大晦日 前編
朝餉の後、オレは大和の部屋へと向かっていた。
廊下を歩き後少しで部屋へ着くというとき、先の廊下から侍女が足早に訪れ、オレに一礼をして、障子越しに声をかけた。
「大和様、綾之峰様がお呼びです。急ぎ、お部屋までお越しくださいませ」
侍女の言葉が終わり、少ししてから大和が顔を覗かせ、仕度を済ませる旨を伝えていた。
そして部屋へ戻ろうとした時、気がついたのかオレの方へ顔を向け、手招きをしてきた。
流石に大掃除を済ませたばかりの部屋に本の山はなく、敢えてあるとすれば机の上に広げられた物のみ。
「座っていいよ」
許しの言葉に足を崩して座り、大和も同じように向かいに座り込んだ。
「それで、十斗。何かあったの?」
手短く話せと促され、吐きそうになった溜息を飲み込んだ。
「大した事ではありません。ただ、此度をもって灯里様の后守の任を解かれただけの事にございます……」
「そっか。だからあんな顔してたわけね」
然したる感情も乗らない大和の相槌を聞き終え、着物が入った棚へと向かった。
手前にあった松葉色の着物を取って渡した。
「お館様をお待たせする訳には参りません。仕度を……」
「僕が簡単に傍を離れる気が無いから、あんまり気にしないでいいよ」
水に流れるようにさらりと言ったせいで、一瞬呆気に取られた。
「君は今まで通り、何も変わらない。改めて言われたからって気にしすぎ」
着替え終わったので、歪んでいた裾と袂を整えてやる。
「分かった?」
「ああ。ありがとう」
本人から言われた分、確かに、と思い直すことが出来た。
「一体、何の用なのかな」
「…………」
これ以上の話題を避けたと言うよりもずっと自然に、大和はお館様の居られる部屋の方へと、視線を向けていた。
「ありがとう。直ぐに終わると良いんだけどな」
独り言を呟くように言いながら部屋を出て、一歩遅れる形で大和の後ろを歩き始めていた。
「十斗、戻りは気にしなくていいから。やる事あるならそっちやってて良いよ」
「……では、恐れながらこちらにて失礼致します」
お館様の部屋は最奥にあたり、その手前の部屋の前でオレは大和に向かい礼をして下がった。
呼ばれた者以外は、決して立ち入ることを許されない。
大和が部屋の中へ入ったのを確認してから、オレは自室へと戻った。
今夜の準備もしなくてはならない……
例年通り、陽川神社だな。
気が落ちたままなどと言っていられない。気分を入れ換えてやらねばな。
初詣の参拝客も多いだろうから、早めに仕度をして出なければならない。
先日からある程度の準備は終えた。師にも確認して頂いたし、大和の支度は大丈夫。灯里様の方も侍女達が支度をしているから平気だろう。
着物はすでに用意が終わっているし、焚き上げする破魔矢などの用意も終わり。
後は道調べか……
先だっての一件もある。あの男たちが何処から来たのか、そう言ったもの全てが霧の中。
師からは何も言われていない。何処かで聞く時間を見つけて聞いてみたいが、頭領が止めているのなら、知らないかもしれない。
「十斗殿、居られまするか?」
「はいっ」
侍女の声にオレは考えながら用意していた手を止め、部屋の戸を開けた。
「かえ殿、如何なさいましたか?」
戸を開ければ、明るい笑顔のかえ殿に迎えられた。
良く見れば割烹着姿のまま、オレはそのまま後ろ手で戸を閉めるとますます、かえ殿の笑みが華やいだ。
「いえね、后守のお手を煩わせるのは如何とも言われたのですが、少々お頼みしたい事がありまして」
「……今度は何処まで、何の使いですか?」
かえ殿が訪れた時点で用件に見当はつけ、問いかけると嬉しそうに両手を合わせた。
「流石は十斗殿。よくお判りになられましたね」
「その姿で訪れればなんと無しには……」
苦笑を抑えた溜息に変えて言うと「あら、私としたことが」と、少しばかり罰が悪そうに笑った。
かえ殿のその仕草一つ一つが幸せそうに見えた。これから結婚をするという女性はこう言うものなのだろうか?
