幻解祁玲
誰かの嘆くような呻き声が聞こえる。
低く、低く声を押し殺して……すすり泣くような声?
いや違う、狂笑……
何かで口元を押さえ、狂ったように笑う声だ。
微かに聞こえたその声に背筋を震わせながらも、思わずその方向を探してしまう。
遥か遠くに朧気に見つけられたのは、誰かが……男か女かも見分けられない誰かが、小さな赤子を高く抱き上げていた。
そして、その誰かとオレの間を遮るように、影が流れ込み隠してしまった。
今のはと疑問に思うよりも、未だに聞こえる狂笑の元を探してしまう。
その声に混じる悲鳴は幼い女子のようで、ただ悲痛に叫んでいた。
けれど、その声もぷつりと途切れたのに笑う声だけは、まだ、何処かで響いていた。
その笑い声も一度だけ、瞬いた閃光に途切れ、また嘆く声ともすすり泣く声ともつかない声がぐるぐる回るように聞こえた。
何処かの方を向いたときには、蔑み笑う声をこらえ、何処かでは歓喜の笑う声をこらえ、彼の方向を向けば、小さくも無邪気に笑う声が聞こえた。
何処かへ目を向けたとき、顔も見えない男が小さな女を腕の中に収め、何処かへ向けた時には、誰かも分からない金色の青年が背を向け走り、何処かでは哀しく笑う女が顔を隠した。
最後には薄汚れた白い何かが、赤く染まっているように見えた。
それを掴もうと手を伸ばせば、もう片方の指先だけに暖かな指先のようなものが触れた。
そちらに気を向けた瞬間、何も聞こえなくなり何も見えなくなったが、触れた感覚だけがただ残っていた。
温かなそれを確かめるように親指で撫ぜれば、強く握り締められた。
誰かの心配そうな声が聞こえる。
あぁ……誰かじゃない。なのに、何かが隔たるように名を呼べない。
何か……誰か……
大きく外れた何かの中にあるはずで、外れてしまっているが故に思い出せない。
歪んだ何かの中に放り込まれた感覚。
地に足の付かない不安な感覚の中、無意識のうちに指先に力を込めれば、また強く握り締められた。
そして、その手を何度も叩かれるうちに、歪みの外側へと抜け出せた感覚に陥った。
しかし、あくまでそれは歪みの外側へ抜け出せただけで、何も変わっていない。
狂った感覚の中、唯一は、指先に感じる温もりと強さだけ。
柔らかな感触を逃さないように、もう片方の手を添えれば、その手を包まれるように握られた。
誰かの心配そうな叫び声と、ぽつぽつと感じる熱いもの。
閉ざされた感覚から逃れようと、闇の中から光を得るには瞳を開ければいい。
ただ其れだけなのに上手くいかない。
薄らと見えたはずのものは、紫色のような。
何ひとつ分からないまま、それだけを覚え、緩やかに闇の中へ落ちていった。
「十斗」
囁く声と、額に触れた冷たい指先が流れるように動いたのを感じ、同時に鈍く痛みを訴えた頭に顔をしかめた。
しかし、その痛みで瞳を開くことができた。
高い天井を数秒ほど、ぼうっと眺めてから、視線を彷徨わせた。
ごく自然に座り、見下ろしていた黒い暗紅色の瞳を、そのまま同じ様にぼうっと数秒見つめてから、額に手をやった。
微かに熱を持った部分に、自分の冷たい手が心地良い。
「オレは……どうしたんだ?」
頭痛のせいか頭がグラグラと揺れて、記憶も定まっていない。
ただ、分かるのは自分の部屋ではない場所で横になっていることだけ。
「倒れたんだよ。疲れが出たせいじゃないかって翁が言ってたよ」
「そう、だったか。すまん……もう、大丈夫だ」
視界も定まってくれば、頭痛も落ち着いてきた。
「こんな時くらい休めばいいよ。曲がりなりにも君も客だからね」
「そういう訳にも行くまい。大体、従者が主に看病されてどうする」
起き上がろうとした俺の肩に手を沿え、思い止まらせようとしてくれたのか……しかし、寝ているほうが性に合わない。
「固いね。でも、もう少し休んでなよ。それに翁も灯里も散歩に出てるし、やる事ないよ」
「……珍しいな」
言いながら、完全に起き上がり自分の手で頭を冷やしながら、明るい日の射す方へ目を向けた。
