第一話 迷い子
ある晴れた日のことである。
まだ幼い子供が、一人で森に迷い込んだ。近頃、お世辞にも治安が良いとはいえない状態で、人喰いに成り果てたモノもうろついているという噂も時折聞く。幼子の一人歩きは命を捨てているようなものでしかない。森の外が安全というわけではないのだが。
「どうしたものかな」
そう呟いたのはこの森に住む一人の男。名はリージンという。麗しい容姿の彼には、かつて化け物のごとく、村の人々を傷つけ建物を壊してまわった過去がある。そこで、ある魔術師がそんな彼に呪いをかけてこの森に閉じ込めたのだった。初めのうちは魔術師に対する恨みから広い森の中を暴れまわり、必死に森の出口を探していた。しかし、森を出ることは出来ず、月日が経ち、彼は外に出ることを諦めた。今では気まぐれに他のモノが困っていると知識や手を貸してやり、そうして森の主と認識されるまでになった。
リージンは考えた。あの子供を一思いに殺してやろうか。そうすれば恐怖などもう感じない。もしくは森の中で迷わせて一生出られないと絶望させてやろうか。下手な希望は絶望を大きくするだけだ。しかし今一つ気が乗らない。
昔から、リージンは子供に弱かった。森へやられる前の彼は村の人間たちから大層嫌われており、彼自身もその態度にへそを曲げ自ら嫌われるような行動をとっていた。だが、誰もいないところで子供が一人泣いていると、頭を撫で話を聞いてやった。お菓子を持っていたら分けてやった。村の子供は彼のことを親から聞かされており、先まで笑顔で話していたのに彼の正体に気付くと酷く怖がった。彼自身も柄にもないことをしている自覚はあった。だが、彼は子供が好きだった。子供には当たり前の幸福が与えられるべきだと考えていた。そんな頃もあった。
暇潰しに手助けしてやるか、と子供に思考を戻すと、子供は崖の方に向かっているではないか。泣きながら、前が見えていないようだ。このまま行けば確実に落ちて死ぬだろう。それは彼にとって無関係なことだ。しかし、
「仕方ないね」
彼は木から木へ飛び移り、子供の前に降り立った。
「お嬢ちゃん、こんなところでどうしたの?」
「う、お兄さん、誰?」
「俺は……この森に住む者。名はリージン。もう一度聞くよ、どうしてここへ?」
「……っ……ママに、おいて行かれたの」
「捨て子か……。分かった、出口の途中まで連れて行ってあげるよ、この森で子供なんかに死なれちゃ困る」
今にも泣き出しそうな様子を見かねて、彼はそう言った。それを聞くと子供は少し迷う素振りを見せたが、小さく頷いた。
す、と目を閉じて、魔法で出口の位置を探る。最初の頃はこんなことはできなかった。長くここにいるからできることだ、そう思えば皮肉げに口元が歪む。位置が分かっても出られなければ意味がなく、それが彼には不可能なのだ。
幸いにも出口は近くにあるようだった。リージンは子供の歩くスピードに合わせつつ、少し前を歩いた。振り返り、ちゃんとついて来ているか確かめる。それに気づいた子供は大丈夫だというように頷いた。
「あそこに、道の真ん中に少し間をあけて二本の木がある。その間を通れば、もう村に出る。俺はこれ以上先には行けないから、ここで別れだ」
「あ、ありがとう。リージンお兄さん、またね」
リージンは、そう言った子供の後ろ姿が完全に結界の向こうへ消えるまで見ていた。子供はまたねと言ったが、リージンがもう二度とあの子供と会うことはない。自分が外の世界へ出られる日は来ないからだ。
「またね、か」
久しぶりのヒトとの会話。久しぶりに向けられたヒトの笑顔。久しぶりの、ヒトという存在。いつの間にか忘れていた、いや、忘れようとしていたものばかりを、思い出してしまった。全てを諦めた日に失くしたと思っていた、この胸に込み上げるものは、遠い昔の記憶は、頬をつたう熱い雫は、一体何だ。その存在に、あえて気づかないようにした。
また会えたら、なんて、自分が望めるものではない。