他愛なき萌えゆる
――菫の瞳、神宿りの姫。
闇に迷いても導を失わず。
また、闇に迷いし人の導とならんことを。
願わくば人々に慕われる導となり、寄り添う彼の人の導とならんことを――
「灯里様、椛様、おはようございます」
母より誰より先にオレは、開かれた襖を飛び出してしまっていた。
もちろん、後で密やかに母に窘められたのは言うまでもない。
「十斗、琴世。毎朝早くからご苦労様です」
「そんな、滅相もございません。わたくし共も奥様と姫様のお顔を拝見したく、早く着すぎてしまいました」
無理やりに急かしたのはオレだったが、母はそのことには触れずただ日課の準備に取り掛かりはじめた。
椛様はお体が少々、弱い方。
灯里様を御懐妊なされたとき、その命すら危ぶまれた。
しかし、こうして無事にご存命された事実は医師である母をはじめ侍女たち皆が手放しで喜び、灯里様のご生誕を祝う宴は確かに盛大に行われた。
その席には、残念だけど出席することは出来なかった。母曰く「お役目にも色々あるのよ」と言われてしまい、文句を言いながらその日は過ごしていた。
「十斗。この子に庭の花を見せてやってくれないかしら? 昨日、侍女が池で杜若の花を見たと教えてくれたのよ」
「はい! 母上、椛様行って参ります。灯里様、いきましょうね」
この朝の散歩が唯一のオレの仕事。
後に与えられる仕事に比べれば、何と平和な事か……
でも、妹が出来たように思えてとても嬉しくて、誇らしかった。
同時に一人の付き添いの侍女かえ殿と、三人だけの秘密にしていた事があった。
他愛もない、秘密。
敷地内の池は皇家の城の池とは比べ物にならないほど、小さいがそれでも鹿威しの小気味のよい音が葉桜の間を駆け抜けていた。
まだ首も据わっていない赤子を抱くのは怖かったが、それでもかえ殿に教えてもらうとおりに抱くのを代わってもらった。
散歩に出られるようになったのは本当につい最近。
石組みの花壇から外れた池の中に、白く咲く杜若の花を見つけ灯里様に見えるようにとゆっくりと、腕の位置を変えた。
「灯里、見える。あれが杜若だよ。普通は濃い紫色なんだけど白いのもあるんだ。あれだと染まらないけど、凄くきれいな紫色の染料になるんだ」
本当に他愛ない秘密。
主を呼び捨てにしているなど、無作法者がすると分かってはいたはずなのに。
小さな菫色の瞳はオレの教える花には向かず、無垢に笑いオレを見上げていた。
四半刻程度の散歩。
柔らかな朝の日差しが僅かに翳りを見せ、風が僅かに強く空を吹いていた。
「雨が降る前に帰ろうか? 灯里が風邪を引いたら椛様が心配しちゃうし」
頬に触れば嬉しいのか、楽しいのか目を細めて満面の笑みを向けてくれた。
穏やかな時は瞬く間に過ぎていく。それでも、永遠と信じていた。