「それで、お願いしても宜しいですか?」
「はい。これから外を見る予定でもありましたから、少し戻りが遅れても平気と言うのであれば」
「ええ、それでも構いませんから。竹筒と串が少し足りないようなので」
「それは構いませんが、藤細工は既に休みでは?」
少しばかり、かえ殿の言葉を遮る形になってしまったが、贔屓の店は既に正月休みに入っていたはず。
「大丈夫ですよ、あの人には既に連絡を入れておりますから。用意も既に終えてあるはずですから、よろしくお願い致しますね。これが代金になります」
「……? ええ、わかりました」
ほんの僅かにかえ殿の頬が赤くなり、口元に手を当てて小さく笑い飛ばしていた。
「その代わりと言っては何ですが、大和を見かけたら、出掛けた旨を伝えておいて頂いてもよろしいですか? 今、お館様に呼ばれて席を外しているので」
「ええ、お受けいたしました。よろしくお願いしますね」
その言葉に互いに頭を下げ、いそいそと厨へと戻って行くかえ殿の後姿を見送った。
オレは一度部屋に戻り羽織を持って、預かった封筒を失くさないように懐に挟んだ。
まあ、街中を歩くだけだし……他は何も持たずともいいか。
一度だけ部屋を見渡してから玄関まで向かうと、衝立の陰から小さな影が飛び出してきた。
「ぅわわっ!」
「っと……大丈夫でしたか、灯里様?」
前を見ずに飛び出してきたのは灯里様だった。
灯里様の驚いた表情を向けたが、直ぐに首を縦に振って見せた。
「だいじょーぶっ。えと、じゅっと、ごめんなさいっ」
「ええ……あ、灯里様!」
初めて見る勢いで、灯里様は侍女達が詰める部屋の方へ、走って行かれてしまった。
嵐のように走り去って、一体何を慌てていたのか……どちらにせよ折を見て、お会いせねばなるまい。
ふっと溜息をついて屋敷を出て、門外の階段を下っていった。
流石、大晦日と言うだけの事はある。どこの家にも正月飾りが飾られ、新年を迎えるための最後の準備に活気溢れていた。
通りを歩けば引っ切り無しに飛び交う声に、目当てのモノを少しでも安くしようとする買い手の声や、所以の些か怪しいモノを売ろうとする声。
忙しなく駆け抜けていく行商人たちは、道を譲ってもらおうと大声を張り上げて、溢れる人の合間を縫って通り過ぎていく。
こういう日は本当に何事もなく過ぎてもらいたい。
半ば願いながら、細工店が並ぶ通りへ角を曲がるとこちらもまた、人が多い。
藤細工はこの一帯を仕切る店でもあり、新年の献納品管理の為か戸は固く閉まっているはずだ。
その店の前だけ人が居ないのだから、探すのは苦労しなかった。
正面から声をかけても反応はなく、裏の勝手口へと回ると一人の男が丁度、外を窺うように小窓からこちらを覗いていた。
「あの……」
「あ……」
オレが声をかけると男はいそいそと顔を引っ込めてしまい、どうしたものかと考える間もなく勝手口の戸が開く音が聞こえた。
そして出てきた男は、小さく一礼をしてオレを通り越して、後ろをキョロキョロと探すようにしていたが、直ぐに向き直った。
「買い物なら、済まないけれど他の店をあたっては貰えませんかな?」
少し困惑し申し訳なさそうな表情で男が言い、他の良質店を紹介してくれた。
「いえ、こちらには御剣の使いで参りました。先にその旨伝わっている筈なのですが」
そう言いながら懐に挟んでいた封筒を男の前に差し出した。
表書きはかえ殿の筆で、少し丸みの帯びた細い字があった。
「え……あぁ、かえは御一緒ではないのですか」
「……?」
落胆した男にオレは内心で首をかしげ、正月準備をしていて手が離せない事を伝えた。
「そうですか……はぁ、折角会えると思ったのになぁ」
「かえ殿に何か御用がおありでしたか?」
「え? ああ、違います! そういう訳じゃないんです」
乾いた笑いを浮かべて男は、やはり落胆したように溜息を吐いていた。
「あ、竹籠とお櫃でしたっけ? 直ぐに持ってきますのでお待ち下さい」
……あれ、そうだったか?
