雪の縁側の
午睡前の僅かな空白の時間。
灯里様は雪の積もった庭を本邸の縁側で大和と共に並んで、眺めていた。
「お二人とも何もこのように外に居らずとも、暖の取れる部屋の中から雪見障子越しでご覧になっていても宜しいのでは?」
口を挟んだのは師、紀代隆様だった。オレは師の後ろにつき二人に入れた茶を載せた盆を持っていた。
灯里様も大和も分厚いと言っても良い半纏を纏い、膝掛けを並んで掛けているだけだった。そうでなくても、雪が積もり一段と冷える廊下にいる意味。
「紀代隆、見て。雪兎」
「いっしょにつくったの」
無邪気に笑う二人が示した縁の下。綺麗に形どられた雪の兎といびつで大きな雪の兎。どちらが作成者かは一目瞭然のそれを見て師も笑った。
「お上手に作られましたね。十斗」
「はい」
冷たい廊下に膝を突き、二人の側に茶を差し出して置いた。
大和は灯里様が茶器に手を伸ばそうとしたのを制して、小さな手を包み込むが灯里様は首をかしげて不思議そうに大和を見つめてから、オレたちに菫色の瞳を向けていた。
「冷たい手でいきなり、熱いものを持つと危ないからね」
優しい声色だったが、一瞬オレに向けた目は鋭かった。
大和は灯里様をとても大切にしている。それは誰が見ても明らかで、優しい温和な兄だった。
けれども、それが周囲全てに対しても同じとは限らない。
「十斗、気をつけてよ」
「申し訳ありません」
変わらず優しい声色。けれど、棘は十二分に含まれていた。
「紀代隆、あとで十斗借りても良い? 少し出掛けるからさ」
「承知いたしました。十斗、戻り次第……いや、夜になったらまた俺のところに来い」
「はい」
オレの返事を聞き、師は二人に向かい一礼をし、この場を後にした。
「にいさま、おそといくの?」
「少しね。父上に頼まれた事があるから」
羨ましそうに大和を見上げた灯里様の黒髪を撫でていた。
オレたち三人以外は誰もいない。蒼穹を泳ぐ鳥の鳴声に灯里様が目を向けた一瞬、素早く大和の手刀が頭に落ちた。
「いって……悪かったって言っただろ?」
「二週間前にも同じ事をした。灯里の肌、本当に弱いんだから気をつけてよ」
聞こえないように小さく文句を言ったオレに、ふぅっと溜息をつき大和はその柳眉を潜めてから、少しばかり温くなった茶に口を付けた。
「それで、このあとは何処まで?」
「ん、霜月の分家まで。何でも神名木の当主が皇家謁見に来るらしいから、準備だって」
「あの西の神名木か?」
「そう。何をしに来るのかは分からないけど、法術の統括者が来るならば“相応の歓迎をしないと”ってことだって」
神名木……この御剣家が東を守る武の家柄なら、対極にある西を守る術の家。
蘇叉は小さな島国だがそれでも異国大陸と同様に災いを齎す魔の存在がある。その魔――妖の存在から国を統治する皇家を守るのが御剣と神名木の役割。もちろん、差異は多々あるのだろうけど。
だからと言って両家の仲が良いと言う話は、今まで聞いたことがなかった。
「だが、そういう役目なら大和が行く必要はないだろ」
「外に行くついでに受けたのは僕。父上だってもちろん最初はダメと許してはくれなかったけどね」
「にいさま、じゅっと。灯里もおそといくっ」
今までずっと黙っていた灯里様の声にオレたちは向くように振り返った。
椛様がお亡くなりになられてからも、灯里様は御剣家のこの敷地から出たことがなかった。町に下りるのも未だ侍女付きでもない。
オレが時折、使いで外に出ているのを知っているせいか、輝かせた菫の瞳には期待が込められていた。
「灯里はお留守番だよ。午睡の後にまた勉強があるし、灯里がいなくなったら父上が悲しむよ」
「やだぁ、灯里もおそとであそびたいっ。べんきょうやだ」
ぷくっと頬を膨らませ大和に甘えていた灯里様だったが、大和の意見が変わらないと分かると今度はオレへと今にも泣きそうな菫色の瞳を向けてきた。
「えっと……灯里様、申し訳ありません」
「うぅ、ふたりともきらいっ! いじわるいうっ」
一瞬だけ、嫌な物を突きつけられた小動物のように両目をギュッと閉じた灯里様は、そのまま立ち上がると廊下をパタパタと走り始めた。
「灯里、走ると危ないよ!」
大和の制止の声に一度振り返ろうとした灯里様だったが、勢いが付いた足で着物の裾を思い切り踏んづけて、半回転して転倒してしまった。
いつもならここで大泣きされると覚悟していたが、ゆっくり立ち上がり駆け寄ろうとしていたオレたちより早く、再び走っていってしまった。
「十斗、準備だけ頼むよ。僕は灯里の様子見てくる」
「しかし今の転び方は……一応様子は見させてもらいたい」
転んだときの音は厚手の羽織が功を奏していたのか、派手な音はなかったが万が一を考えて、大和に言うと彼も少し考えて頷いた。
灯里様は廊下を突き当たった部屋の影で小さく蹲って、声を抑えて泣いていた。
大和がそっと近づき灯里様の前に座った。
「灯里」
声を掛けれどもすっかり機嫌を損ねてしまった灯里様は、何の反応も示さず小さく嗚咽を抑えていた。
「怪我、してない? 痛いところもない?」
いつもなら直ぐに柔らかな黒髪に手を置き撫でていたりするのだが、今回はそれもなく灯里様と同じように小さく両膝を抱えるように座っていた。
「怪我がなければいいんだ。灯里は僕にとって一番大切だからね、危ないところには連れて行きたくない……それに、灯里ももう少し大きくなったら少しは町に出られるようになるから、それまで待ってて欲しいな。その時には一緒に灯里の好きなところに行こう」
「……ほん、とに?」
俯いていたはずの顔が少し持ち上がり、涙に濡れたままの瞳で大和を見つめていた。
それに大和は小さく頷いて優しく笑った。
「約束する。その代わり灯里もひとつ約束して」
「うん……やくそく、なぁに?」
「ちゃんと良い子で待ってて。夕餉の前には帰ってこられるから、その後の時間、一緒に遊ぼう。昨日、灯里が先に寝ちゃったから読めなかった絵本、一緒に見ようね」
「うんっ」
機嫌がすっかり直った証しのように見せた無垢な笑みに、大和がいつものように黒髪に手を置き優しくその髪を梳いた。
ゆっくりと少し場所を変えて撫でる仕草のなかで、ちらりと視線が上げられた。
「たんこぶ出来てるけど大丈夫そうだね」
「そうだな」
幾度か繰り返していくうちに、次第に灯里様の体がうつらうつらと舟を漕ぎ出していた。
大和が危なげなく灯里様を抱き上げたのを見て、一足先にオレは離れの側にいた侍女を捕まえて冷やすものを合わせて頼んだ。
お部屋に送り届けた後、幾分か遅れた時間を取り戻すように急ぎ足で館を後にした。
ひらりと雪降る音は深々と喧騒を緩やかに溶かして、踏みしめる音が耳に届いていた。