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歌姫が死んだ、四畳半の腐った部屋で

掲載日:2026/08/08

1


 すべてがゼロになる夜を探していた。

 将来をどうしたいとかない。未来を見て生きようなんて言葉が信じられない。

 過去を置き去りにして、現在に風化させて。

 そうやって一直線上だけを突き進む社会が、当時はあまりに憎かったんだよな。


 だからその晩も、俺は完全なる空虚に近づこうとしていたんだ。


「おーい、そこのキミー」


 透明な声が、俺の耳に届いた。

 ここは街外れにある高台だから、

 他の生命が存在することに、上手く反応できなかったな。


「木の枝に縄をわかわかしてる、キミだよ!」 


 声の主は、犬みたいに人懐っこい笑みを向けていたよ。


 その存在を事前に感知できなかったのは、

 街灯で透けるほどに青白い肌が、幽霊みたいだったからかもしれない。


「今からリハで歌うんだけどさ、手拍子お願いして良いかな」


 おいおい、冗談だろう?

 これから念仏と合唱を浴びる予定の人間に、手拍子を願う奴がいるなんているか?


「ほら、こっちおいでよ」


 ぐいと、水色のミサンガを付けた手が俺をゼロから引き戻す。

 その傍迷惑に声を荒げる暇もなく、彼女は黒髪を揺らしながら笑う。


「ちょうど観客が欲しかったところなんだよねー」


 そうして俺は、乱暴に茂みから引っ張り出されてさ、


 街灯をスポットライトにした彼女に、歌を聞かされたんだ。


2


 人の好む音楽を聴けば、それぞれの人生がわかると言うけれど、

 俺にとっての音楽とは、もっぱらBGMや電子音楽を意味していた。


 そういう音楽が好きだったというよりは、単に、ボーカルという存在が嫌いだったんだと思う。

 彼らの歌声は美しいけれど、未来へと背中を押してくるようなあの熱量は苦手なんだよな。


 だから、俺は極限にまで人の存在を排斥した、空虚な音楽を寄り好むようになったんだ。


「じゃあ、一緒に手拍子を真似してね」


 例外として、小学生の頃にクラスで歌った合唱曲なんかはよく聞いたが、

 とにかく、そういう事情があるから、

 彼女との時間は非常に息苦しいものになるだろうと、俺は苦虫を嚙み潰していたわけだ。



 でも、当時の俺は、なんでか手拍子を合わせちまえたんだ。



 名もなき歌の魅力、とでも言えばいいのかな。

 世界から爪弾きにされた人間にとって、

 その透明な声と孤独な旋律は、意外にも親和性を持つものだったんだ。


「キミ、実は音楽かじってたりする?」


 俺がぶっきら棒に首を横へ振ると、彼女はむへりと笑った。


「じゃあ、なおさら音楽の才能あるね」


 それは、俺があからさまに嫌そうな顔をしていることにまったく気づいていないか、

 あるいは、意図的に無視しているタイプの笑みだった。


「用が済んだなら、もう帰るぞ」


 その晩の俺はと言えば、彼女の強引な素振りに、すっかり空虚ではいられなくなっていたんだよ。

 

 高台の茂みを遠く眺めると、浜辺で遊ぶ幼い俺が見えた。

 その周りには、水死体となった友達がブクブクと膨れ上がっていてさ、

 溶けた眼でジィッと見つめられて、俺は泣き出したい気分だったね。


「早く、完璧なゼロに至れよ」


 陸風に吹かれながら、子供時代の俺は言う。

 だから俺は、波打ち際から水平線へ踏み出そうとして、


「ねぇ!」


 でもその日は、風の吹き方が、少し違っていたんだ。


「キミ、私の相棒にしてあげるよ。担当はドラムでどうかな!」


 強盗にでも遭った気分だったな。

 盗まれたのはなんだっただろうか。

 俺が綺麗に終わらせるはずだった人生だ。


「また明日ね」


 なんてよく分からない言葉を残して、

 彼女は街を見下ろす高台を去っていく。


 取り残された俺はしばらく立ち尽くした末に、

 首を吊るために括った縄を掴んで、茂みの奥へと思い切り投げ捨てた。


 こんな酷い日はもう二度と来ませんように、ってな。


3


 でも、不幸ってのは幸福とは違って、立て続けに起こるもんでさ。


「今日から転校してきました、姫野歌葉(ひめのうたは)です! 歌姫って呼んでください!!」


 悪夢の日々は、これから始まるかもしれない。


21


「おい、秋斗《あきと》。起きろ」


 あ゛ー。誰だよ。

 俺を幸せな世界から引き摺りだそうとしてんのは。


 ぐらぐらぐらぐら彼女の笑顔が薄れていって、

 代わりに浮かんだのは、先生の呆れ顔だったね。


「いつまで寝てるんだ。もうとっくに放課後だぞ」


 欠伸を噛み殺しながら、とろーんと溶けてく教室を眺めてみる。

 一年前にはあった姫野の席は、もう、どこにも見当たらない。


 一足先にゼロへと至った彼女は、寂しい思いをしていないだろうか。

 俺はポケットに入れた瓶を取り出してさ、今日も錠剤をバリボリ貪るんだ。


「お前、風邪でも引いてるのか?」

「まぁ、そんなところです」


 重症だぞ。やがてゼロに至る病だ。カッコいいだろ。

 黒ずんだ目つきでヘラヘラ言ってやる。

 先生は少しも笑わなかったね。


「少し、待ってろ。一人、会わせたい生徒がいる」

 

 それっきり、夕焼けの教室には時計の音だけが響いた。


「……」


 もう少しだけ、彼女と生きる夢を見たいな。


 俺は左腕に嵌めた水色のミサンガを眺めて、南棟四階の部室へと幽鬼のように向かった。


4


 六月七日の晴れた日に転校してきた姫野は、

 瞬く間にクラスの中心を掌握した。


 彼女が転校生という立場をフックにして、教室の連中を次から次に惹き込んでいく様子は、

 まるで台風みたいだったな。


 気が付けば、廊下で「歌姫」を呼ぶ声を聞かない日はなくなってさ、

 現在に着実な土台を築き上げる模範的な制少年像を体現したその姿には、

 不理解ゆえの不快感と同時に、ある種の感心さえ抱かされたよ。


 そういうわけでクラスの中心的人物となった姫野は、

 教室で空気として扱われている俺を、彼らと同じように居ないものとして扱ってくれた。


 有難かったな。

 俺は、この世界で何者でもありたくなかったから。


 きっと、彼女の方も安堵していたことだろう。

 だって、初めて話した同級生が学校の透明人間だったなんて、

 あの種の人間にとっては履歴書に傷が付くといってもいいことじゃないか。


 あの夜は所詮、学校という社会的身分をはく奪した上での邂逅であって、

 本来、姫野と俺は交じり合うような立場になかったんだよ。


「あ、今回もペアになっちゃったね」

 

 なのに結局、俺と姫野は二人組になるんだよな。


5


 姫野歌葉という人間は実に変わっていて、

 クラスの人気者でありながら、同時に渡り鳥みたいなことをする奴だった。


 意外だけれど、彼女はどのグループにも属そうとしなかったんだ。

 平凡な人間がやればやっかみを買いそうな立ち回りだが、

 姫野の無害的な明るさゆえに、そうはならなかった。


 詰まるところ、俺と姫野はクラスでの立場は正反対だけれど、

 そこに明確な居場所を作らないという点において、同じ価値観を共有していたんだ。


「似た者同士ってやつかな?」


 だから、校外学習のペアとか、文化祭の準備とか。

 渡り鳥である姫野はグループを形成するとき、

 輪に含むべき人間の優先順位から外されやすかったんだよな。


 いや、違うか。

 今になって思う。

 本当のところ、姫野は『狙って』俺の隣に来ていたのだろう。


 だって、教室の華である彼女が、

 いくらなんでも俺のような除け者と一緒になるまで売れ残るはずがないじゃないか。


「今日の放課後さ、私のギター聴きにおいでよ」


 彼女が教室の目を盗んで囁いた声に、俺はとびきりの嫌な予感がした。


6


 初めに言っておくと、俺は姫野の誘いを断ろうと思っていたんだ。

 放課後、彼女と並んで教室を出て行く様子を見られでもしたら、

 俺が必死に守ってきた空虚が壊れてしまうと思ったからな。


 俺は教室に居場所を作るつもりはないが、

 一方で、積極的に嫌悪の対象となるつもりもなかった。

 俺はこの世界において、完璧な空虚であらなければならなかったのだ。


「秋斗。悪いが、姫野に付き合ってやってくれないか」


 なのに、担任教師は俺の帰路を阻んだんだよな。

 彼女の面倒係を押し付けられそうになった俺が、

 どんな顔をしたのかはお察しの通りさ。


「学校案内なら、ずっと前に誰かがしてくれたと思いますよ」

「別件だ。だからこうして頼んでるんだよ」


 担任教師が俺に軽く頭を下げる。

 不味いな。教室の視線がこちらに集まり始めた。

 ここらあたりが限界か?