確か猫間障子と言ったか、雪見障子に良く似ているが障子の上半分に硝子が嵌められ、そこから、薄黄色に染まる紅葉が見えた。
「何が珍しいの?」
「いや……お前なら、灯里様と共にいる方を選ぶと思ってるからな」
「そういう悪態をつける元気はあるみたいで良かったよ。でも幾ら何でも、弱ってる君を置いて行くことはしないし、灯里には翁が一緒だからね」
くつりと柔らかく笑ったかと思えば、微かに袖を振り膝の上においてあった本を改めて手にした。
「そうか」
姿勢を直しつつ、肩に手をやり首を回し少し確かめるように解してから、思い切り伸びて、腕を横へ振った。
「わっ!」
鶯色の単着物から覗く細い腕を掴み、勢い良くその腕を引けば、油断していたかのように悲鳴が小さくあがった。
立つべき音もほとんど立てず、布団の上に半ば巻き込むような形で組み伏した。
半身で身動きが取れないように封じ、自由にしたもう片手で枕上に置いてあった本来、向けるはずのないものを手繰り寄せた。
俯つ伏せとなり、少し呻きながら口元の自由を得て吐息を零した。それを見届けてから眼前にゆっくりと、それを添え置いた。
「な、なに……どうしたの、十斗?」
狼狽を浮かべた黒い瞳と声は、間違えるには些か難しい。
「……それをお前が問うのか」
「えっと、何を言ってるのか、分からないんだけど……」
微かに震えた声に、誰とも分からないが、添えた刀を抜くわけには行かず、組み敷いて掴みあげた腕を更に上に吊るした。
一度見ただけでも忘れられない……左腕にあったはずのものがない。
「では問おう。お前は誰だ?」
「じ、十斗……冗談を言ってるの?」
「悪いが、大和を演じるにも度胸が足りない」
大体、本物の大和なら灯里様が倒れたならいざ知らず、オレが倒れたくらいで看病など絶対にするか。
深く溜息を吐きたくなったが、そこは堪えて、膝の下で身じろぐ者を見下ろした。
良く似ているがやはり違う。
「オレに掛けている幻は解いていただけるのか? それとも、根競べとした方が良いのか?」
流石に、これ以上痛めつけるわけにも行かないしな。早く戒めは解いてやりたいとは思うが、解いた途端に反撃に遭っては目も当てられない。
「わかった! わかったから!」
悲鳴を上げた声はもはや大和とは遠いが、世代は近いようだ。
鞘を首元から外し、少しだけ掴んだ腕の力を緩めた。
「この腕も解いて、ってかどいて!」
「幻を解いていただいた後なら幾らでも」
「くっそぉ……何が騙され易いだ。大嘘じゃん」
「……主への暴言であれば、収めたものを今度は深く刺し入れねばならぬが、宜しいか?」
「宜しくない! もう、わかった。悪かったって!」
動かせる範囲だけで、足をばたつかせれば、一瞬だけ光が強く刺したように眩み、術師の姿を露にしていた。
「ほらっ、もう良いでしょ!」
「十斗ってば、ホントに騙され易いんだから」
は、はは、ははははははっ。
大和のヤツ……
「どけってばぁ!」
「祁玲、暴れると本気で折れるよ」
「それは……困る」
叫ばず済んだが、立ち上がりざまに、思い切り戸の傍に立つ大和を睨みつけていた。
今も変わらぬ鮮血色の忌み色を瞳に宿したまま、軽く眉を跳ね上げて笑っていた。
「大和」
「でも、言った通りだったでしょ?」
「どこが! 全然っ、すぐだったじゃん!」
オレの問いかけは流され、大和は目の前にいる方へ声を掛ければ、かの方は背を向けたままドスリと音を立て乱暴に座り込んだ。
「大和」
「何を言ってるの。まだ、しっかりと嵌ってるんだよ」
「ウソ! だって、起きてすぐじゃん! 見てただろ!」
「大和……」
……そろそろ、怒鳴りつけて良い頃合か? などと、本気で思い始めれば大和は今気が付いたと云うように、小首を傾げて見せた。
「何か言いたそうだね、十斗」
「どういう事か説明、願いたいものだが」
一瞬、怒りで普通に問い質そうとした自分に気が付いて、ゆっくりと言い直した。
