第三話 裂け目
陽も暮れかけた頃、森の中を走る狼がいた。
彼は焦っていた。先ほど、この森の入り口付近で嫌な気配がしたのだ。急いで向かうと、魔術師の結界が解けかけていた。そして、裂け目から見えたのは……、思い返しただけで寒気がする。森の主である友人にこの事を伝えねばなるまい。アレがこの森に入れば、木も草も動物達も、この森に送られた異端達でさえ、ひとたまりもないはずだ。あの禍々しさの前では。
「今日はもうお休み。明日、いろいろな話をしよう」
「うん、分かった。おやすみなさい」
リージンは眠りにつこうとするアリスの頭を優しく撫でた。この子がいるだけで心が落ち着く。そう思えた。いつの間にか、もう片方の手はしっかりと握られていた。
アリスも、見知った者の家とはいえ、不安でないわけではないのだ。悲しみも寂しさも、普通ならこの年で抱えるはずのない絶望も、この子は一人で抱えている。自分はこれから、どれだけこの子の荷物を減らしてやれるだろうか。共に抱えてやれるのだろうか。
「きっと、いや、必ず。君に言ったからね、俺が守るって」
もう一度頭を撫でると、そっとその場を離れた。外からこの家へ近づいて来る者を迎えるために。
「リージン!」
「やかましい」
バタンと叩きつける勢いで開いたドアとリージンを呼ぶ大きな声。リージンは眠ったばかりのアリスが起きるのではないかと心配したが、疲れていたためか彼女が起きてくる様子はなかった。物音の主は小さな狼で、ひとしきり騒いだ後ぴたりと動きを止め、すんすんと鼻を動かした。
「子供の匂いがする。拐ってきたの?」
「ギル、お前は俺を何だと思ってるんだ。そんな事をする奴だとでも?」
ギルと呼ばれた狼は、リージンに睨まれ尻尾を丸めると少年の姿になった。
彼はギルディ。人狼だが草食主義者の、至って無害な子犬だ。しかし村の人間達は、いつ凶暴になるか分からないと、彼を異端としてこの森に送った。この森には異端として送られてきた者達がたくさん暮らしている。彼らの多くは大人しい者ばかり、むしろ村の人間の方が野蛮な者が多い。それでも、普通ではない者を排除する道を選んだ。家族にさえ拒まれた者の中には、心を病んで憎しみを募らせる者もいる。致し方ない、奴らの選んだ道だ。
さて、ギルはリージンの友人であり使いっ走りの犬、情報収集係である。
「まあ何でも良いや。今はそれより、大変なんだ!」
「まずは落ち着け、深呼吸だ。……それで? 何があった?」
ギルディは入り口で見たものを話した。
「そうか……。魔術師の呪いも長くは持たないか」
頭の痛い話だ。何故外からは開けられるようにしたんだと魔術師に問い詰めたい。中からは開けられないようにしたのなら、外も頑丈にしておいてくれれば良かったのに。
リージンがこれからどうすべきか考えを巡らせていると、ふと、普段は喧しいギルが妙に静かなことに気付いた。
「何だその顔」
「だって、リージンがほめてくれないし。僕、言っちゃいけないこと、教えちゃった……?」
苦笑が漏れる。ぽんぽんと頭を撫でてやると表情が一変して、ぱあぁっと効果音が付きそうな様子で笑顔になった。ギルディが犬と言われる所以である。
「しばらくは俺の力であの周りに内から結界でも張っておこう。それで数年は持つだろう、あの魔術師には及ばずとも」