荒神(2)守る腕
強く願えば叶うとは、誰の言葉だったか。
微かに聞こえた金切り声はオレの気のせいではないはず。
叫び泣く声と怒鳴る声。聞こえた方向に躊躇わず足を向けていた。
声が近づくにつれると同時に、倒れこむように両手を雪の上についた大和の姿を見つけ、駆け寄った。
「大和ッ」
「おそ、いよ……十斗、も、限界……」
意識を繋ぎとめている、そういった具合の大和の顔をオレは恐る恐ると覗き込んだ。
先のように鮮血の色を湛えたままなら“限界”という意味が変わってしまうから。
しかし、その瞳は見慣れた暗紅色で、酷い疲れを湛えていた。
走った熱で赤く染まった頬とも目元とも付かない場所を乱暴に拭ったかと思えば顔を伏せたまま、袂を力なく掴んできた。
「近いのに、見つか、らない、んだ……ど、うしよう」
「灯里様の声なら聞こえた。直ぐに連れて戻ってくる! だから今一時、側を離れる事をお許しを」
「うん……信用してる、だから、早くいって」
か細い声を聞き、するりと抜けた手を掴み、オレは自分の懐から小さな呼び笛を大和の手に押し付けた。
「鷹笛だ。オレの姿が見えなくなったら、直ぐに吹け」
「わかった……灯里に、怪我……させるなよ……」
自分のことよりまず案じるは灯里様か、大和らしいといえるが同時に不安も生まれていた。しかし、それに構う余裕など無い。
オレは自分の羽織を大和に無理やり巻いて、立ち上がった。
「これ以上、身体を冷やすな。いってくる」
そして、オレは駆け始めた。
声が聞こえれば方向は読める。大和が進もうとした先の崖下から聞こえる泣きじゃくる声に、躊躇うものは無かった。
迂回してる暇も無いッ!
雪下に隠れたままの木を幾本か踏みつけ、最短で崖を下り、更に視界に入ったものがあった。
白い雪の上に少し大きな枯れ草のようなもの。
急いで確かめれば、破れた朽葉色の小さな羽織だった。裏地に小さく縫い付けられた鳳凰の紋は紛うことなく御剣家の紋。
乱雑な足跡も残り、それは更に先の道へと向かっていた。
羽織を持ち走り、木々の合間を低い怒声を上げて走る賊を見つけた。
人数は三名ほどだが、体躯のいい男たち。
刃物こそ腰に下げたまま抜いてはいないが、必死に先を走る小さな子は、泣きながら奇跡的に男達の手から逃げおおせていた。
「このぉ! ちょこまか、待ちやがれ!」
「灯里様!」
道なき道を選び走ったオレは、賊たちよりも速く、横攫いに灯里様の小さな身体を抱きかかえて、勢いのまま更に山を滑るように落ちた。
灯里様を体で隠し、滑落の勢いが弱まったのを見計らって懐刀で更に勢いを殺した。
「じゅ、とぉぉ、こあ、こあいよおぉぉっ」
「ふぅ……申し訳ありません。灯里様、もう大丈夫ですから」
必死にしがみ付く灯里様に、オレは泥に汚れたままの朽葉色の羽織で、小さな身体を守るように、再び木々の生い茂る道を選んだ。
オレのような子供が、大人を撒くには道の狭さを利用するしかない。
それに、一瞬だけ見えた男達の顔はこの辺りでは一度として見た事が無い。
土地勘はまだオレにある。
「待ちやがれ! せっかくの金蔓が!」
男たちも必死にオレたちを追いかけてくるが、ここは狩猟用の山。
手遊びとはいえ、仕掛けた罠くらいある。
道なき道ならば……道よりも多分に用意してある。
何より此度、師と共に仕掛けたのはオレだ。后守にしか判らぬ小さな印を見つけてはそちらに男達を誘導していくしか、戻る手段は無い。
泣き続ける灯里様をあやす余裕はないが、男たちの悲鳴が罠に掛かったか否かを教えてくれた。
雪が不自然に積もる大木の根を踏み、罠を避け、崖の上へと戻る道へと進路を変えた。
「小僧、止まりやがれ!」