「ほら、行こ?」


 姫野は強引に俺の手首を掴み、弾む足取りで教室の扉を出た。

 教室の連中が向ける好奇の視線とざわめきが、なんだかこそばゆかったな。


7


 西日を浴びた放課後の廊下というのは、

 普段、真っすぐ家に帰る人間にとって居心地の悪い空間だった。


 俺は世界の異物になった気分で、姫野の少し後ろを歩いていたよ。


「ここってさ、色んな部活あるよね。みんな誘ってくれたし」

「よく聞くようなやつは、大体な」


 この意味のない時間はいつまで続くんだ?

 前を向けばすぐ近くに廊下の突き当りが見えるのに、

 俺にはこの瞬間が息苦しいトンネルの中みたいに思えたね。


「じゃあ……軽音部も、あったりするのかな?」


 振り向きざまに小首を傾げた彼女を見て、ぐっと、心臓が詰まった気がした。


『キミ、私の相棒にしてあげるよ。担当はドラムでどうかな!』


 まさか姫野は、あの夜の言葉を本気にしているのだろうか。

 俺は、俺の世界を守るための言葉をすらすらと述べたよ。


「それはない。うちにあるのは吹奏楽部だけだ」


 よし。これで姫野との関係性は断った。

 また明日から空虚に戻れる。


「あるよ!」


 姫野は得意げに笑みを浮かべて、廊下の天井を指差したな。


「は?」

「だって私、作ったもん」


 幻聴だと思ったさ。


「こっちこっち!」


 姫野は俺を引っ張って南棟四階まで駆け上がり、

 空き教室の扉を勢いよく開け放った。

 そこには、エレキギターとドラムセットが影を伸ばしていた。


「私は部長。キミはここの平部員だよ!」


 最悪の職場だったね。

 たった一日で潰れてしまえと思った。


「ま、そう言わずにさ、とりあえず私のギター聴いてよ」


22


 ギターの弦を弾く音が、遠くで響いている。

 そのさざ波のようなどこか懐かしい旋律は、長い黒髪の少女の形をしていた。


 俺はぼんやりと瞼を開きながら、居るはずのない彼女に手を伸ばして。


「あっ、先輩。起きました?」


 驚きのあまり、声も出なかったね。


 それは、雪国のお人形さんみたいな子だった。

 白い髪に白い肌に、透き通るような赤い瞳。

 日本の制服がアンバランスに思えちまえるほどに、その少女は異国さを纏っていたんだよ。


「カノン。ここに居たのか」

「あっ、先生! 先に来ちゃいました!」


 見上げると、去年の担任教師が扉前に立っていた。

 先生は部室の窓際で寝ぼけた俺を見て、

 またも呆れたような顔を浮かべたよ。


「まぁ、ここに居るならちょうどいいか」

 

 彼女、軽音部に入りたいんだとさ。


 担任教師の告げた一言に、俺はすぐさま拒絶の行動を取ったな。


23


 前々から思っていたことだが、先生は何かと理由を付けて、俺に学生的な関わり合いを持たせようとしてくる。

 真の教師であるのならば、現在を生きたくない学生本人の意思を尊重して欲しいものだ。


「俺はそんなのごめんですよ」


 俺は姫野との夢を食み、やがて彼女に追いつくので忙しいからな。

 そんな子の面倒を見ている暇はないんだ。

 俺は威嚇するみたいに先生を睨み上げたね。


「まぁ、そう邪気にしないでくれよ」


 それに、そもそもの話だが、

 この部室は姫野が選んで刻んだ居場所であって、他の誰かを入れる気なんて更々ないんだ。


「あ、あの……わたし、転校生で! 軽音やりたくって!!」


 そこに、白髪の少女が緊張した様子で身体ごと割り入ってきた。

 先生は一瞬、呆気にとられたように少女の方を向いたな。

 それから、どこか勝ち誇ったように俺の方を見たんだよ。


「彼女、転校してきたばかりで色々不安がってるんだ」


 こくこく、と転校生は必死に頷いた。

 状況が姫野と同じだから、俺が手を貸すとでも思っているのだろうか。


「どんな事情にしろ、俺がお前を軽音部に入れることはない」

「どうしてですか?」

「俺は音楽が嫌いなんだ」


 音楽ごっこはもう終わったんだよ。

 俺がぶっきら棒に告げた一言に、転校生は不思議そうに首を傾げたな。


「うそばっかり」


 彼女は部室に遺されたギターと、譜面台の楽譜を指差してさ。


「じゃあ、あのギターはどうして丁寧に調律されてるんですか?」


 その手のマメも、と、

 彼女は笑顔で俺の手のひらに触れて、握り潰したはずの証拠を暴いたな。


 俺はすぐに振り払って、彼女を追い越したよ。


「……話は終わりだ」


 俺はポップコーンみたいに錠剤を口へ放り込んで、部室を後にした。


8


「このまま帰っちゃうなら、キミが私にひどいことしたって言いふらそっかなー」


 そんな姫野の悪い冗談が、部室を出て3歩の俺を引き留めたね。


 酷いよな。そんなことになってみろ。

 俺は明日から教室の標的になってしまうじゃないか。

 俺は世界にとって空気であることに意義があって、

 教室でマイナスの存在として居場所を作られてしまうのは望むところではないのだ。


「……なんでそこまでして俺に拘る」

「言ったじゃん。キミの才能に惚れちゃったの」


 黒い長髪の触角の隙間を縫って、わざとらしく上目に覗かれたとしてもさ、

 俺の心は、少しだって動くことはなかったね。


 けれどだ。

 どうやったのかは知らないが、彼女は部活を創設するほどに行動的だ。


 このまま帰れば、あるいは本当に。


「決まりだね!」


 そういうわけで、俺は軽音部に所属することになる。


 これまで学校では極力ゼロであり続けたのに、無理やり居場所を持たされてさ、

 実に不愉快な日々の幕開けだったよ。


 だから、なんでなんだろうな。


 俺を取り囲む亡霊たちが、恨めしそうに怨嗟を向けてくるのは。


24


 浜辺を揺れる水死体の中に、今では少女の亡霊が佇んでいる。

 ギターを携えて、青い海を遠望して、

 水平線に透けそうなその白い制服の背中は、酷く寂しそうに光を滲んでいた。


 だから、俺は水平線を目指していくのにさ。


 おかしいよな。


 近づけば近づくほどに、その笑顔が曇っていくのは。


25


 現代ではあらゆる事象に病名を付けられる傾向にあるが、

 どれだけ錠剤を飲んでも午前7時の幻聴で目が覚めちまうことに、

 明確な名前がないのはおかしいことだと思うな。


「ほら、朝練だからそろそろ起きてよ!」


 なんて、姫野から懐かしい電話がさ。


 俺は空虚であれたはずなのに、

 今や、朝から部室の掃除をすることが日課になってしまっいる。

 それを誇らしく思うと同時に、寂しくも思う。


 このホコリを放っておけば、

 また彼女から午前7時に着信が来る日々に戻れないだろうか。

 それはもう、ほら、こんな風にさ。


「ホコリはきちんと落とさないと、楽器が悲しんじゃいますよ」


 勝手に部室でモップを叩いている真っ白な女の子に、

 俺はまず、言わなきゃならないことがあったな。


「なんで転校生がここにいる」

「転校生じゃなくてカノンです」


 カノンはビシッと指を差した。


「そしてもちろん、軽音部に入部するからです!」

「断ると言っただろ」

「それを断ります。先輩も案外、一人で苦労してるんじゃないですか~?」


 転校生はおどけたように笑いながら、

 持ち主を失った水色のギターとドラムのペアに視線を寄越したな。 


 それから、モップをスタンドマイクに見立ててさ。


「だって、ほら」


 音楽は、一人じゃ出来ないじゃないですか。


9


「そんなにソロギターが上手いんなら、一人で軽音をやったらいいだろ」


 姫野の悪質な罠にかかった俺は、

 その翌日から、放課後の時間を台無しにすることだけを考えていたんだよな。


 得体のしれない危機感があったんだ。

 このまま流されるまま部室に居続けては、俺はいつか空虚を忘れてしまう、なんて言うさ。

 姫野は、真夏の蝉みたいに活力に溢れているせいかな。


「分かってないなー。キミには夢とか目標とかはないの?」


 ギターの弦を軽快に鳴らす姫野は、ずいぶんとご機嫌そうだった。


 俺は空っぽであることに意義を見出しているんだ。

 そういうのを持っているのが当たり前、みたいな顔で聞かないで欲しいもんだよ。

 姫野は「ごめんごめん」なんて軽く謝りながら、こう続けたね。


「例えば、私がアカペラをしたとして」

「それで充分だろ」

「でも、拍手してくれる人が居ないと、音楽は成立しないよ?」


 なるほどな。


 音楽というやつも、比較対象があって初めて成立する空虚に通じるものがあるのかもしれない。

 姫野は片目を瞑って、得意げに笑みを作ったな。


「ほら、音楽は一人じゃできないでしょ?」


26


 これを不覚と呼ぶ以外に、相応しい言葉を俺は知らなかったね。

 

