無垢なる歩
灯里様が一人であちらこちらへ、はいはい出来るようになった時の椛様の凄く嬉しそうな表情が今でも憶えている。
幼心に無垢な赤子と同じように笑う椛様の表情をこっそりと母上に報告すると同じように笑っていた。
秋雨の降る月ともなればその寒さを一層に増し始める時期であり、体の弱い椛様には堪える季節。
夏の強い日差しに焼けた肌も少しずつ元に戻り始めてきていた。
避暑として別荘に行ったとき、近くの川へ毎日のように出向いては母に指導をもらいながら魚を取ったりなど、夏はどうにも語りつくせぬ日々を送った。
「十斗、今日は生憎の天気……灯里と共に部屋で過ごしていなさい。後で、皆に茶を立ててもよいわね」
健やかに成長を遂げる灯里様とは対照的に、椛様の顔色は少しずつ白さを増していた。
オレはその僅かな変化に気が付くこともなく、雨が僅かに吹きこむ廊下へと出て行こうとしていた赤子を慌しく抱きとめていた。
「灯里様、外は寒いですよ。めっ、ですよ」
そう怒っても理解などしてくれるわけもなく、じたばたと外へ出ようとする灯里様を無理やり抱きかかえると、案の定、大泣きされてしまった。
「これ十斗。何事も力任せにしてはだめよ」
「だって、母上……」
何も思い浮かばない。他にいい案があるなら早く教えてもらいたかった。
「姫様と同じような顔をしないで、そういう時は興味の対象を移せばいいのよ。こんな風に」
少しだけ悪戯を思いついたような笑顔を浮かべた母は、薬包の余っていた紙を持って近づいてきた。
「姫様。ほら、くしゃくしゃ、くしゃくしゃって」
そう言って両手で紙を音を立てて丸め始めると、泣いていたのがピタリと止んで不思議そうに母の手を見ていた。
「ね。色んなものを見て触れるのが子供。きっと前から雨が気になってたんでしょう」
「琴世、十斗。ありがとう……灯里、おいで」
そっと広げた椛様の両手にオレは灯里様を抱き渡すと、小さな手が袖を掴んでいた。
「あらあら、この子ったら」
微笑みながら灯里様の濡れた目元を綿で優しく拭い、くすぐったそうに笑い声を上げる灯里様につられて皆、笑っていた。
それから、月日は穏やかに流れた。
雪の積もった晴れた日は、重ね着を幾重もして体を冷やさぬようにと灯里様を抱いて凍った池を見た。
初めて触れた雪の冷たさにも、驚いて泣かれた。
大晦日の日には侍女たち皆で集まり、年越し参りと共にお二人の祈願をし、迎えた新年の初日の出は椛様と灯里様……皆で見た。
七草の頃にはオレは師匠と紹介された人と共に裏山に入り皆の分を集め、お二人も食していただいた。
春、桜が咲き舞い散り、葉桜へと変わる頃にはまた盛大に灯里様の生誕祝いが開かれた。
夏、例年ならば椛様は侍女と母を連れて避暑地へ赴かれるはずだった。しかし、今年は生憎の冷夏ともなりお二方とも風邪を召され叶わなかった。
同時にオレは椛様の部屋への出入りが禁じられた。
半人前にも満たないが男児として椛様へのお目通りも今までと同じようには行かなくなった。
それでも、この刻までの唯一の仕事。灯里様の散歩だけは任せてもらえていた。
母や侍女を介していつもの四半刻程度の散歩。
最後の日だけ、椛様の離れでお茶をいただく事が出来た。
夏至を過ぎたその日が最後。
后守の掟に従い、師匠となったその人と共に北の地へ赴いた。
御剣を守るが后守。
己の命を賭して御剣を守る。
今はまだ盲目に、ひたすら励むだけで良かった。