荒神(3)屠り煙ゆく
雷轟と閃光。
その凄まじい音と光に暫くの間、全てを失っていた。
耳に音は届かず、視界は赤く染まり、歪んだ感覚に立っているのかすらも判断が出来なかった。
ただ、灯里様の体温だけがオレに伝わり、その無事を教えてくれていた。
「じゅっと」
「灯里様……今しばらくのご辛抱を……」
緩く腕の中で動く灯里様には申し訳なかったが、視界の戻らぬうちはその動きを抑えて、じっとして頂くしかなかった。
耳の奥でいまだ雷の音が低く残っているせいで、荒神の存在だけではなく無数にいた妖の存在も確かめられなかった。
それでも視界は直ぐに戻りはじめ、朽葉色の羽織の色が僅かに見え始めると同時に、瞬きを繰り返して周囲に視線をやった。
雪の白さに目の奥が痛みを覚えたが、それでも音の戻らぬ耳の代わりに視界で黒い蝶を捜した。
先の落雷で大多数の蝶は掻き消えていたが、未だに残る蝶がいた。
再び増える前に荒神を見つけ無ければ。
そう急くのは気持ちばかりで、荒神であろう赤い燐をもつ蝶の姿は見当たらなかった。
まだ近くにいるはず……
静かに耳に響いていた音が薄れ、変わりに風の音が耳に届くようになっていた。
落ち着いて、一体一体を確認するしか出来ない中で、ふと違和感を覚えた。
薄くなった黒い蝶の壁の隙間から、絹雨に打ち当たる一振りの刀らしきものが見えた。
らしい……というのは、柄に護拳がないだけの大陸の直刀に酷似していたからだ。
先ほどからあったのか、それとも天司神の思し召しか……
「いたっ!」
腕の中で上がった小さな痛みを堪える声に、オレは咄嗟に灯里様ごとその刀の元へと走った。
一瞬の差で、黒い蝶がオレたちの居た場所に一斉に群がった。
耳障りな羽音を立て砕けた鉢の破片に群がる蝶の元から、更に陶器を砕く嫌な音が広がっていた。
その音を無視して灯里様の小さな手を取り、無言で確かめると小さな破片が刺さったのか血がふくりと膨れ上がっていた。
無礼承知でその傷を吸い泥と血を吐き出し、羽織の一部を切り裂きあてがった。
「っ……」
袖口で目元を拭い、礼を述べようとした灯里様だったが、慌ててその両袖を口元に当てて声を抑えて堪えていた。
そして、笑ったのか、僅かに細められた菫色の瞳に裡が熱くなるのを感じた。
何としても守らねばならない……大和と共に連れて帰らねばならない。
だが、まずは、落ち着いてやり通すしかない。
呼吸の音も最小限に、あらかた喰らい尽くした鉢から僅かに広がり始めた蝶がふらふらと辺りを漂い始めた。
その中の一匹。
一匹だけの小さな蝶を見つけるのは難しい……なら、最後の一飛礫。
灯里様の側から静かに距離をとるように、低い姿勢のまま投げ置かれた刀に手を伸ばした。
柄に手をかけた一瞬、鋭い痛みが走ったが声を上げるのはまだ先。
――天司神の剣ならば……オレに加護を。
願いながら柄を握り、静かに雪の上に横たえるように、両手で引き抜いた。
片手で扱うには酷く重たい刀。金属の刃鳴りの音が小さく響く。
それでも蝶はオレたちを探すように周囲をたゆたう。
刀を引きずるように更に灯里様から離れ、小屋の入り口を目指した。
一足飛びで小屋に辿り着ける位置に着くと、立ち上がり重たい刀を握り締め、刃先を地面に乗せたまま、片手で懐刀を小屋へと投げつけた。
硝子の破砕音に黒い蝶が群がり窓に穿たれた小さな穴へ犇き合うその場所へ、最後の光玉を投げつけた。
閃光に飲まれた黒い蝶は姿を消し、更に数の少なくなった妖の中から赤い燐を撒き散らす荒神を見つけ出した。
荒神は他の蝶とは違う動きを見せ、窓から離れ、妖を見守るようにその周囲を漂い始めていた。
隙を見つけたのならば躊躇うなッ――
オレは重たい刀を必死に振り上げ、小さな荒神を狙った。
それは、今もわからない……
小さな荒神は確かにオレの刀筋を避け、妖たちが荒神の元へ集い始めたのが、酷くゆっくりと見えた気がした。
重たいはずの刀が、扱い慣れた懐刀のそれと良く似た重さに変わり、オレは刀を投げていた。
鈍い音を立て、小屋の壁に突き刺さった刀の先には赤い燐を激しく撒き散らしながら炎を上げ、そして消えた荒神の影のみが残り、周囲にいたはずの妖の姿はどこにも見えなくなっていた。
「……た、おせた……のか?」
ぜえぜえと激しく上がる肩を宥めるように、深く息を吐き出しながら、思わず呟き周囲を見回した。
いつの間にか雨も止み、黒い雲の切れ間から覗く夕陽が山の頂に掛かっていた。
緊張の糸はいまだ解けなかったがそれでも、駆け寄ってきてくださった灯里様の小さな身体を受け止めたはずなのに、力が入らず、地面に倒れこんでいた。
「じゅっと、だいじょうぶ?」
「どうにか……」
心配そうな表情にどう返せばよいのか解らなかったが、それでも無事を伝え立ち上がった。
膝が振るえているが、それでもオレの役目が終わったわけではない。
大和を……大和の無事を確かめ、戻るまでは。
粉々に砕けた鉢の欠片の中から、小屋の鍵を見つけ出すとその扉を慎重に開き、中に妖が残っていない事を確かめて、ようやく大きく開いた。
入り口傍の壁掛けには、羽織が掛けてあった。仕掛けを施した時は小屋の方までは来なかったし、それより前に来た誰かが忘れていったのだろう。
それを遠慮なく借りて、荒神が消えた場所を探した。
「消えたのか」
あるはずの刀の姿も無く、落ちていたのは投げつけた懐刀と硝子の破片ばかり。
本当に、天司神の加護だったのか。お陰で助かりました。
「じゅっと?」
感謝の祈りは短くなってしまったが、きっと許して下さるだろう。
「灯里様、こちらを……」
朽葉色の羽織は殆ど防寒の役目は果たさず、その下の薄蒼の着物もすでに泥に汚れ、幾許か切れてしまっていた。羽織を脱がせ、新しい羽織で包み抱きかかえた。
「じゅっと……ごめんね。いたく、ない……?」
「ええ。何ともありませんよ」
本当は噛まれただろう肩口の痛みは引く気配も無かった。しかし、その痛みでどうにか正気を保っても居る部分もあった。