 だってさ、転校生がいきなり姫野と同じことを言うなんて、

 誰にも想像できなかったことだろ?

 調子が良さそうな笑みをつくって肩先の白髪を払うあたりも、

 実に姫野らしい仕草だったな。


「ほら、やっぱり一緒に音楽しましょうよ」

「……無理だって言ってるだろ」

「どうしてそんな頑ななんですか」


 俺は、姫野が世界に遺した証を永遠にするためにも、

 アイツとした音楽を最初で最後にしてやるつもりだからだ。


「ところが、そういうわけにもいかないらしいぞ」


 と、聖域に足を踏み入れたのは先生だったね。

 俺は、話がややこしくなる気配に眉を顰めたよ。


「今度の文化祭に出なきゃ、軽音部は廃部だからな」


 初耳だった。


「そりゃあそうだ。おまえ、最近まともに学校きてなかっただろ」

「ドラムとギターはたまに一人で触ってましたよ」

「そういうことだ。去年の文化祭以来、対外的な活動形跡が見られないのが問題なんだ」


 ぐうの音も出ない正論だったね。


「分かっていると思うが、軽音部は姫野のために作られた特例だ。

 今年中に活動実績を残さなきゃ、これで廃部になる」


 こめかみを抑えた先生は、心苦しそうに俺を見た。


「……」


 もちろん、この居場所を失うのは俺の本望じゃない。


 つまりは。


「どこかにいないですかねー、相棒不在のドラマーは」


 チラッ。


「私も余り者なので、いまならすぐに2人1組が作れますよー」


 チラチラッ。


「……仕方がないか。おまえと組んでやる」

「なんで上から目線なんですか!」

「俺が先輩だからだ」

「ムキッー!」


 カノンはむぅと白い頬を膨らませて、

 俺を背中をポカポカと叩いた。

 行動がいちいち小動物みたいなんだよな、この子。


 そういう無駄なスキンシップを好むところも姫野と似ていて、

 まぁ、とにかく、


 そのようにして、俺は文化祭に彼女と音楽をやることになったんだ。


10


 俺の仮面生活はかくして始まる。

 昼間は互い素知らぬ振りして、そのくせ放課後は部室で落ち合って、

 そんな、空虚と現在を反復横跳びするような、奇妙でいびつな姫野との生活がな。


「キミを誘った目的はね~、文化祭のライブに出るためだよっ」


 姫野は右手首のミサンガを眺めながら、まず俺にバチの握り方を教えてきたな。


「俺は初心者だ。いきなり文化祭でドラムを鳴らすなんて無理だろ」

「そうやって逃げようとしても無駄だからね?」


 隙あらばゼロへと近づく生活に戻ろうとしている俺を、

 彼女は逃がしてくれるつもりはないらしい。


「まず楽譜を読みながら、右手は斜め30度ぐらいに──」


 でも、案外、姫野が言っていたことは的を得ていたのかな。


「やっぱり、キミには才能があったみたいだね」


 言われるがままにバチを操り、家ではリズムの取り方を練習しているうちにさ、

 姫野に肘で脇を突かれるぐらいには、俺はドラマーらしくなったんだよ。


「音楽はどれだけ触れたかじゃなくて、どう触れたかだもん」


 まるで、俺が望んでドラムをやっているみたいな言い方はして欲しくなかったな。


 でも、手取り足取りドラムの使い方を教えてもらううちにさ、

 音楽性ってのは、勝手に染み付くものなんだよ。


 それで、そのとき身体が覚えたのは、姫野が奏でる独特なリズムもでさ。

 指遣いとか、身体の揺らし方とか、

 目にも耳にも焼き付いちまってるんだよな。


27


 だから、驚いちまったんだよ。


 Cコードを押さえるときに、上半身を波のように揺らすカノンの姿を見たときにさ。


「わたしのギターに惚れ惚れしちゃったんですか?」


 やけに馴れ馴れしい態度で、小脇を突かれた。


 瞬間、俺は俺の最も大切な記憶を侵されていくような気がして、

 ドラムのシンバルを激しく打ち鳴らして睨み返したよ。


「ハッキリ言ってまったくお粗末だ、初心者だろ」

「そうですよ。始めてまだ3か月ぐらい、ですかね」


 それでこの上手さなんて嫌になっちまうな。

 俺は錠剤を宙へ放り投げ、バリボリと嚙み砕いた。


「文化祭なんて夢のまた夢だな」

「うわ。先輩だってドラムそんなに上手くない癖に~」

「いいから練習するぞ。ほら、俺が教えてやる」


 俺はよろよろとドラムの席から立ち上がって、

 カノンの背中側に立って腕を伸ばしたな。


 彼女のギターを小マシにするのは面倒だったけどさ、

 廃部を人質にとられた以上、やるしかなかったんだ。


 で、俺が見よう見真似でギターを教えるってことはだ。

 ますます誰に似ていくかってのは、自明の理だろ。


「今日は4回、でしたね」


 なんのことだろうな、

 って、その日の俺は思った。

 だって、今日のカノンは一度もミスしなかったんだ。


 蝉の声が部室を重なり響くぐらいには、俺は長考したね。


 姫野が無理に軽音部を設立したから、

 空き部屋を部室にしただけの空間に、エアコンなんてものはなくてさ。

 カノンの陶器のように白いうなじに、透明な雫が流れてそのまま鎖骨を伝い。


「あ、5回です」

 

 蝉の羽音が、過去から現在へ塗り替えられていく。


「下着、見過ぎですよ」


 初夏に赤らむ顔でくすりと吐息を洩らすカノンに、俺はドキリとしちまった。


11 


 結局、夏休みに入っても俺たちの特訓は続いたな。


 俺は、姫野のいっそのこと悪意までを感じる行動力を危険視したからだ。

 今のところ、教室の連中には彼女との付き合いもバレていないし、

 文化祭さえ終われば空虚に戻れるのだから、我慢の時だって考えたわけだ。


 そんな理由にしておかないと、俺は水死体の皆に怒られる気がしたんだよ。


「今日は6回、だったね」

 

 ある夕暮れ。

 隣でかばんを揺らす姫野は、そう言って親指を折って見せた。

 彼女はそうしてよく俺にドラムをミスした回数を伝えてくるから、

 今日もその話だろうなと思った。


「そんなにミスをした覚えはないぞ」

「うん。今日のキミは一度もミスしなかったと思うよ」


 だってこれ、キミが私の透けた下着を見た回数だもん。


 そう言って姫野は、振り向きざまに試すような微笑みを向けてきたな。


「ちなみに、いつもより多いよ。キミは水色が好きなのかな~?」

「……うるさいな」

「素直に言ってくれたら、青系ばっかり付けてあげるのに~」


 俺の周りでチラチラと前かがみになってくるんじゃない。

 浜辺から拝む水平線の色が変わって見えるじゃないか。

 

 とにかく、彼女の存在を世界から追いださなければならないと思った。

 だから俺は、姫野を置き去りにするように早足に歩き出したんだよ。


 それでも、心と身体は、意志なんかよりもよっぽど正直でさ。


「……青い海が、好きだったんだ」


 その日から、彼女は水色の下着を付けるようになった。


28


 それはまるで、姫野と夢の続きを見ている気分だったな。


 カノンは容姿こそ、大和撫子だった姫野とは違うけどさ、

 言葉選びも楽器の鳴らし方も、アイツに瓜二つだったんだよ。

 この間もさ、ほら。


「ギターはまだ半年なんだろ? 異常に上手いな」

「音楽はどれだけ触れたか以上に、どう触れたかが大切ですから」


 な?