「ちょっとした憂さ晴らし、かな?」
「大和っ!」
「……ほう」
悪びれた風もなくさっぱりとした音で言う分、本当にそうなのだろうな。
「違うでしょ! ってか、謝んないの!」
「なんで謝らないといけないの? 僕はただ祁玲に“面白い奴だよ”って紹介しただけじゃない」
「え、全部こっちに責任押し付ける気……」
言い合いにもなっていない二人の言葉の応酬に、怒りを持続させるのも面倒になってきた。
それに、何処と無く、今までとは違う解けた空気を纏う大和の姿に驚いたのも大きい。
「あ、あのさ……十斗、ご、ごめん、ね?」
ようやく振り返り、萎縮するように頭を下げた“彼女”にオレも非礼を詫びたところで、ようやく彼女が何者かを知って、再びオレは遠慮もなく大和を睨んだ。
皐祁玲殿。歳はやはり近いがオレたちの方が二つ上であり、彼女もまた、瞳に若草色を持つ神宿りの御子だが、何処となく朔耶やリコ殿に近い雰囲気を感じた。おそらく、長い髪がほのかに灰色のような色を帯びているせいかもしれない……
皐家は邦前神を祭る西の葉越神宮の宮司。
神に仕える家に生まれた神宿りの子の場合は、その子が家を継ぎ、血脈を繋いでいくのだが……次代を担うのは同じ神宿りの子である祁玲殿の兄、広延殿。
一度もお会いした事のない広延殿には申し訳ないが、正直、家を継ぐのが祁玲殿なら良かったと思っている。
葉越神宮……皐家は御剣から生まれた神宿りの子を迎える役目を持つ。それ故に、御剣の神宿りの子が女児ならば、当然、婚姻関係に当てはめられた。
そう思い出してオレは、思わず隣に座る大和を隠れるように覗き見していた。
大和は、運ばれてきたお茶を祁玲殿がオレたちに配り、自分の前に抱えるように茶菓子を置くのを見て静かに笑っていた。
婚姻の話はつい先日、紀代隆様から勉強の補足として聞かされた。
お館様の配慮なのか分からないが……灯里様が八歳になられるまでは、他言無用と念を押され、一瞬だが、大和を警戒してなのかと疑ってしまった。
まあ、恐らく思い過ごし……で、あって欲しいが。
茶を啜り、一息ついた瞬間に、祁玲殿の思わぬ発言が耳朶をうった。
「神宿りって言われても、結局は遺伝だし。曾爺ちゃんが大陸の人間なんだから、こんな瞳の子供や孫が産まれるのなんて、他と比べたら珍しくもないわけじゃん。それなのに、修行して来いって放り出されるほうの身になって欲しいよ」
「そう、なのですか?」
「そうだよ。西じゃ東よりももっと大陸の人間が来るし、曾爺ちゃんもそんな一人だったらしいんだけど、若かりしの曾婆ちゃんに惚れこんで、必死に宮司の勉強したんだって。そう、婆ちゃんから聞いたんだ。
だからってわけじゃないけどさ、本当にやりたい人がやればいいのにって思うわけ」
「そういう風に本人は言ってるけど、実際に祁玲の方が神力は高いんだよ……だから皐家としても本家に入って欲しいんだと思うよ」
不貞腐れながら、茶菓子を口に放り込む祁玲殿に聞こえないように、こそりと付け加えてきた大和に、なるほどと頷いた。
力を持つものをより高いところに……ということか。
「祁玲殿は、いつからこの本家に? 伺う様子では直近と思われるのですが?」
「呼び捨てでいいって。こっちに来たのは一週間くらい前、ちょうど誕生日に出発させられたんだよ」
「そうか、祁玲の誕生日もう過ぎてたのか」
「そうだよ。誕生日前に手紙出したんだけど……読んでないの?」
「入れ違いになったのかもね」
「えー、祝いの要望たくさん書いておいてやったのに」
……本人を目の前に余計なことは言うまい。
大和を見つめたまま残念がる祁玲殿の手紙。それはきちんと届いて、その中も大和は目を通している。
ただ今回は、その返事のための筆が、すぐに取られる事がなかったというだけ。
戻ってきてから返事を書くと言っていたのも記憶にあるんだが、大和はそれを受け取っていないことにしたようだ。
「それより灯里ちゃんは? 今回一緒に来たんでしょ?」
