昏問
「ついてらっしゃい」
告げられた言葉は、なんと言うか読めないものだった。
神々しく、近づきがたいと思った最初の印象とも違う。其処に居るだけのような、置物のように感じてしまう空洞な感覚というのか……ともかく読めない。
瞳や纏う空気を常に伺うのが癖付いているからこそ、この異質とも云える環様に指先が震えていた。
そして開かれた戸は、何の変哲も無い壁に、影の線を引いたように開かれた隠し戸だった。
それを開けていた紙者――人の形をした咒の施された紙で、噂では本家で扱う紙者の紙は聖別されたものと云われ、故に炎にも耐えるとか――が、ふわふわと環様の足元をすり抜けその先へ行く。
「さあ……」
促されるまま、環様の後を付いて行く。
隠し戸の奥は庭や森の中ではなく、岩を繰り抜いただけとも思える無音の薄暗い通路に通じていた。
歩くたびに揺れる環様の黒髪が地面に直接付かぬ様にと、先を行く紙者たちが絨毯のようにどこからか現れ、その身を石畳の上に広げていた。
風の気配も感じることが出来ない通路はわずかに弧を描き、下に向かっているようだが、進むに連れて一層暗くなっていた。
明かりもない道に目は多少慣れて来ていたが、深くなる闇に自然と足が遅れ始めていた。
「こちらで、少し待ちなさい」
掛けられた声に足を止めた時には、ほんの僅か先に居る環様の姿どころか、足元に居たはずの紙者の姿も見えなかった。
「大御神よ。道を示し給え」
静かに紡がれた言葉に、紙者たちが舞う紙ずれの音が聞こえ、宙に留まればその身を赤々とした炎に変えていた。
左右に灯る炎の道の間を再び環様が先へと進み始め、オレも従う。
暗い道に浮かぶ炎のおかげで先が見えるかと思ったが、ここはそう甘くないらしい。
宙に浮かぶ炎は一定距離に道を作り、環様が歩む道に合わせる様に、ほんの二、三の炎が先を巡りめぐり道を作っているだけ。それに、炎によって落ちる影が、一層の濃さを伴い結局は足元は見えぬまま。
どこまで歩いたのか、上ったのか下ったのかは微かに感じた足元の感覚で判断するだけで、この通路の全容は分からなかった。
互いに無言のまま進み、再び環様の足が止まった。
目の前に現れた壁を前に、立ち止まったようだ。
此処が目的の場所なのだろうか。それでも環様は体の向きを変えることなく、視線だけを窺うように此方に投げかけてきた。
「あなたは、大和を殺すことが出来るのかしら」
再び前を向きながら、さらりと他愛ない話のように問われ、オレは心臓が跳ねた事だけしか理解できなかった。
「兇人がどう云われたものか、関わり合い無き児でも知っているはず。
目覚める前に葬り去るのが習わし……東でそれを担うのは后守を始めとした影担いの勤め」
感情の起伏もない、取り止めのない話しのように紡がれていく言葉に、胸に何かが叩きつけられたように詰まっていた。
「目覚めてからでは遅い。あなたにもその意味はわかりますね」
「……ええ」
「アヤメより御剣の後継者として彼の者が訪れたと聞いたとき、驚きました。
嫡子は女子であれど、紛うことなく綾之峰と椛の血を引いた灯里のはず……ならば何故に兇人である大和が後継として訪れたのでしょう。たとえ、神宿りが故に継げぬとしても、わざわざ兇人を迎え入れる道理にはならぬはず」
オレに問いただすわけではない、ただ考えているだけの言葉。
「あなたは影担いの后守として、大和を殺せますか」
重たい空気に、浮かぶのは先ほどの祁玲殿や輝政殿……どこまでも闇い瞳で『平気か』と問うて来た大和があった。
「……主に刃を向けるなど、出来るわけがありません」
背を向けたままの環様の傍から左右一つずつ、浮かんでいた炎が消えた。
「目覚めたとしても」
「主には変わりません」
また一つずつ、傍の炎が消えた。
「兇人は、人の形をした荒神ですよ」
「それでも」
また消えた。
「荒神と知りつつ、周りを謀り生きながらえさせると」
「主が望むのなら」
もう、残りは遠くに残る二つばかり。
「荒神は人ではないのですよ」
「だとしても、主に刃を向けることなど出来るわけがありません」
こちらを振り返るように見えた環様の白い頬は、闇に沈んで見えなくなった。
全ての炎が消え、ほんの先にいた環様の気配も感じられない。
「見事なまでに嘘を吐く」
「では、言い方を変えましょう」
微かに零れた吐息にオレは、あの時を思い出していた。
「大和が背負おうとするものを共に背負い、友が望むのならオレは躊躇うことなくその刃を向けましょう」
その言葉に反応してか、壁に暗い炎が宿り円を描き揺らめいた。
「そう……」
緩やかに赤い唇が細く歪められたのが見え、同時に寒々しい空気に身構えさせられた。
「彼の者が目覚めれば、両家のみならず皇たちにも害が及びます。それがどう云う意味か、わかるでしょう」
「…………」
「荒神は、ただ押さえ込めばよいものではないのです」
ガゴッという重たい、何かが外れる音が聞こえた。
風の感覚も何もなかった洞窟の中で、冷気を纏った空気が緩やかに足元を這い上がってきた。
その冷たさは次第に上に上にとあがり、腕まで這い上がった。
湿った空気だけじゃない、掴まれる感覚。
「緩く毒のように魂を侵し、災禍となる」
咄嗟に振り払えば、感覚は消え失せた。
「兇人を葬るのは咎ではないのですよ。人として居られるうちに引導を渡すのは天司の御神の慈悲……荒神となれば人ではなくなり、ただ、人を喰らう悪鬼となる」
投げ捨てられた言葉に、再び闇が訪れた。