「……っ!」
その声は上からだった。
オレが飛び降りた崖の道に突き出すように、大和を地面に押さえ込んでいる男の姿に声が出なかった。
最悪な状況とはまさに、このことか。
しゃくり上げる灯里様に今の状況を見せるには忍びない。
抱く手に力をいれ、上を見させないようにするしか出来なかった。
「ふ、えええぇぇ!」
「オレが、お守り致しますから……泣かないでください」
肩口で泣き続ける灯里様に声をかけると、少し押し殺すような嗚咽に変わった。
「だから……絶対に目を開けないでください」
「んぅ……」
鳴り止んだと思っていた警鐘の音が、今までよりも激しく焦燥感を掻き立てるように鳴り響いていた。
守ると言いながら、恐怖で震えているのはオレだ。
動けなかった。目が、離せなかった――
綺麗に人形に描かれた笑みで弧を描く鮮血の瞳から、目が離せずにいた。
「少々、予定と変わったが、小僧。そこの小娘をこちらに渡せ! でなけりゃ、コイツがどうなるか……わかるだろうな?」
そう威丈高に言う男は恐らく気がついてはいない、オレが震えていた理由。
それでも男は更に脅すように腰に収めていた鉈を構えて、大和の頭上にあてがった。
恐怖で歯の根があわず、カチカチと煩く聞こえる。
それでも、主の笑みは消えずに視線だけで命令を下していた。
「お前如きにくれてやる命なんか、ない」
静かに響いた大和の声は、どこまでも冷たく澄んでいた。
「なんだと! このガキ、どういう立場かわかってんのかっ!」
威丈高な男の叫び声に灯里様の小さな手が強くオレを掴み、オレもまた無意識のうちに抱く力を入れていた。
「お前よりかはね……」
嘲笑う声に悲鳴があがった。それはオレの後ろから。
「あ、あああああああ……あに、あああら、ああぁっ!」
言葉にすらならない悲鳴に、大和を押さえつける男が愉快そうに笑ってどうしたと、問いかけている。
男の背丈を優に越しながら、静かに広がる恐怖の闇を知らぬが良いのか。
そっと撫でるように広げた翅に描かれた紅い擬似目が、目玉のようにぎょろりと動き回った。
「あああ、荒神だああぁぁぁぁあああああああぁぁっ!!」
オレの後ろにいた男の叫び声に満足したように、黒い蝶は一瞬のうちにばらけて、大和ごと男を飲み込んだ。
「やまっ……!」
「うあああああああっ!」
叫びかけたオレの側を蝶の黒い群れが横切り、後ろに居た男達をも飲み込んだ。
頬に走った痛みが現実だという事を教える。
必死になって灯里様の耳を羽織越しに塞ぎ、身体に隠し視野を遮るように蹲った。
上がる醜い悲鳴に、気が変になりそうだ。
「ひっ、く……ひぅっ……うああああああぁぁぁぁん!」
「灯里様っ、堪えてくださいっ」
音に反応しているのか、灯里様の声に黒い蝶の一部がオレたちを取り囲んだ。
腕に、肩に鋭い痛みが走る。
「やだぁ、こあい! こあいよ! うああぁん!」
「灯里様っ、灯里様! オレは……此処にいるから。ちゃんと、居るから!」
必死にこの場から逃げ出そうともがく灯里様を、怪我をせぬようにと押さえ込むしか出来なかった。
「泣かないで、ください……」
受け続ける痛みのせいで気が遠くなりかけた。
近づくように聞こえる遠雷の音に、意識を何度も取り直すように。そのたびに、声をかけ続けた。
シャンッ……と云う、小さな金属の音が聞こえた気がした時には、男達の悲鳴がぱたりと止んでいた。
その瞬間までオレは何度も声をかけ、止んだ後も側を漂う蝶に恐怖しながら、小さく短く声をかけ続けた。
大和は……無事なのか?
幾度と思いながら、灯里様に声を掛け必死に目を開いて、灯里様から視線を逸らした。
大和の無事を確かめるために。