 接すれば接するほどに姫野との共通点がボロボロと露見して、

 もう、姫野の生き写しかなにかって言われた方が納得がいくぐらいだったさ。


「あこがれの先輩がいるんです」


 なんて、上目遣いに耳打ちしてくるあざとさもそうだ。

 こうやって大袈裟な言動で常に予防線を張っているあたりが、本当に姫野っぽいんだよ。


 俺は彼女が生きている間に、

 どれだけその予防線の向こう側で会話してやれたんだろうか。

 カノンと過ごしていると浜辺のことが頭を過って、俺は錠剤を口に投げ入れるんだ。


 でも、だったらこれからはその予防線を越えてやればいいんじゃないだろうか。

 なんて、俺は次第に錠剤を放り込む頻度も減っちまって。


 だから、俺は音楽をやめようと思った。


12


 心は薄々、気が付き始めちまってたんだよな。


 姫野と部室で音楽を奏でる現在も、それはそれで悪くないなぁってことにさ。

 

 だから否定しなければならなかった。

 以来、水死体の亡霊が俺を見つめる視線が厳しくなったというのもある。

 視線が濃いだけならいざ知らず、遂には微睡の中で引っ張られるまでになってさ、

 近頃、俺は上手く夜を眠れないようになっちまったんだよ。


 お前は空虚であれよ。現在に染まるなよって、

 浜辺に立つ幼き俺の言葉は耳に痛かったね。


 要は、ゼロから一に近づこうとしている俺を、俺は潜在的に許せなかったんだ。


「あー、それは気にしなくていいよ」


 ただ、軽音部を辞めたいって切り出しただけなんだけどな。

 窓辺に頬杖をついて青空を見上げる姫野は、ぜんぶ見透かしたみたいだった。


 それから、彼女は軽い笑みを浮かべてさ。


「だって私、この夏と一緒に消えるもん」


29


 でも、姫野と違ってカノンにはさ、俺を留めるだけの言葉はなかったんだよね。


「え」


 だから、下校のときはいつだって俺の背中についてくるカノンへ、

 俺は明確な境界線を引くように言ったんだよ。

 転校生は転校生らしく、クラスメイトと一緒に帰れよ、ってことも加えてな。


「お前は顔もいいから、募集を掛けりゃすぐに人が集まるだろ」

「そ、それは」


 そうすりゃ同好会でも作れるはずだ。

 俺は顔を青白くしたカノンを突き放して、自宅のマンションへ足を向けたね。


「ちょ。先輩!」


 縋るように手を伸ばすカノンは、崩れる足元から逃げ出すみたいに必死な様子だった。

 走り出すと同時に前のめりになるもんだから、

 あーあ。


 カノンは派手に転倒して、こぉん、と鈍い音を響かせた。


 夏の暑さに揺らぐアスファルトが、俺の意識を過去へ呑み込んだ。


13


「キミってさ、私のこと、かなり好きでしょ?」


 その夕暮れは、いつにも増して暑い日だったな。


 俺は未だ、夏の終わりに居なくなるなんて姫野の根拠もない言葉に甘えてさ、

 亡霊の目を掻い潜ってまで、部室を訪れていたんだよ。

 

「……いきなりなんだよ」

「だって、そうじゃなかったら一緒に音楽してくれる理由ないじゃん」


 隣で帰路を歩む姫野は、桜色の唇を挑発的に歪めていたな。


 きっと、彼女にとって俺の返事は、最終確認に必要なものだったんだろう。

 だから、早足になって彼女を置き去りにしてもさ、

 後ろから甘ったるい声を囁いてくるんだよ。


「ねー、好きって言ってよ~。言って欲しいなぁー」

「俺は……お前に纏わりつかれて迷惑してるんだぞ」


 クソッ、熱いな。

 うだるように熱い季節だ。


 そう。

 この日は特段暑い日だったんだ。

 

 だからほら、彼女もこの暑さにやられて、いつも以上におかしなことを言っていて。


「私はぁー、案外ぃ~、キミのことぉ──」


 こぉん、


 と、鈍い音が背後でした。

 その聞きなれない音に、俺は思わず振り返ってさ。


「……姫野?」


 アスファルトの上に倒れた、姫野を見たんだよ。


14


 動かなくなった姫野を見てまず思ったことが、

 近くに俺の住んでいるマンションがあるのが最悪だな、って感想だった。


 俺は俺にびっくりしちまったよ。

 だって、以前の空虚至上主義な俺なら、

 クラスメイトが額から血を流していようとなんだろうと、

 自ら助けよう、なんて選択肢が出てくるはずもなかったからさ。


「……あれ?」


 額にガーゼを貼られた姫野が起き上がったのは、俺のベッドの上でのことだった。

 カーテンが閉まって薄暗くて辛気臭い、俺みたいな世界のあぶれ者にお似合いのお家だ。

 

「倒れた女の子を介抱するなんて、キミにしてはやるじゃないかー」

「気を付けろよ、まったく」

「はーい」


 ガーゼをぺたぺたと触る姫野と顔を合わせるのが、なんともこそばゆかったな。


 というか、起きたんならベッドから降りて欲しいもんだ。

 そんなにシーツに擦り付くなよ。

 甘い匂いが移ったら、水死体の視線が濃くなるだろうが。


 でもそれ以上に問題だったのが、

 彼女が部屋の中をぐるりと見渡し、壁に貼られた大量の写真に目を留めたことだったね。


「これは……小さい頃のキミ?」


 彼女はいくつかの写真を指差し、俺に訊いた。

 津波に呑まれる前の、俺の地元の写真だ。

 そこには、亡き同級生たちと俺が笑顔で映っていた。


「……」


 俺だって馬鹿じゃないんだ。

 彼女を家に連れ込んだ時点で、ソレに触れられることは想定済みだったんだよ。


 だからある意味では、俺はその秘密を彼女に話していいと思ったってことでもあるんだよな。

 姫野の方はまだ、何一つとして俺に開示していないってのにさ。


「聞きたいな、キミの話」


 いつもと違って少し落ち着いた口調で、姫野は穏やかに目を細めた。


 俺は静かに頷いて、少しだけ、自分のことを話した。


15


 ガキだった頃は日本の東に住んでいたこと。

 悪くない人間関係に恵まれていたこと。

 可愛い幼馴染が居て、ぜんぶ津波に攫われていったこと。


「他人に語りを聞かせるには充分に色濃い人生だろう?」


 クソが。


 避難先の薄汚い生活は神経を摩耗した。

 両親は居なくなってしまった。

 俺を愛想笑いでたらい回す親戚たちには心底嫌気が差した。


「でも、何よりも驚いたのは、生き残った同級生たちの末路だったな」


 あいつらさ、新しい学校に通い始めて、どうなったと思う?


