずつ上昇していく。
それに合わせオレは後ろへ下がり、距離を取ろうとするが差は開くことはなく一定のままだったが、後はもうなかった。後もう一歩と下がれば、傾斜のある土手を踏み外し川に落ちるだけ。
妖がオレの頭よりほんの少し上にまで来ると三度目の鐘の音が、今度はハッキリと聞こえた。
低く響いた音は遠い、それでも聞こえたと確信した瞬間には恐怖が勝って凍り付いてしまっていた。
浅い息を繰り返してどうにか、呼吸を続けるだけで精一杯で……妖の広げた翅は地面にゆっくりとその影を伸ばし、オレを絡めようとしていた。
死ぬ……妖に殺される。殺された後、どうなる……?
過ぎる恐怖に総毛立った。
「十斗!」
叫ばれた声が誰のものかと確かめるより、先に地面に転がった黒い何かが小さくも眩しい炎を吹き上げた。
突然の事だったにも拘らず、無意識のうちに両腕で目を庇いその隙間から覗いていた。
炎が妖の影を焼き払い、そして、一閃。
「大丈夫か、十斗!」
放心していたオレの前に誰かが立ち肩を掴んだ。力強く大きな手の平の温かさを感じると同時に糸が切れその場に崩れ落ちた。
「無事で良かった。怪我は大丈夫か?」
「き、よ……たか、さま……?」
「ああ。俺だ」
「や、大和は……?」
声が震えていた。オレは虚空を見つめたまま大和の無事を聞いていた。
「大丈夫だ。いま、琴世様が面倒を見ている。少々、お体を冷やされてしまってはいるが、無事だ。怪我の一つもない」
心配そうだった黒い瞳が和らぎ、背中に大きな手が回され優しく叩いてくれた。
それがきっかけとなり、オレは師に縋りつき泣いた。
「こ、こわかっ、た……うぅ……怖かった、です……」
「よく頑張ったな。大丈夫だから、声を殺して泣かずともいい。思い切り声を出して泣け。ちゃんと側に居るから、安心しろ」
「うう……あぁ、怖かった。死ぬかと思った……うあぁっ!」
いつの間にか握り締めたままだった懐刀は手の平から抜け落ちていて、オレは師の方にしがみ付き声を上げていた。
オレが落ち着くまで、ずっと師は背を優しく叩いて宥めてくれていた。
どれほどの時間が経ったか、肺が痛くなるほど泣き続け涙が枯れたとき、師は静かにオレの頭を撫でてくれた。
「泣き止んだか?」
「ひっ、ぅ……は、い……ごめん、なさい……」
「謝る必要など何処にある。まずは戻り、みなに無事な姿を見せてやれ。琴世様など、心配しすぎて倒れておるやも知れん。それに額の傷もきちんと手当てせねばな」
しゃくり上げるたびに、骨が痛かった。それも、無事な証しと笑った。
そして、師は雪の上に落ちたままだった懐刀を拾い上げオレの帯に刺さったままの鞘を抜いた。
「十斗、お前という奴は……」
鞘に刃を収めると同時に師の声が、呆れたようなものに僅かに変化していた。
「妖避けの咒を自ら切っていたようだな」
クツクツと喉の奥で小さく笑い、また、鞘を帯に差し戻してくれた。
「え……?」
「これはまた、説教せねばなるまいな。それに勉強不足と来たか。俺共々、琴世様にどやされるのは覚悟せねばなるまいか」
そう呟いた師は困ったような表情を浮かべ、オレの手を引いて歩き始めていた。
しかし、オレはそのわけも分からず問いかけていた。
「咒は多岐にあるのだが……先代である輝政様が得意としていたのは金の咒。刃に咒を掛け、妖を切り払うもの。しかし、これは木の咒……妖避けの咒だ、本来なら守札に咒を掛けるのが多いがそれを鞘に掛けたものなのだろう。木を切る刀とは相性が悪い咒ではあるが、鞘ならば木製。護符の役目を果たしていた」
「つまり……えっと、どういう、事ですか?」
「鞘と柄一体の妖避けの咒を掛けていたと言う事だ。刀を抜かなければ、あの程度の妖などお前らには近づけなかったということだ」
「そ、それじゃあ……オレの、せいで」
どんな表情を浮かべていたのかオレ自身は解らなかったが、師は手を握り返してくれた。
「そんな顔をするな。まだ教え切っていなかった俺にも責がある。しかし、この地にまで妖が現れるとはな……油断しきっていたのも否めないな」
「紀代隆様、オレは……もっと、強くならないと……ダメなんですよね?」
「そうだな。后守は御剣の露払いだ。責任は重大だしましてや、お前は姫様のみならず彦様の指名受けているのだからな」
「はい。もう、皆に心配掛けないよう……精進します。もう……臆さぬように」
大声を出して泣いたのは、おそらくこの日が最後。
今思い出しても、情けなくて顔を上げられん。