確認する間もなく男が中へと入ってしまい、オレも慌てて追いかける羽目になった。
勝手口からすぐに土間が広がり、その奥から怒鳴り声が響いてきた。
中々凄味のある女性の声だ。
「あの、すみませんっ!」
流石にこれ以上、上がるわけにもいかず声を張り上げた。
「あらあら、すみませんねぇ。あら? あなたは確か……」
そう声を掛けながら奥から出てきたのは、物腰柔らかい藤細工の奥方様だ。
他に使用人の姿も見えないところからして、怒鳴り声は恐らくこの方だろう。
以前、屋敷でお会いしたことがあるが、先ほど響いた声の持ち主とは思えないなぁ。
「御剣にお仕えさせて頂いております、十斗と申します」
「ああ、そうそう! いつもお館様にはご愛顧を頂きまして、本当にお世話になっております。先程は、息子の秀次が大変失礼致しました」
「いえ、特には……ただ、どうも頼まれたものと、些か違う様子でしたので勝手とは思いながら、こちらまで失礼させて頂きました」
互いに深々と下げ、奥方様が面を上げたのを見計らってオレも上げた。
「確か竹筒と串でしたわね? もう、秀次ったらここにあるのに……そそっかしいのは誰に似たのかしら」
「はあ……」
苦笑しながら確かに用意が済まされていた籠があった。
「母さん、母さん! どこにあるって云うんだい?」
ドタドタと走り戻ってきたのは先ほどの、秀次殿だった。
そそっかしいって言うより落ち着きが無い印象……いや、人様を第一印象のみで評するのは良くないな。
「これ! 秀次、お客様がお出でなのに落ち着きの無い!」
「あ、す……すみません……」
二人ともまた頭を下げ、オレは慌てた。
「もう、これじゃあ、お嫁に来てくれるおかえさんが可哀想だわ……本当に」
しみじみ言う奥方様の言葉に、なるほどと内心で手を打った。
最初の予定ではかえ殿が直接藤細工に来る予定だったから、秀次殿はあそこで待っていたわけか。
一見したら怪しいよな、言わないけど。
「あらいやだ、こんなに話し込んでしまって。申し訳ございませんねぇ」
「いえ、急ぎはしないとの事でしたから」
「かえに、よろしくお伝えください」
秀次殿から籠を受け取り、オレは礼を述べた。
なんだか独特な間合いの家族に感じたが、かえ殿の幸せそうな顔を思い浮かべればそれもあるんだろうな。
嫁さんかぁ……いずれは、オレたちもそういう事を考える事になるの、か?
藤細工を後にし、大通に戻り、当初の予定通りに陽川神社までの簡単な道を確かめていく。
小さな神社だが厄除けの神社として長らく親しまれている。とりあえず、此処までの道に不審なものもなし。
通り沿いの屋台も組み立てている途中で、普段では見かけられない光景に、つい歩く速度が緩んでいた。流石に急いで戻らないと、かえ殿だけでは無く厨で待つ皆に心配を掛けてしまうな。
帰りの道は近道を選んだ。屋敷の裏に出るが普通に帰るより幾分か早く着く。
雪道はまだあまり足跡はまだ少なく、傍らの林に向かって動物らしき足跡も見て取れた。
それに子供の足跡もいくつか混じってあった。
町の子供の遊び場にもなっているのか? 疑問に思いながら歩いていたら、先の木陰から不自然な枝葉の揺れに遅れて、子犬が鼻を地面に擦りつけるようにして出てきた。
猫はたまに見かけるが、子犬は珍しいな。
「ま、まってぇ……」
静止を掛ける声と子犬に遅れて飛び出してきたのは、薄紅の着物の少女だった。
辺りを見回すその少女と目が合い、オレは驚いた。