「んー……上手く馴染めなくて、虐められちゃった、とか?」


 そうであれば、俺はどれだけ救われただろうな。

 結果は逆だ。

 あいつらは適応しちまったんだ。


 まるで、波に呑まれる前の自分なんて存在しませんでした、

 みたいな無邪気な笑顔をして、新しい居場所を作ったんだよ。

 これまでの思い出も、人間関係も、ぜんぶ洗い流してさ。


 俺はそれが信じられなかったし、過去を切り捨てて笑う連中に混じりたいとも思わなかった。


「だから、俺は誰のプラスにもマイナスにもならず、

 ただ、存在しないものとして生きたかったんだ」


 誰もがかつての居場所を置き去りにしていくなら、俺はその思い出を永遠の現在にしたい。

 過ぎ去ったものになんてしたくない。

 いつだってあの頃の輝きに戻りたいんだ。


 それに、もしも現在を生きてしまえば、俺も、連中と同じになってしまいそうだから。


「……なんて、臆病で情けない言い訳なんだろうな」


 ふだんは空虚だとかゼロだとかカッコつけている内面を曝け出して、

 俺は思わず笑っちまったよ。


「優しいんだね」


 でも、姫野は俺を笑わなかった。


 彼女は壁掛けの過去へ一つ一つ触れるようにゆっくり手を伸ばし、静謐なる目つきで俺を見た。


「キミはさ、とっても優しいんだよ。過去に縛られて、先に消えちゃった友達を慰めてあげるぐらいに」

「そんなことはない」


 俺はただ、過去を上書きする世界が憎いだけなんだ。

 反射的に言おうとした矢先、「そうだね」と姫野は先制した。


「キミはキミを、許せないんだ」


 人一倍、自罰的な人間なんだよ。

 姫野は言った。

 そんな高貴な思想は持っていない。

 言いたかったのに、どうしてか喉から洩れるのは空気だけだった。



 そしてだからこそ、姫野の言葉は救いだったんだ。



「キミがキミを許せなくても、私なら、キミを受け入れてあげられるよ?」


 あまりに傲慢な言い分だと思ったね。


 でも気が付くと、ベット脇をぽんぽんと叩く姫野の隣に、俺は腰を下ろしていたな。


「ねぇ」


 と、手の甲に、冷たく柔らかい手の感触が重なる。

 反射的に隣を見ると、宝石みたいな黒の瞳が、俺の意識を吸い込んでいく。


「私の相棒でいる間は、ぜんぶ忘れて。私の相棒であることだけに、夢中になって」


 その時からだったな。

 瞼の裏で彼女の残像を想えば、

 ゼロへ近づかないと薄れなかった水死体たちの視線が、消えてなくなるようになったのは。


「……優しいんだな」


 なんだかどうしようもなくってさ、

 俺は、ため息と共に笑みを乗せたな。


「優しくなんかないよ」


 きっと、キミにとってはとても残酷なことだから。


 姫野は薄暗い天井を見上げて、ぽつりと吐いた。


30

 

「なにが残酷なんだよ。なぁ、姫野」


 俺はおまえの相棒なんだから、もうすぐにそっち側に行くだけだろ。

 そんな意味を込めて、俺はベッド脇に座りながら天井を見上げたな。


 そしたらさ、ツンツン、と肩を叩かれた気がしたんだ。

 なんだよ、と、俺は隣に座っている姫野の方を見て。


「わたしはカノンですよ」


 どういうことだろうな。

 確かに俺は、道路に倒れた姫野を連れ込んだつもりだったんだけど。


「姫野さん、姫野さんって、必死でしたね」


 カノンは困ったような笑顔でくすりと息を洩らした。

 俺は倒錯していたらしい。

 まぁ、睡眠薬の過剰摂取で常に泥酔してるようなもんだからな。

 そんなときもあるだろ。


「先輩にとって姫野さんがどういう存在なのか、よく分かった気がします」

「どういう意味だ」

「どういう意味でしょうか」


 オウム返しをしたカノンは、実に鬱陶しい笑顔をしていた。

 彼女は俺の部屋に並ぶ写真の一つ一つを眺め、あの日の姫野と同じように指を差した。


「あっちが、お話してくれた故郷の写真ですか」

「まぁ……そうだ」

「では、あちらの写真は」


 でも、姫野が来た日と違ってさ、

 今の俺の部屋には、新しい居場所の写真がいくつか飾られてるんだよ。


「文化祭のステージの写真……でしょうか?」


 ギターを提げてスポットライトを浴び、

 手拍子を求めるように右手を挙げた姫野だ。

 あんなに顔は青白いのに、現在を生きてるって感じを体現しているところが、彼女らしいよな。


 もしかしたら、俺が水死体の視線を感じなくなったのも、

 彼女が彼らの視線を釘付けにしてるからなのかもしれない。


「そのミサンガ、貰い物だったんですね」

「あぁ」


 写真の姫野が手首に嵌めたミサンガに気が付くなんて、目ざといもんだ。


「それ、どんなお願い事が込められていたんですか?」

「……さぁ?」


 姫野は肝心なことを言葉にしてくれなかったから、実のところ、俺もよく知らないんだよ。


16


 究極的に言うと、姫野は俺にとって理想の少女像だった。


 俺は今後女性を想えば、まず姫野の形にどれだけ当てはまるかを考えるだろうし、

 俺の中での最高の輪郭は、もう二度と彼女の形から動くことはないだろうね。


 それだけ、姫野は俺にとって完璧な相手だったんだ。


「だいぶ息合うようになってきたねー」

「……くっつくな。暑苦しいだろ」

「私たち、相性いいのかな?」


 気が付くと、ドラムストーンでふざけた椅子取りゲームをすることにさえ、

 俺は激しく心臓を揺さぶられていたな。

 まぁ、ここまでが姫野の緻密な計算だったのだから、恐ろしいもんだ。


 でも、こっちは計算外だったんじゃないだろうか。

 文化祭が近づくにつれて、姫野の様子は目に見えておかしくなっていったんだ。


「おい。ちゃんと前を見て歩けよ。また転ぶぞ」

「……あれー、最近暑いからかなー?」

 

 まず、彼女は何もないところで躓くようになった。

 次にふらりと倒れることが多くなった。

 元から青白かった肌は柳の幽霊みたいにますます生気を失ってさ、

 極めつけは、その日の特訓を終えて、アイスを食べながら昇降口の階段で休んでいた時のことだよ。


「夏休みの宿題、もう終わったのか?」

「えー。私は意味ないしやらな──」


 けほ、と。


 姫野は小さな拳を作って軽く咳き込んだ。


 そしてその瞬間、俺は思わず呼吸を忘れちまったな。

 

「…………血?」


 口元を押さえた彼女の手のひらから、暗赤色の雫が、ぽたぽたと滴り落ちた。


17


「ちょっと……舌を噛んじゃったのかな?」


 と、姫野は視線を泳がせながら、軽く笑みを作った。

 それが嘘だと分からないほど、俺は姫野に盲目的じゃなかったけどさ。


「でも、」

「だいじょーぶ。よくあることだよ」


 俺が聞くより先に、彼女は顎に汗粒を貯めながら、努めて普段通りを演じたな。

 姫野は俺に、何かを隠そうとしている。

 そう分かった以上、無理に問い詰めることはできなかった。


「もっと知りたい? 私のこと」

 

 なのに、帰り道、彼女は俺の肩を小さく叩いて囁いたんだよ。


 その言葉には色んな意味が含まれていただろうし、

 頷くってことは、俺は遂に、自らゼロから離れようとしていることを認めるわけだ。


 水死体たちを思えば、そんなことができるはずもないよな。


「じゃあ、私の家に行こっか」


 俺は姫野に手首を引かれて、いつもの帰路を外れた。


 そして目の当たりにしたのが、四畳半の腐った部屋だったんだ。


18


 腐敗というのが精神的な意味を持ってこそ恐ろしいと知ったのは、そのときが初めてだったな。


「お邪魔していってね」


 姫野が自宅だと称するその場所は、築年数も定かではないボロアパートだった。

 それでも、部屋に清掃は行き届いているし、

 インテリアは簡素ながら、姫野の音楽な趣味が出た爽やかな様子だったよ。


 じゃあどうして、『腐っている』なんてと表現したのかっていうとさ。


「……これは」


 幸せの奴隷に相応しい啓蒙ポスターだったり、

 悪趣味な金の仏壇だったり、

 部屋中には、彼女を汚すようにきな臭いものが溢れていたんだよ。

 

「これねー、お母さんが家に来たらよく貼っていくんだよ」


 姫野は俺の視界から異物を追い出すように、びりびりとポスターを破いた。

 ぎこちなく笑うその姿が、胸に痛々しかった。


「生まれたときからずっと傍にあってさ、

 だから、皆の家にはこういうものってないこととか、

 集会に行って偉そうな人のお話を聞くこともないんだって気づくのに、時間がかかったの」


 もっと早く分かってたら、友達もできたのかな?


