動ぜぬは影
安全な町を出るのは幾度とあった。
オレ自身も師、紀代隆様との修行の最中で災いを齎す魔と対峙した事はあった。
しかし、それは悪まで共にいたとき。護身用の懐刀一本で何処まで出来るかなど初めてで知る良しも無い。
道すがらの違和感を覚えたのは、大分接近してからだった。
例年よりもまだ浅いが、踝を埋めるほどの雪道に気をつけながら大和と共に霜月家までの道のりを歩いていた。
御剣のお屋敷から向かう霜月の分家はそう遠くないが、降る雪や人の多い道が泥道になってしまい、注意して歩いていたせいで時間が掛かってしまっていた。
分家までの一つの目印、大礎川。そこに差し掛かった時にはまだ気が付かず、他愛ない話をしながら進んでいたが、ふっと止まった大和の見つめた先を見て同じように足を止めた。
「へぇ。雪が降ると日の光の恵があるこの時間でも、妖は出るんだね」
「大和」
物珍しいものを見かけたように云う大和に、緊張したままの硬い声で先に進むなと声を掛けた。
人に仇名す魔。下位の魔は“妖”と呼び、更に専門の掃討者を必要とする上位の魔は“荒神”と呼ばれている。
蘇叉が国として一つに纏め上げられる前は八百万の神が各々の領地を支配していたと言う。そして、領地を求め災いを互いの地に齎し領地を奪い合い広げていたと。
戦に破れ、呪いを受けた神は冥府に堕ち永劫に災禍を受け続け、堕ちた神は荒神となり地上に住まう神々を呪う。
呪いの波紋は地に広がり力弱い精霊を妖と化し、冥府の神の僕とする。
妖は冥府と現世を繋ぐ綻びを広げ荒神と化した神を救い上げ続けると言う。
今、オレたちの目の前にいる薄ぼんやりとした黒い影はその妖。
木の葉のように風が吹くたびゆらゆらと動く黒い影は羽根の細い蝶にもよく似ていた。
「十斗、それに手を出したらダメだよ」
懐刀を抜こうとしていたオレの袖を引いて、大和がその手のままゆっくりと後ろへ下がるので、オレもまた従った。
「あの妖、僕たちがあの距離に居たにも関わらず襲ってこなかった。もしかしたらだけど、下手に攻撃しなければ害はないんじゃない?」
「……分かった。けど、それならどうする? 霜月まではこの道を通らないといけないが」
「正規の道はね。けど裏道横道、道には色々あるもんだよ」
くすっと小さく呟き笑う大和の暗紅色の瞳が僅かに赤みを増したように見えた。
「そこの土手を降りていけば多分平気だよ」
「却下だ」
そう言って示した土手は真っ白な雪に覆われて、奇麗なままあった。けれど、オレが言い放ったのにも理由はもちろんある。
大礎川は川幅が広く深い。ましてや鋭角な土手の下、直ぐに極寒の水が待ち構えている。悪路には慣れているし、オレだけ歩くならまだしも……万が一を考えるのは当然だと察してもらいたい。
「あれ、怖い?」
「怖いとすれば、大和に何かあった時だな」
からかう声に思わず強く返してしまったが、大和は嬉しそうに笑っていた。
「流石は后守、頼もしい限りだね。でも、僕に付いて来てくれるなら安全にやり過ごせるよ。どうする?」
「……その道筋を聞いて、安全そうならその意見を飲む」
オレが出来る精一杯の妥協に大和はまた、小さく笑った。
大和の提案はなんてことは無い、来た道の途中にあった橋を渡り大きく迂回していく道だった。
ただ、川向こうの道から霜月家まではかなり離れ、先の橋もまた遠いため大分時間を取られてしまうと言うことだった。
いくら早く辿り着きたいからと言って、危険を犯す案を先に出したのはきっと……嫌がらせだろう。
「十斗、急ごう。着くのが遅れれば帰りも遅くなる。せっかく灯里と約束したのに僕が遅くなったら意味がない」
「そうだな。オレも紀代隆様を待たせてるし」
夜を考えれば少しでも体を休める時間を取れるようにしたいのが本音だった。
疲れたままで勉強しても頭の中には何も入らず、怒られるのも目に見えている。
「それにしても、本当にいつでも灯里様が第一だな」
仕えるオレたちが主を優先させるのは当然だが、大和の行為はそれにとても良く似ているが、やはり異なるものだった。
聞き咎める者がいない今しか聞けないような気がして、問いかけると大和は躊躇いなく応えてくれた。
「好きだからねぇ。だから、側に居たいし危ない目にも遭わせたくない」
「……よく、わからないけど。大事なのは分かった」
オレの答えに満足した表情は見せなかったけれど、大和はその足を少し速めて橋を渡りきっていた。
「道は一つになりえないけれど、それでも……」
「ん、何か言ったか?」
「何も。それより、やっぱりさっきの妖は動かなかったみたいだね」
いつの間にかオレたちは、橋を迂回して渡る原因となった妖を対岸に見ていた。
先ほどの位置から変わらずにゆらゆらとただ、風に揺れているだけの黒い影。
「あれがもし荒神を導いていたら、僕たち大変だったかもね」
「大変で済めばいいけどな。急いでいこう」
とんでもない事を言う大和に、肩を竦めてからオレたちは何事もなく霜月家まで遠回りの末に辿り着いた。