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囁き遠のく

 年の瀬、大晦日を前にまた雪が厚く積もり始めていた。

 そして日も昇らぬうちに、オレは師とともに日課の朝稽古を始めていた。

 素足には痛いほど道場の床は冷え切っていたが、動くたびにそんな痛みも薄れていく。

「踏み込みが甘い!」

 鋭い師の言葉とともに突き出した筈の木刀は跳ね上げられ、鳩尾に掌底が叩き込まれていた。

「っ、ぃて!」

 倒れたと同時に受身を取り損ねて、思い切り頭を打ったのは予想外だった。

「すまん! 大丈夫か、十斗」

「はい、このくらいなら」

 答えながら後頭部を擦ると小さなたんこぶが出来たのがわかった。後で冷やしておこう。

「それなら良いが、少し休憩にするか?」

「大丈夫です。もう一度、お願いいたします」

「やる気があるのは良いけどな」

 少しだけ笑った師だったが、視線が不意に道場の入り口へと向けられた。

 小さな足音に衣擦れの音。それから直ぐに躊躇うように戸が開き、汗ばむ身体を刺すような冷たい空気が入ってきた。

「ここにいたぁ……むぅ」

 闖入者は寒さで赤らむ頬を膨らませ、大きな菫色の瞳でオレを睨んできた。

「あ、灯里様。このような時間に如何なさいました?」

「じゅっとの、うそつきー!」

 そう叫ぶと更に頬を膨らませて、今にも噛み付いてきそうだった。

「十斗、姫様と何か約束していたのか?」

 短く挨拶をした師は苦く笑いを堪えて、尋ねてきた。

「えっと……まあ、他愛も無いことなのですが」

 まさかこんなに早く目が覚められるとは。

 普段ならば日が昇る頃に目を覚まされるのに、参ったな。

「紀代隆様、申し訳ありませんが、オレは灯里様を御寝所にお連れ致します」

「ああ。後でまた俺のところに来い」

 道場で師と別れたオレは、灯里様の手を引いて離れへと向かった。

 握った灯里様の手は冷たくて、動いたばかりのオレの手を両手で掴んできた。

 灯里様の離れは母屋の一角を挟んで裏側。雪の上に残る足跡を見ると、どうやら母屋の中を経由して道場に訪れた事が窺えた。

「やくそく、やぶったらダメなんだよ……」

「申し訳ございません」

 先日の一件から、灯里様の部屋から明りが絶えなくなった。

 寝入った後も決して火は絶えず灯され、オレは灯里様が寝入るまで側にいる事を願われ、それに応えている。

 同時に、目が覚めたときも側にいると……

 最初は侍女たちが付いている事もあり辞退したが、一向に寝入ることも無く病に倒れられるよりは幾許もマシと、侍女たちに乞われる形で寝付くまでの間だけ側にいることになった。

 本当はそれに大和も加わる筈だったのだが、当人が『無理。居たけど無理』等と、よく分からない事を云って、一度も立ち入っていない。

 灯里様が寝入られた後は早々に自室に戻り、睡眠を取り朝稽古の後、目が覚める前に戻るようにしていたのだが、今日はいつもよりも早く起きられてしまったようだ。

「まだ朝餉の時間まで間がございます。もう少しお休みになられてください」

「ん……でもまた、じゅっとどこかいっちゃう……」

「お休みになられるまで、お側におります。それに、席を外すにしても長い時間はかけません」

「じゃあ、ねるまで……て、つないでて」

「はい」

 離れに戻り、衝立の手前で寝ている侍女を起こさぬようにしながら灯里様が床に入られるまで静かに待った。

「ねぇ、どうして……いっしょにいるのダメなのかな? にいさまとじゅっとは、いつもいっしょにいられるのに……それに、そとのコたちもみんないっしょだったよ」

 問いかけながら、少しばかり寂しそうな表情を浮かべた灯里様の真直ぐに向けられる瞳に、オレは答えを迷った。

 こうある事が、当たり前すぎて他に答える術がなかった……と言うのが本当のところだ。

「どーして?」

「……オレと大和はいつでも、灯里様のお側に居ります。それでは、満足していただけませんか?」

「んー……もっと、ずっと、いっしょにいたい。だいすきなひとと、ずっと、いっしょにいるのがおんなのしあわせだって、おしえてもらったよ?」

「そ、それは……オレにはお答えできかねますが、誰から聞いたのですか?」

 危うく吹き出しそうになったのを堪え、妙な答えを受け、更に返事に困り果てた。

「んっとね、かえから」

「あぁ……なるほど。御結婚間近なかえ殿なら、確かにそうなのでしょうね」

 そう言いながら、オレは思わず溜息をついていた。

 灯里様の世話係のかえ殿は、婚姻を持って勤めが終わるためもあって、その類の話をしていたとしてもおかしくは無いだろうが……

「じゅっと、もっと……おおきくなったら、いっしょにいられるじかん、ふえるのかな?」

「それは、灯里様次第ですよ。先日のように、お姿を隠し遊ばれ、侍女たちを困らせてばかりでは早く終わるものも終わらないですからね」

 少しばかり意地の悪い返事だったかもしれないが、灯里様はほんの少し頬を膨らませて怒って見せたが、直ぐに眠たそうに瞼を閉じられ、やがて、規則正しい寝息が聞こえてきた。