 途切れ途切れに姫野が告げるのは、

 言葉を選んでいるからなのだろうなと思った。


 自分が良く分からない宗教の二世であること。

 物心ついたときには父がいなかったこと。

 母は熱心に宗教へ傾倒していて、自分はその一員としての居場所しかなかったこと。


 そして、この夏を契機に一人暮らしを始めたこと。


「未成年で親元を離れるなんて、たくさん反対されたんだけどな」


 じゃあ、なんで一人暮らしが許されたんだよ。

 俺が聞くまでもなく、姫野はフッと目線を合わせてさ。


「教祖様のおまじないで長生きできたら、苦労しないのにね」

 

 その整った鼻筋から鮮やかな血を流しながら、彼女は部屋の陰りで笑った。


31


「この夏と一緒に、居なくなっちゃうんだよ」


 そのときになってようやく、俺は姫野の言葉の意味を理解したんだ。


 でも、あまりに突然のことだったからさ、

 俺は玄関先に突っ立つばかりで、なんの言葉も掛けてやれなかったんだよな。


「私はね、永遠になるんだよ」


 姫野は右手首のミサンガを見つめて、滔々と語った。


 思い出を振り返ったときに、あんな子がいたなって。

 もう一度あの夏に、彼女の歌声を聞きたいなって。

 でも、私はもうそこには居なくって、そのおかげでみんなが心に欠落を抱えて生きてくれるような、そんな風にしてあげたいの。


「私は誰からも忘れられない。必ずそうなる。文化祭のライブでみんなに鮮やかな記憶を植え付けて、最高の形で永遠の傷跡を残してやるんだ」


 それは何か、宿命めいた口調だったな。

 まるで未来を見てきたような素振りだったから、

 自然とそうなるんだろうな、と俺は思った。


「ねぇ」


 トン、と。

 姫野は細い指先で俺の胸を小突いて、軽い微笑みを射抜く。



「キミを相棒に選んだ理由はね、つまりはそういうことなんだよ?」



 詰まるところ、姫野は俺に、音楽的才能を見出したわけじゃなくってさ。



「キミにとって、わたしは特別になれてるかな?」


 近いうち、俺は以前と似たような悩みの種を植え付けられるのだろうな。


 そう思ったけれど、俺はまだ、ゼロから半歩踏み出したばかりでさ、

 その最終確認に応える言葉は、上手く見つからなかったんだ。


 だけど。


 今なら、迷いなく言える。



 俺は、おまえが。



「好き、だったんですか?」


 ぱしゃんと、夢のしゃぼんが弾け飛んだ。


「……あ?」


 瞬きをした後の世界には、ギターを抱えたカノンが立っていたね。


 場所は姫野の家じゃなくて部室だし、そもそも真昼だ。

 なにより頭がクラクラしている。

 薬の飲み過ぎか?


「どうでしたか?」


 茫然自失としちまった俺に、カノンは雪のような頬を赤らめながら、こう言ったんだよ。


「わたし、姫野先輩になれてますか?」


 途端、世界が急速に冷え込んでいく気がしたね。

 だってさ、そんな言い方をするってことはだ、


「髪は黒く染めた方がいいでしょうか。あ、長さももちろん合わせますし──」


 カノンは狙って、俺に姫野の幻想を見せているってことだろ。


 なんでそんなことするんだ。

 衝撃のあまり、その言葉さえ出てこなかったね。

 唖然とした視界には、カノンの携帯に映った文化祭のライブ映像が流れていてさ。


「わたし、先輩の隣にいるためなら、どんなことだって」


 とそこで、俺は気が付いちまったんだよ。


「……やめろ」


 自分でも驚くぐらい、低くくぐもった声だった。

 俺は異国的な赤い瞳を睨んでさ、確認の言葉を投げかけたな。


「おまえは、誰だ」

「先輩の居場所になる人ですよ」


 俺はドラムのバチを思いきり床に叩きつけた。


「誰だって言ってんだッ!」


 彼女のそれは、黄金時代の絵画を塗り潰すように冒涜的なことだったんだ。


「わたし、ステージで輝いていたあの日の姫野先輩みたいになりたいんです」

「お前は……姫野じゃない! 姫野の代わりなんて居ないんだよ!!」


 沸騰した頭で吐いた言葉の内容はあまりに覚えていない。

 たぶん、おまえみたいなクズが姫野を騙るなとか、

 姫野は特別な人間であって誰かに真似されるべき対象じゃないとか、そんなことだったと思う。


 それで仕舞いには、カノンへ凄みながらさ、こう吐いちまったんだよ。


「二度と部室に来るな、この偽物がッ!!」


 ぽかんと、カノンは呆けたように俺を見たな。

 その赤い瞳に映るのは、完全なる敵意を持った人間の目つきだったね。


 そのうち、カノンはくしゃりと表情を歪めてさ。


「あー……また、失敗しちゃった」


 目元を指で抑えて、笑みを引き攣る姿。

 見ていると、なぜだか胸の奥が痛かった。

 おかしいよな。どこからどう見ても、コイツが悪いはずなのにさ。


「ごめんなさい、先輩」


 その言葉を最後に、蝉の声だけが部室を残った。


「……」 


 俺はもう、なんだか全部が嫌になってさ、

 サッサと家に戻って錠剤を口に流し込み、世界が溶けると同時にベッドに沈んだ。


19


 その日を境に、姫野の顔色は幽霊かってぐらいに青白さを帯びたね。


 授業中や下校中に倒れることはしょっちゅうだったし、

 終いには、二日に一回は学校を欠席するようになったんだよ。


「まー、ドラムはそろそろ及第点かな?」

 

 それでも、彼女は部活にだけは、いつもと何ら変わらない素振りで顔を出したね。


 それはまさしく、執念ってやつじゃなかったんだろうか。

 ゼロに近づきたい俺には信じられないことだけれど、

 彼女はその胸に抱く野望を叶えない限りは、この世を去れないとでもいう熱意を秘めていたんだよ。


 それで、幸か不幸か迎えた文化祭当日。


 待機場所の体育館舞台裏は、立っているだけでも汗が零れるほどに酷い環境だった。

 俺と姫野の出番は吹奏楽部の次で、

 表舞台から何重にも重なる楽器の音と観客の拍手には、眩暈がするほどだったさ。


「姫野、だいじょうぶか」

「んー……」


 返ってくる相槌に、およそ生気というものは感じられなかったな。


 舞台裏の暗がりで見る姫野の顔色は、向こうが見通せるかってぐらいに薄くてさ。

 呼吸も常に落ち着かない様子だったし、

 そんな姫野の様子を見て、俺は思わず。


「やっぱり、今日はやめておこう」


 でも、途中でその言葉が詰まったな。


 姫野は、俺の方を見ていなかったからだ。


 その眼差しは、光の差し込む舞台の上だけを、真っ直ぐに見据えていた。


「行くよ」


 芯を宿した透明な声。

 次の組を呼ぶ放送部のアナウンスに合わせて、彼女は導かれるように表舞台へ歩き出す。


「……姫野」


 もちろん、言いたいことはたくさんあったさ。

 まぁ、どんな言葉を尽くしたとしても、その背中を引き止めることはできなかっただろうけどな。


 結局のところ、彼女の宣言通り、姫野にとって俺という存在は、目的を果たすための舞台装置でしかなかったんだ。


「なぁに?」

「……最高のライブにするか」


 だから、花道を作ることにした。

 その結果が、決して好ましいものではないと理解しながら。


「うんっ!」


 それでも、彼女にスポットライトを当てる役が、自分で良かったな。


 目を輝かせて笑う彼女を隣から盗み見て、

 そんな幸せを噛み締めてしまったのは、

 空虚で足踏みし続けた俺に相応しい結末だったんだろう。

 

