荒神(3)たえたゆたう
大和の無事を確かめるために顔を上げた瞬間、鮮血の色を湛えた巨大な蝶の擬似目がオレの目の前にあった。
本来なら小さな己の姿を、大きなものに見せるためのただの模様。
だと言うのに、擬似目の赤い光はゆるく笑うように細くなった。
「いやああぁぁぁあああぁぁぁぁぁっ――!」
背筋を這う気味の悪い空気を感じるとほぼ同時に、灯里様の悲鳴が上がった。
この小さな身体の一体どこに、これだけの声を出せるのだろうか……硬直から抜け出した一瞬、そんなことが過ぎっていた。
しかし、目の前にいるのは荒神。
人々の負の感情を極上の餌とし、醜い姿を晒す。
泣き叫ぶ灯里様に向かい翅を広げ、小さな蝶を幾匹も生み出し、バタバタと嫌な羽音が耳朶を打ち、知らずうちに鳥肌を立たせる。
――怖い。それでも、臆さぬと――
単純に怖いと震えて泣くのは、もう嫌だ。
何のために師と共に夜の闇を歩いた。
「暫しの間、ご容赦ください」
片腕で支えながら灯里様を声を殺させるよう肩に押し当てながら抱き、自由にした一方で、目晦まし用に持っていた光玉の飛礫を蝶へ向かい投げつけた。
光玉は一匹の小さな蝶に当たると弾けた。
瞬きの間の閃光。それでも、光が溢れると小さな蝶の数匹はその姿をかき消し、暗幕のように広がっていた影に穴を穿った。
大和の無事を確かめたかったが、灯里様の身の安全を優先させねばならなかった。
僅かに広がった影の穴を飛び越え、オレは走った。
「こあい、こあいよぉっ」
泣きじゃくる声が僅かに掠れていたが、それを確かめる余裕は無かった。
オレは来た道を戻るように走り、休憩用の小屋がある場所を目指した。
小屋は山頂に程近い場所に建てられている。雪に埋もれた獣道を探し出し、息を上げながら、ただ走るしかない。
後ろを振り返らずとも、無数に響く羽音が荒神の接近を知らせていた。
音に反応するというのが厄介なところだ。
泣きじゃくる灯里様の声と、雪を踏み荒らす音に反応しているのだから、逃げ続けるしかない。
光玉はあと三つだけ。
日はまだ出ているが、これが夜になりでもすれば……それに、天気も悪くなっているのか、しきりに雷の音が聞こえていた。
「天司神のお出ましなら、歓迎したいところだが」
今のところ出てきている神は荒神のみ。それでも、走りながら建国の神に祈っていた。
皆が無事に戻れるようにと。
雪に埋もれている道に、ぽっかりと現れる人の手入れがされた跡がわかる開けた道。
片側だけ滑落防止用に紐が張られた杭と、均した枕木は階段を示し、その上は小屋へと繋がっている。
僅かな安堵とともに、階段を駆け上ったが日が暗く翳った。
「くっ……」
荒神とは違う、ごく自然の現われ。頬を僅かに打つ雫を感じると絹雨が無情にも降り出した。
道に雨が落ちれば当然の如く雪を溶かし、足場を更に悪くさせた。
ぬかるむ雪の階段を駆け上がるオレは案の定、足を雪に取られ転倒しかけた。
灯里様を抱いたまま前に倒れるわけにはいかないオレは、必死に足の指に力を入れ踏み止まったが、それは後ろから迫る荒神の接近を許してしまう結果になった。
再び黒い蝶に覆われるように身動きが取れなくなるが、光玉二つを使い更に道を開いた。
この蝶は光に弱いらしいが、残りは一つ。
数に勝るこの荒神を退けるには圧倒的に光が足りない。
「ひぅ、ひっく……じゅっと、もうこあいのやだ。かえろぅよ……っく」
「そうですね、ホントに……」
あと少しで小屋に辿り着けるはずなのに、遠い。
辿り着けさえすれば凌ぐ術はあるのだが、小さな蝶たちが足元に纏わり付き動きを制限させていた。
「大和も待ってるのに……」
呟きは本当に無意識のものだった。しかし、灯里様には届いてしまっていた。
