緩き必然
長い秋雨の降りしきる夕暮れ。
晴れていれば茜色の空の元にゆったりと飛ぶ蜻蛉の姿が見えただろう。
しかし、空は暗く絹糸の如く細い雨が終日やむことは無かった。
修行の地にて椛様の御逝去の一報を受け、同時に仕える主を失った母上がお屋敷を去った事を聞かされた。
自ら暇を貰ったと聞いて、落胆していた。
時折送られてくる鷹の便りにはオレを気遣う言葉と共に、灯里様の成長の程を知らせてくれていた。
それも見られぬ空白の刻に落胆してしまった。
その手紙のやり取りが修行の合間の励みだったから。
しかし幾許の年月を重ねぬうちに、お館様から直々に命が下った。
北の僻地で半人前として修行を重ねていたオレにどんな命が下るか。不安と期待が入り混じっていたのは間違いない。
そして「こんな事など唯の一度たりとて無かった」とは師、紀代隆様の言葉だ。
オレたちは急ぎ、御剣のお屋敷に戻ってきた。
誰よりも真っ先に会わねばなない人物、后守一族が主と定める今代のご当主。
本邸に通されるのはこれが二度目。旅立つ挨拶に伺ったときだ。
連続して開かれていく戸の数々は質素を好まれた椛様の邸とは違い、都一の絵師が描いた(と言われる)煌びやかなものだった。
長く広い大広間の最後の襖には、皇家の家紋を守る鳳凰。
その鳳凰が左右に分かれ、ご当主の姿が先にあった。
「后守紀代隆、ならびに后守十斗。綾之峰様の命を受け、参上いたしました」
師に習い、畳に額を付けるか否かのぐらいまで頭を下げた。
遠くから何か音が近づいてきた気がして、頭を下げたまま音のする方に意識が向いた。
「やぁだぁぁ!」
「あっ、ダメだよ灯里!」
聞き慣れぬ子供の声。そのうち静止する男の子の声に思わず顔を上げかけた。
しかし、許しがもらえるまで礼を崩せなかったけど、けたたましい音を立て廊下の障子戸が開かれた。
「とーしゃまのそばにいぅ」
半泣きの女の子の声に、オレは堪えきれずその方向へ顔を上げてしまった。
お館様のお召し物に縋るように薄紅の着物に身を包む黒髪の少女。
母の手紙にあったままの快活な容姿。一瞬だけ見えた菫の瞳。
「あ……」
「十斗っ」
師の叱責する鋭い声に、慌てて礼の姿を取り繕い謝罪の言葉を述べた。
久しくお目に掛かれなかったせいか、不思議な気分だった。
「面を上げよ」
ようやく降りた許しの言葉に、オレは逸る気持ちを抑えながらもう一度、目の前に座るお館様と縋りつく灯里様の姿を見た。
「大和、入るがよい」
「失礼します」
廊下で待っていたもう一人へ声をかけ、ゆっくりと入ってきた少年を視線だけで追った。
同い年の、少し女のような顔立ち。闇に近い暗紅色の髪と瞳。
「初めまして。ようやく十斗に逢えた……僕は大和」
「……え、と」
差し出された手に直ぐに返すことが出来ず、一瞬開いた空白。
「あかりもぎゅっする!」
珍しかったのか灯里様はご当主に縋っていたはずの手を放し、今にも裾を踏んでしまいそうな危ない足取りで、差し出されていた大和様の手を握りもう片方の手でオレの手を握った。
「えへへ」
無邪気に笑う表情は赤子のときと変わりが無かった。
「お館様、もう一つお願いしてもよろしいでしょうか?」
灯里様に手を上下に振られるままになりながら、大和様が奥に座るお館様へと振り返った。
「必要外では、彼には名前で呼んでいてもらいたいのですが、ご容赦願えますか?」
丁度後ろ姿になってしまい、表情は見えなかったが柔らかな口振りで、とんでもない事を伝えていた。
どれだけ間の抜けた表情を晒していたのか分からないが、視線を戻してきた大和様は微かに口端を持ち上げて小首を傾げて見せた。
「口挟むのは私の役目ではないが、お前達の好きなようにするが良い」
「ありがとうございます。そう言う事で、十斗。君もいい?」
「え、と……」
後に大和に聞けば、どう答えて良いのかわからず、お館様や師へ思わず助けを求めるような目を向けてしまっていたらしい。
「じゅっと。じゅっと」
灯里様にまで声を掛けられ、止まっていたはずの手がまた大きく振られた。
オレはもう一度だけ師とお館様へ目を向けて、繋がれた手をそっと離して、改めて座礼の形を取った。
「后守十斗と申します。大和、灯里様、以後お見知りおきを願います」