「灯里なら昼寝してるよ。祁玲と違ってほんと大人しくて、可愛く寝てるよ」
「それさ、本人目の前にして言う言葉?」
「愛してるもの」
「おお、想定以上の重症だ……まあ、手紙にべた褒めしてるほどだもんね」
呆れたと呟いた祁玲殿が一息吐いてから、オレへと体ごと向き直ってきた。
「十斗から見ても灯里ちゃんって、そんなに大人しくて可愛い姫様なの?」
興味深々に問い掛けられるが、どう答えていいものか。
確かに可愛らしいとは思うが……大人しいともなれば、欲目多い大和には、そう映るだろうが、どちらかと言えばお転婆。
まあ、隣りから凄まじく冷たい空気を感じるので、ただ一言「はい」と答えた。
「そっか。今から逢いに行っちゃおうかなぁ」
「恐れながら祁玲殿」
「ん?」
楽しそうな声色に続けようとした唇の動きに、オレは思わず声を重ねていた。
突然遮った形になったおかげか、祁玲殿は不思議そうにこちらへ目を向けた。
「先ほどから問おうと思っておりましたが、その御召し物のままで、この後も過ごされるのですか?」
「あ! うっかり忘れてた。環様に怒られるわ」
「怒られてくれば? どうせ、その言葉遣いも正すように言われているんでしょ」
「うっさい! こういう時ぐらい羽伸ばさせろっ」
「そう。まあ、僕らには関係ないけど……早く戻った方が良いと思うよ」
「わかった分かった。あとで驚くなよ」
にやりと口角を上げて笑う祁玲殿に、大和は静かな笑みを返しただけだった。
そして、勢いよく立ち上がれば、空いた茶器類を手早く下げて「あとでねー」と残して去り、大和は音もなく吐息を零して立ち上がった。
「もう少し休んでて良いよ」
「何か言いたそうに見えたのは、オレの気のせいか?」
立ち上がったままの大和から、いつもの様に見下ろされるが、静かに揺らぐ紅い瞳をゆっくりと伏せて、緩く首を横に振っていた。
「別に……灯里の様子を翁に聞いてくるだけだよ」
「そうか……お会いしていないのだな」
確かめる必要などないのに、聞いてしまったことを悔やんだ。
忌み色を強く発現したままで、何も知らない灯里様に逢えるわけがない。
しかもその傍には、同じく何も知らないみちる殿がいる。
「十斗、もう少し休んでなよ」
「……ああ」
念を押すように告げられ、謝罪するべきか迷ったがそれは違うと思い、頷くしかできなかった。
静かに開けられた戸は、閉ざされた瞬間だけ、いつもより強い音を出していた。
猫間障子から見える薄黄色に染まる紅葉が、風にひと時だけ大きく揺らいだ。
閉ざされた戸を開け外に出れば気分も変わるのだろうが、不思議とそんな気も起きない。
隠し事をしている後ろめたさも尾を引いていると言う具合で、ほとほと自分の無力さが恨めしい。
しかし、今の状態の大和に打ち明ける事など出来ないし、かといって灯里様に大和のことを打ち明けて拒絶されれば、それこそ……どうなるか分からない。
考え事はどうも得意じゃない。鈍く痛む頭に、改めてそう思いながら溜息をついた。
だが、いつまでも避けて通るべき道ではない。
どちらにせよ、灯里様の件はその時が来れば分かることだし、夏になれば大和は登城せねばならない。
今までのように灯里様のもとには居られないし、オレ自身も大和の側に居ることも少なくなる。
そこまで考え、やはり伝えるべきなのではないかと過ぎったが、狐道の一件もある。大和の瞳であれを思い出しては遣る瀬無いが、祁玲殿のような神宿りの御子もいるのだし、存外……
ダメだな。これではオレが大和を避けているだけか……
それにしても、何を言い掛けたのだろうか。
それか、祁玲殿の会話を途切れさせたことに気が付いたか……かな。
もう一度だけ溜息をつき、ともあれと、やるべき事はせねばと思ったにも拘らず、立ち上がろうとした途端、酷い眩暈に襲われた。
天地が激しく変わるような感覚。それが収まるまでの間に、何か分からないが多くのものを見たような……いや、何かが捲き戻るような感覚だった。