20


 結果から言うと、ライブは大成功だったな。


 耳が割れそうなほどの声援と熱気の中、

 マイクに叫ぶ歌姫の姿は、痛々しいほどに眩しかったよ。

 アンコールは2回も求められちまって、

 姫野は青白かったはずの頬を紅潮させて2曲、3曲と歌っていたね。


「文化祭の打ち上げ、クラスのみんなと行かなくて良かったの?」


 ライブ後、俺を騒がしく包囲した連中から逃げ出すと、

 姫野は既に校門の外側に出ていた。


 居場所はここだけに決まってるだろう。

 俺は適当な相槌で誤魔化しながら、姫野と共に帰路を辿った。


「姫野の方こそ、ライブには満足できたのか?」

「……うん。やっと、私はここに居るんだって、お母さんの付属品じゃないんだって、世界に叫べた気がする」


 姫野は夕暮れの空に右手のミサンガをかざし、静かに頷いた。 


 あれだけ渇望したゼロへと、今はまだ近づいて欲しくない。

 そんな風に思わされたのは、いつ以来のことだったかな。


 いつもよりも少し遠く思えた帰路も、終わりのときが来ていた。

 姫野の住むアパートの前で、俺は普段通り、「またな」と手を振ろうとして。


「楽しかった、なぁ……」


 思わず零れ落ちたような一言。

 姫野は後ろ髪を引かれるように、文化祭の名残が聞こえる方を遠望する。

 俺はかつて消えゆく者だったからこそ、彼女が今なにを考えているのか、手に取るように分かった。


「俺が一緒にいてやるだろ」


 だから、自然とその言葉が零れ落ちた。


 顔が熱くなった。

 夏のせいだと思いたかった。

 黒髪を激しく揺らして振り向いた姫野は、見開いた目に俺を映した。


 俺は目線を逸らしながら、でも確かに、手を差し伸べて言ったな。


「音楽は、一人じゃできないんだろ?」


 ヒグラシにして、一呼吸分の沈黙があった。


「……ね、秋斗くん」


 そのとき初めて、俺は彼女に名前を呼ばれた気がしたな。

 おかしいよな。姫野は何度だって、俺を名前で呼んでくれたのにさ。


「これ、受け取って」


 こんなつもりじゃ、なかったのにな。

 姫野はどこか参ったように笑いながら、水色のミサンガを取り外した。

 そして俺の手を掴んでさ、丁寧に、左手首へ絡めてくれたんだよ。


 それから、軽く身体を横に揺らして。


「来年も、再来年も、私と一緒に音楽をしてね」


 夕焼けに負けない笑顔が、昼と夜の境界線に立っていた。


 相棒なんだ、当たり前だろ。

 軽い笑みと共に返したその一言に、姫野は満足そうに頷いて、俺に手を振った。


 それが最後だった。

 週が明けて学校に行くと、もう、彼女の姿はどこにもなかった。

 夏の雲が秋の空に攫われるみたいに、本当にあっけなく、姫野は世界から消えてしまったんだ。


 俺の空虚の形を滅茶苦茶にして、

 俺にドラムの叩き方を教えて、

 俺のための居場所を作って。


「ごめんね」


 その言葉と書きかけの楽譜を残して、姫野は完全なるゼロに至った。


32


 その週末から、俺は高校に行かなくなったね。

 次の日もその次の日も、睡眠薬に溺れてひたすら夢に沈んだんだ。

 

 もしも姫野が生きていれば、こんな未来があったのかもな。

 なんて夢を貪って、愛して、海岸線に見える彼女の背中に近づいていって。


 なのにやっぱり、振り向きざまに見る姫野の笑顔は、なんだか悲しそうなんだよ。

 

「なんでだよ」


 一緒に行ってやるって、言っただろ。

 俺はただ、あるべき空虚に至るだけなんだ。

 俺は説得するように言いながら、彼女に強く手を伸ばして。



 目覚めの着信音が、鼓膜を叩いた。



「秋斗か、出てくれて助かった」


 無意識的に掴んだ携帯から聞こえたのは、期待に反して担任教師の声だったね。


「カノンはおまえの近くにいるか?」

「……はぁ? 知りませんよ、あんな奴」


 不愉快な名前を聞いたこともあって、俺は苛立ちを隠さず相槌を返した。

 すると先生は「そうか」と短く言いながら、一呼吸の間を置いてさ。


「カノンが、失踪した」


 流石に、ベッドから飛び起きたな。


33


 カノンは週明けから、なんの連絡もなく休んでいるんだ。

 今も音信不通なんだが、軽音部で仲良くしてるおまえなら、なにか知ってるかと思ってな。 


 電話先でベラベラと語られた内容はそんなのだったね。


「彼女と仲がいいなんて、そんなわけないでしょう」

「……さっきからどうした。トラブルでもあったのか?」


 というよりは、あれは意図的に姫野の居場所に成り代わろうとしていた最低の悪意だ。

 

「とにかく、アイツがなにをしていようと知ったことじゃありません。

 彼女は転校生なんでしょう。情報が欲しいならクラスメイトを当たった方がずっとマシだと思いますよ」


 と、俺はため息を吐き捨てながら、

 邪悪な転校生を世界から追い出すために電話を切り上げようとしてさ。


「実はな、カノンは転校生なんかじゃないんだ」


 通話ボタンをスワイプする指が、ピタリと止まった。


「もともとカノンは、不登校少女だったんだよ」


 今年の四月から新入生として入学したが、上手くクラスに馴染めなかったんだと。

 それで、カノンは一人ぼっちから保健室登校になって、

 次第に学校にも行けなくなったんだとさ。


「推測でしかないが、カノンは見た目が浮いているからな。そういう理由もあったんだろう」


 まぁ、見た目だけは異国のお人形さんみたいな奴だ。

 日本人離れした姿のせいで、教室の輪からあぶれたのかもしれない。

 それを悟られたくなくて、俺の前では転校生ということにしたのか?


「軽音部に憧れているみたいだったから、おまえとなら、仲良くなれると思ったんだが」 


 学校に来られなくなったカノンは、長らく引き籠っていたらしい。

 けれどある時を境に、家の中にギターを置くようになったみたいだ。


 聞けば、姫野が映った文化祭の映像に心を打たれたと。

 カノンはやがて、「軽音部に参加したいです」って、定期的に訪問する先生へ勇気を振り絞り。


「秋斗も分からないならそれでいい。もし、カノンを見かけたら連絡をくれ」


 そこで一方的に、電話は切られた。


 それからいくばくかの時間、耳鳴りが響いた末にさ。


「……ッ!」


 気が付くと、俺は部屋を飛び出していたな。


 パジャマも着替えず、睡眠薬にふら付いた身体でさ。

 俺は必死になって、街灯が薄闇を照らす外を走り出していたんだよ。


 だって、俺はようやく彼女が理解できた気がしたから。


 世界のどこにも居場所がなくて、一人ぼっちになって。

 それでも空虚に至る前になんとか見出した希望の居場所が、彼女にとっては軽音部だったんだ。

 かつて俺が、そうやって姫野に居場所を作ってもらったみたいにな。


 なのに、俺はカノンを追い出して。


「……クソッ!」


 俺は夜の田舎町を無我夢中で走り回った。

 でも、無計画じゃなかった。


 世界から居場所を奪われて、真っ暗闇になって、

 すべてがゼロになる前の人間がこの街で辿り着く場所を、俺は良く知っていたから。


「カノンッ!!」


 その背中は、今にも高台からすり抜けていきそうなほどに遠かった。


 制服があまりに似合わない異国の少女は、ビクリと、こちらへ振り向いた。

 

「……先輩、でしたか」


 たぶん、これから俺がどんな言葉を尽くしたとしても、

 彼女が高台から飛び下りることを、止められはしなかっただろうな。


 だけど。


 言葉以外での方法なら、俺は。


「…………なんですか」


 パン、パン、と。

 閑散とした高台に拍手の音が響く。


 俺は努めて明るい笑顔を浮かべて、街灯の下でリズムを取る。


「どうせ、捨てる命なんだろ?」


 だったら一曲、俺の為に手拍子していってくれよ。


 そう言って俺は、彼女に歌を披露したんだ。


34


 ギターが上手いだけあってさ、

 カノンの手拍子は、歌ってるこっちが感心しちまうレベルだったよ。


 俺の短い一曲が終わると、

 カノンはずるずると手すりにもたれ掛かって、地べたに座り込んじまった。

 項垂れた彼女の表情は、真っ白な髪に遮られてよく見えなかった。


「……すみませんでした、先輩」


 柳のように細い声が、ボソリと返る。


「ほら、明日からまた音楽をするぞ」


 俺は彼女の前に立って、手を差し伸べたな。


 だけど、カノンが俺の手を掴むことなかった。

 代わりに、揺らいだ赤い瞳が恐る恐る見上げてさ。

 

「もう、放っておいてくれていいんですよ?」


 くしゃりと、カノンは表情を泣き出しそうに歪めながら、唇を噛み締めたね。


 わたし、クラスで嫌われ者だったんです。

 理由が分からないから、どうにも解決できなくて、

 だからこそ、今度は誰にも嫌われないように、みんなから愛されたお手本を模倣して、


「でも、やっぱり駄目でした」


 カノンはまるで、弱り切った蝶のように萎れた笑みを落とした。

 