少し落ち着いてきていたはずだったのに、先の光景を思い出したのかまた、小さく身体を震わせはじめていた。
「にいさまは、にいさまはっ?」
「灯里様、危ない!」
「いやぁ! かえる!」
暴れ始めてしまえば、オレが抑えきれるにも限度があった。
全身で暴れ、オレの手の中からもがき出ようとする灯里様に、捕らえようとする荒神。
急所を必死に隠しても、隙間から刺されているのか喰われているのか、何処かから激痛が走り血が流れていく。
「にいさまのとこ、かえるっ!」
「我が儘を言うなっ!」
つい、そう怒鳴ってしまった。よほど驚いたのか、ピタリと動きの止まった双方に構わずオレは一気に小屋の前まで駆け上った。
響く雷の音は近くなり光が空を走った。次いだ轟音に再び灯里様の身体がギクリと跳ね上がり、すがり付いてきた。
「……大和なら、平気だから」
それは自分に言い聞かせていた。
黒い蝶に男共々に襲われたあの一瞬。確かに大和は笑っていた。
良い兆候ではないだろうが、それでも……どこか確信めいたものがあった。
「灯里様、一つ手伝いをお願いします」
獲物を捌くために設けられた広い場所で立ち止まったオレは、灯里様を降ろし、灯里様を背にし、小屋の扉と挟む形で荒神を前に懐刀を抜いた。
くそっ、走った分と血が抜けた分で身体が重い。
焦っても碌な事にならない。深呼吸。震えるな……落ち着け。
蝶はこちらの音にはまだ、反応していない。
跳ねる心臓を意識してゆっくりと息を吸い、吐く。
……よし。
「鉢の側に小屋の鍵があります。そこの戸を開けてください」
「じゅ、とは……」
「無事に開けられるようにお守り致します。声を出さず、出来るだけ急いでください!」
そう言いながら、オレは出来るだけ声を上げていた。
虚勢を貫くのもそうだったが、何より蝶を惹き付けるには、これが一番手っ取り早かった。
直ぐに群がりはじめた蝶は、妖だったのか。
懐刀一本でどこまで役に立つかと、疑問は残っていたが切り伏せるたびにしっかりと蝶は雪の上に落ちていった。
気合の声を張り上げ、灯里様へと流れる蝶の方向を切り替えさせる。
荒神さえどうにかすれば、灯里様への危害の恐れはなくなるのに、黒い蝶の数は増す事は無いが減っている様子も見えなかった。
しかし、一番危惧しなければいけないのは灯里様。鉢が幾つもあるせいで未だに鍵を見つけられないでいた。
「ひくっ、わかんないぉ……」
「落ち着いて! 一つ一つ見ていってください!」
腕で蝶を払いのけるだけでも、少し変わるのが救いだった。
大きく身体を動かし続け、蝶を払うだけの事しか出来なかったオレの肩口に、ふわりと何かが落ちた。
ゾッとするほどの冷たさと、身体を芯から硬直させるような不気味な気配。
必死に手で掴み、それを引き剥がすと、触れられていた部分に鋭い痛みが走った。
「いっ……くそっ」
地面にそれを叩きつけると他の黒い蝶より後翅が長いくせに小さくて、ジリジリと焼けるような赤い燐が手についた。
それに気がついたときには、すぐに舞い上がり他の蝶の中に埋もれて見えなくなってしまった。
間違いなければ今のが荒神。
痛みの走った肩口が酷く熱い。立ち止まり、傷の具合を確かめたくもあったが、視界の端に映った灯里様は鉢を持ち上げ、鍵を探していたが、今持ち上げていたのは、かなり大きさのある物だった。
両手で抱えていたはずの鉢は、重さに耐えかねた灯里様の小さな手を離れ、地面に落ち激しい音を立てた。
「灯里様!」
音に反応する妖は一斉に砕けた鉢に群がり、側にいた灯里様にも襲い掛かろうとしていた。
「ひくっ……ぃやあああぁぁぁぁあああっ!」
ずっと堪えていた悲鳴が再び上がると同時に、光が落ちた。
耳を劈くようなというのは、正にこのことなのだろう。
落雷の轟音に耳の奥が酷く痛くて、雨の音すら何も聞こえなくなっていた。