荒神(5)平静願い
オレは灯里様を抱えたまま、急いで大和の元へと戻った。
小屋から大和の居る崖まではさほど離れては居なかった。ただ、道を外れ歩くから木の枝が灯里様を打たぬように一つ一つ、折っていく。
その反動で少し積もった雪が、枝から跳ね上がりオレの腕に落ちた。
冷たい雪が傷に当たり、刺す痛みを堪えていると、灯里様は心配そうな瞳で見上げてきていたが、何も言わずに顔を埋めてしまった。
何かを言いたそうな気配はあったが、どうして良いのかが分からない……そう言う雰囲気だ。
「何か、ございましたか?」
オレから尋ねてみても、灯里様は緩く首を振ってしまった。
そして空から高い鷹の鳴き声が響き、オレはそちらへと視線を向けた。
一回、二回と虚空で旋回をしていた鷹は滑るように、ある方向へと降りていった。
鷹の降りた方向は大和が待っている崖がある。
更に急いで向かい、崖が見えると鷹が再び鳴きオレを待っていた。
崖を回りこむようにして登りきったが大和の姿が見えなかった。
「大和!」
声を上げたが返事は返ってこなかった。
「にいさま、どこ?」
灯里様も姿の見えない大和を案じてオレの腕から抜け出ると、辺りを見回しはじめた。
オレは大和と別れた木の側へ向かい、何もない事を確かめてから鷹を呼んだ。
一瞬だけ風斬羽が頬を打ったが悠然と翼をしまい、首をかしげて辺りを見ていた。
「珀慧、ご苦労だったな」
先に上着から抜いた小さな干し肉を珀慧に与え、再び大和の姿を探した。
何処へ行ったんだ、大和……
広がる不安は灯里様も同じで、こぼれそうな涙を袖口で拭いては声を上げて探していた。
雪に残る足跡は、はじめにオレたちが付けたものと、喰われた男の踏み荒らしたものだけ。導になりそうなものは無かった。
何かを見落としているのか……不安になりながらも、更に周囲を探していると腕に留まっていた珀慧が鋭く鳴き、翼を激しく振っていた。
「珀慧、どうした?」
オレの知る限り、ここまで取り乱した珀慧を見た事はなかった。
勇猛な鷹が恐れる何かが居る。まさか、荒神がまだ居るのか?
不安が過ぎり珀慧を空に逃がし、離れた場所で大和を探し続ける灯里様の傍へと急ぎ戻った。
「どうしたの……?」
「声を立てずに」
懐刀の柄に手を掛け珀慧の恐れた方向へと視線を向けると、樹木の上から雪の塊が音を立て地面に落ち、思わず身を強張らせた。
「は、くしゅっ……」
そして聞こえた小さなクシャミに、オレと灯里様は思わず目を合わせていた。
「……にいさま?」
確かめるように灯里様が呟き、ゆっくりと歩き始めた。
しかし、先の珀慧の異常な怯えが荒神に対するものならば、オレは思わず灯里様の腕を掴み引き止めていた。
「じゅっと、どうしたの?」
「あ、いえ……」
引き止めたまま考えてしまう。大和が荒神に呑まれたのは紛れもなく事実で、珀慧の異常な怯え……
安易に灯里様を近づける訳には行かず、かといって大和の荒神の瞳は……軽々しく口にして良いはずはない。
「……その先は、少し、雪が深いので」
咄嗟に付いた嘘で灯里様を抱きかかえ、僅かに警戒しながら静かに近づいていった。
緩く小さな下り坂を降りると、若い木が幾本も生えた場所があった。
大和はそこでオレの羽織をきつく身に纏ったまま、しゃがみこんでいた。
「……っ、大和」
「にいさま!」
躊躇いがちに声をかけたオレとは対照的に、灯里様の再会を喜ぶ声に大和は静かに顔を上げた。
黒に近い暗紅色の髪から優しげな瞳がこちらを見つけた。
心拍数が上がっていくのが嫌でも感じた。浅い呼吸を気取られぬようにしながら、オレは何事もないように灯里様を地面に降ろし、その僅かな合間で確認した。
「十斗、灯里……」
静かな言葉とともに向けられた瞳は髪と同じ暗紅色。
オレはようやく自分の身から緊張の糸が解けたのを感じて、地面にへたり込んでしまった。
「お待たせしてしまいました……ご無事で、何よりです」
「座り込んで言う台詞じゃないでしょ? 后守なら、相応しい態度があるんじゃないの?」
くつくつ笑いながら灯里様を抱きしめ、オレの傍へときた大和の言はもっともだった。
けれども、緊張の糸が切れたオレは直ぐには姿勢を正せず、苦く笑って許しを請う。
「にいさま、じゅっといじめたらダメっ」
「別に苛めてはいないよ。何をそんなに怒ってるの、灯里は?」
大和の頬を小さな手の平で幾度か叩く灯里様にオレは少し焦り、叩かれた当人は軽く肩を竦めて問いかけた。
ぎゅっと大和の首に縋りながら、オレを向く灯里様の菫色の瞳が心配そうな色を浮かべていた。
「だって……じゅっと、いっぱい……けがしたんだもん」
「この程度、怪我のうちにも入りません。ご心配をお掛けしてしまいました、灯里様……」
「と、本人が言うからには平気みたいだよ?」
「ほんとに……?」
重ねて問いかけられ、オレは小さく頷き返してみせると、ようやく安心したように笑みを向けてくださった。
大和のお陰で、この場に根を張らずにすんだオレは少しふらつきながらも立ち上がり、大和に渡したままの呼び笛を受け取り吹き鳴らした。
少し間を開け、落ち着きを取り戻した珀慧が空で旋回をしていた。
「ちょっと、すまん」
オレは大和が着たままの羽織の袖から、色のついた短い紐を取り出し珀慧を呼び戻した。
「珀慧、母屋へ行け」
大和に餌を与えて貰いながら、その間に緑の紐を珀慧の足に結びつけ、再び空に放った。
「これで、オレたちの無事は皆に伝わる」
「そう? なら長居は無用だね。帰ろうか」
大和の言葉にオレは大いに賛同の意を示し、先を歩き始めた。
「にいさま、にいさま。おろして、あるく!」
「え? でも……仕方ないな。後で疲れたといっても知らないからね」
「へいきだもん! ちゃんと、あるいてかえれるもん!」
いつもなら大和に甘えているはずなのに、灯里様は大和と手を繋ぎもう片方の手を、オレに添えてきた。
「あ、灯里様……?」
「て、つなぐの。ちゃんと、あるくから、ね?」
何をどうして、そうなるのか……困惑するオレは大和に助けを求めたが、大和は笑うだけだった。
「十斗、灯里……」
呼び止めるほどではないが、小さな声に振り返るオレと灯里様に大和は心の底から安堵した表情を浮かべていた。
「二人ともおかえり」