「おやすみ」

 握られていた手の力が抜けてきたのを見て、その小さな指先を離して席を立った。

 外へ出れば、陽の光が上り始め空を緩やかに染め始めていた。

 今の時分が一番、冷え込みがきつい。

 羽織も着ずに来たせいもあってか、軽く身震いがすれば瞬く間に、かじかみ始めた両手に息を掛けて暖める。

 早く師の元に行かねば、朝餉を食す間もなく大和のところへ行く羽目になる。

 そう思い、急いで師の部屋に向かった。

 師の部屋は館の入り口に程近い場所にあり、灯里様の離れから、オレは誰も通らないのを良しとして、行儀悪く庭と中廊下を経由して最短距離で向かった。

 師の部屋の戸の前に跪き、声を掛けようと呼気を整えたが、話し声が聞こえ、上げていた手を止めた。

 小さすぎる声はどんな話を誰としているのかすら、分からなかった。

 しかし、薄い戸を一枚挟んで伝わる中の気配はやけに殺伐としていて、緊張感を持たせるように伝わってきていた。

 部屋の誰かが立ったのか、僅かな音が届き静かにこちらへ向かってくるのが分かった。

「いつまでそうしている気だ、十斗?」

 戸が開き迎えたのは呆れた表情を浮かべた師だった。

「あ……いえ。お話されていたようなので……」

「話? 何を寝ぼけているんだ、お前は」

 小さく笑った師の表情に、オレは思わず部屋の中へ視線をめぐらせていた。

 綺麗に片付けられた、いつもの見慣れた部屋の中には誰もいない。

「まあいい。早く入れ、風邪を引くぞ」

「あ、はい……失礼致します」

 オレの、聞き違いか……?

 内心で首を捻りつつも、思わず視線は部屋のあらゆる場所へと向けていた。

「探しても何も出ては来ないぞ」

「す、すみません」

「それより、十斗。お前に少し話があるんだが……いいか?」

 机を挟み上座に座った師に倣い、オレも膝を付いたところで言われ、今度は本当に首を捻って師を見た。

「先日の一件を受け、お館様や頭領たちと共に話しをしていたのだが」

「っ……」

 その言葉にオレは思わず身を硬くした。

「どうした? 冷えたのならもう少し側に来るか?」

「いえ。平気です……どうぞ、続けてください」

 オレの僅かな変化を寒さのせいと思った師は、火鉢の傍に当たるようにと勧めてくれたが、その話の一件が大和の事ならと……考えるだけで気分が欝としていくのが分かった。

「そうか? なら、続けるが」

 師はそう呟くように言いながら、一瞬だけ視線をオレから外した。

 はじめて見る躊躇う師の表情にオレは不意に胸が痛くなった。

 緊張しすぎてなる痛みのそれだ。

 やはり、大和のことなのだろうか? それとも、また別の何かなのだろうか……

 グルグルと回る考えを必死に追い払い、言葉の続きを待った。

「十斗――お前を姫様の守人から外す」

 静かに告げられた言葉に、声が出なかった。

 同時に鈍い頭痛に目の前が暗くなった気がした。

「……っ、な、何故に……でしょうか?」

 突然の事に浅い呼気の合間を縫うように尋ねた。

「一つ勘違いをしているらしいが、別にお前を外すからと言って“二度と会うな”と言っている訳ではない。今のお前の力量を考え、彦様の専任となった方がいいだろう。

 幸い、お前たちの仲は周知の通りだ。彦様の件はお前以外に適任はいないだろう。しかしだ、お前一人で姫様と彦様のお二人をお守りするのは到底不可能。

 先の一件のようにお二人が離れてしまえば、どちらかに危険が及ぶ。それはもう十分に理解したはずだ」

「ですが! ですが……灯里様をお守りする后守、他の誰が就くと言うのですか?

 確かに、オレの未熟さや浅慮は重々に承知しておりますが……」

「お前の言いたいことは分かる。直系の后守に成れるのは同じく直系の者だけ。それが掟だが、先も言ったように頭領共々話し合った結果だ。

 酷だが受け入れてもらうしか他に無い。それに、お前たちのためでもある」

「……ならば……誰が?」

「それは答えられない」

「何故ですか!」

「口外するなとのお達しだ……影也て主に付き従う。俺にもお前の後任の件に関しての一切は聞かされてはいない。しかし、今までとなんらの代わりは無いはずだ。

 彦様が常に姫様の側にいるのだから、自然、お前も供にいられるだろう」

 そう、困ったように告げた師に向かい、オレはただ項垂れるように頷くしか出来なかった。

 冷静になっていれば直ぐに師の言った意味も分かったのだろうが、動揺したままのオレにはその意味を理解するにも時間が掛かっていた。

 そして何より重石が置かれたような暗澹あんたんとした気分になったのは、その師も知らぬと言う後任に対してだった。


 差す明かりは、己の心のうちとは裏腹に澄み切った青空だった。

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