「きっと、わたしが悪い子だからでしょうね」

「そんなことはない」

「はずがないです。だってわたし、先輩に酷いことをしたんですよ?」

「あぁ、それでも見捨てるつもりはないさ」


 問答を続けていくと、カノンは次第に俺から視線を逸らしたな。


「……わたしは、姫野先輩じゃありません」

「そうだ。おまえは姫野じゃない」


 その背いていく瞳を逃がさないようにさ、俺は白い頬に手を添えて、こう返したんだよ。


「おまえは俺だったから、見捨てないんだ」


 そこではじめて、カノンは自発的に俺を見てくれたね。

 俺は彼女と同じ目線に立ちたくて、手すりに背を預けて隣に座り込んだな。

 それで、隣からカノンを見ながらさ、恥ずかしいけど、自分の話をしてみたんだよ。


「俺も、姫野に拾われるまでは、世界のどこにも居場所がなかった。いつだって、いかに人生を終えるかばっかり考えてた」


 今も思い出す。

 水死体に囚われた日々を。

 現在を生きることがどうしようもなく憎かったことを。


 でも、後になって振り返れば、それも案外、悪くないものだったと思える。

 ゼロを求める俺の前に姫野がふらりと現れて、相棒って居場所をくれたからな。


「嬉しかったんだ」


 今なら穏やかにそう言い切れる。

 姫野のことを思えば、自然と口角が上がる。


 そのときは素直に認められなかったけど、

 俺はやっと、生きていいよって世界に言われた気がして、安心したんだよな。


 だからこそ。


「ごめん」


 俺は深く頭を下げる。


「居場所を求めてもがいていたことに、気が付いてやれなくて」


 俺は俺のことばっかりを考えて、同じ苦しみを持つカノンを、蔑ろにしちまって。


 話が終わると、夜の虫の声が高台を響いた。

 カノンは軽く目を大きくしたまま、俺を見つめていた。


 やがて、彼女はなんとも言えなそうに口元を緩めてさ。


「……先輩は、優しすぎます」


 いつか怒られますよ。

 なんて言って、カノンは俺の肩に顔を伏せちまった。

 俺はそれを突き放すつもりも、抱き寄せてやるつもりもなかった。


「そんなことはない」


 ただ、自然とその言葉が零れたんだ。


 それでようやく、俺は気が付いたな。

 姫野があの日言った、『優しくなんてないよ』って言葉の真意にさ。


 そりゃあそうだ。


 これから完全なるゼロへ至る人間が、生者にする施しなんて、残酷そのものでしかないよな。


35


「さっきのお歌、どこのバンドのものなんですか」 


 しばらくして落ち着きを取り戻したカノンは、ほんの少し腫れた目元を向けて俺に聞いた。

 俺は、すべてがゼロになるはずだったあの夜を思い返して答えた。


「あれは、姫野が作詞作曲したものなんだ」


 そうだ。

 俺がはじめて姫野と出会ったときに、彼女が聞かせてくれた曲なんだよ。


「でも、曲は一番までしかない」

「短いのは、そういう理由だったんですね」


 姫野が消えてから届いた手紙に同封されてたからさ、

 てっきり、完成してるものだと思ったのにな。


 そもそも、「ごめん」の一文はどういう意味だったんだろう。

 少なくとも、姫野が俺に謝ることなんて何一つとしてないのにさ。


 俺は寝巻きのポケットに入れた錠剤をバラバラと噛み砕いて、

 半ば投げやりに、俺と姫野のことを話したな。


「意味分かんねえよな。向こうでも一緒に音楽しようって、約束したのに。

 手紙と書きかけの曲だけ置いて、勝手にいきやがって」


 水色のミサンガは、その約束を果たすために俺に譲ってくれたんじゃないのかよ。

 俺はぐらりと揺れる視界のなか、ぼんやりと手首に月を重ねて。


「生きてほしかった」


 その一言が、やけにハッキリと、鼓膜を叩いた。


「……」


 まぁ。

 本当のことを言うと、とっくに分かっていたんだよ。


 姫野が、こっちに来るなって言ってることぐらい。


 遺された手紙の意味も。

 未完成な楽譜もそうだし。

 姫野が浜辺で悲しそうに笑う理由だって。


『来年も、再来年も、私と一緒に音楽をしてね』


 姫野はちゃんと、別れ際に言ってくれてたじゃないか。


 でも、俺は姫野の作った空虚に耐えられなくてさ。

 彼女のいない現在を生きたくなくて、そのくせ彼女の意志は心のどこかで理解していて、

 だから、空虚と居場所の間をいびつに揺らぎながら、都合の良い結末を探してたんだよ。


「つくづく、自分の情けなさには嫌気が差すもんだ」


 俺は夜空を見上げて、自嘲の笑みを落とす。

 月が煌々と輝く黒を見つめていると、ふと、寄り添う声が隣から聞こえる。


「わたしとお揃いですね」


 まったくだ。

 2つの小さな笑い声が、人気のない高台を重なった。


36


 その夜を越えた俺とカノンは、再び部室に集まって文化祭に向けた練習を始めたな。


 やっぱり、お互いに内側を共有したのもあったのかな。

 俺たちの音は縺れ合うように重なって、

 ちょっとした仕掛けの準備ができるぐらいには、完璧なコンビに仕上がっていたよ。

 

 カノンは文化祭のライブなんて、ドンと来いって感じだったね。


「や、やっぱり無理かもです」


 文化祭当日。

 舞台幕から垣間見える大勢の観客を盗み見て、カノンは途端に顔を青くした。

 ギターを抱えた腕までガクブルとしちまって、小鹿みたいな有様だったな。


「そう固くなるなよ」

「で、でも、」

「今この瞬間は、俺たちだけが世界の主役だからな」

 

 要は、クラスの連中に嫌われてるとか、居場所がないとか、そういう事情はすべて暗黙の了解として無視される。

 そんな超法的な瞬間なんだよ、舞台ってのはさ。


 俺たちの出番を呼ぶアナウンスが入った。

 俺は怯えるカノンの腕を引いて、ゆっくりと、舞台表の光に向かって歩き出した。


「う、わ……」


 舞台から見下ろす体育館には、観客がびっしりと詰まっていたな。

 誰もがクソ暑いなか長椅子に座ってさ、異国の少女へ濃い視線を寄越していたよ。


 カノンは緊張したように、ステージ中央のマイク立ての高さを弄った。

 そして何度か深呼吸を図り、すぅと、大きく息を吸って。


「み、みなさん……こんにちはーっ!!」


 観客からの熱風が、ステージまで吹き荒れる。

 それを一身に浴びたカノンは、白い頬を一気に朱色へ染め上げた。


「せ、先輩……っ!」


 初めて遊園地にきたガキみたく、キラキラと輝いた赤い瞳が振り向く。

 俺はアイコンタクトを送って、ドラムパフォーマンスを決めてやる。


 カノンはギターの弦に指先を重ねる。

 マイクに向かって、声を張り上げる。


「それじゃあ、一曲目……行きますっ!」


 俺たちの音楽が、始まった。


37


 ライブは終始大盛り上がりの様子だったな。

 一曲、二曲と歌うカノンに合わせてさ、

 体育館に集まった観客たちも急熱に浮かされて、

 怒号にも等しい黄色い声援には皮膚が痺れちまうほどだったよ。


「「もう一曲! もう一曲!!」」


 それはもう、アンコールに応えた後だってのに、

 更にその先を求める熱狂で溢れちまうぐらいでさ。

 カノンはオロオロと首を振って、終いには後ろの俺に助けの視線を求めてきたね。


 でも、そんなこともあろうかと、俺たちは夏休みから、ちょっとした準備をしていたんだ。


「やるか」

「はい」


 俺はドラム席から立ち上がって、カノンにバチを握らせる。

 そして代わりに、彼女からギターを受け取る。


 観客たちのざわめく声が、よく聞こえたな。

 

「あー、あー」


 と、俺がマイクに向かってテストをした頃には、誰もが石像みたいに俺を見つめていてさ。

 姫野もカノンも、すごいよな。

 こんな、脚の竦みそうな場所で堂々と歌えたなんてよ。


「みんな、覚えているか」


 俺の声だけが、体育館を染み渡る。


「一年前、俺たちを夢中にしてくれた歌姫を」


 ところどころから、「覚えてるよー!」なんて声が聞こえた。

 舞台に立ったときの静寂ほど恐ろしいものはないけれど、

 その小さくも確かな声援のひとつひとつは、夜空の星々みたいに俺に話す勇気を与えてくれた。


「そんなアイツが遺していった曲が、一つあるんだ」


「今日の締め括りは、歌姫の曲にしても良いだろうか」


 いや、違うか。


 俺は初めから、姫野の曲を歌うためにこの舞台に上がった。

 それだけが目的だった。


 だから。


「どうか頼むッ! 俺に姫野の曲を歌わせてくれ!」


 叫ぶは祈り。

 返る静寂。

 そして。



 大歓声が──腹の底にまで響き渡る。



「……ッ!」


 なんだよ、これ。

 鳥肌ヤバいだろ。頭までクラクラしてきちまった。

 ドラムの軽快なイントロが合図となる。

 片目を瞑ったカノンを見て、思わず口の端から笑みが零れちまう。


 時間だ。


 俺は初めの音に指先を合わせる。

 その指遣いは何かに導かれているみたいで、

 目を閉ざせば、背中に姫野の気配を感じる気さえする。

 

 これが俺の答えだ。


 来年も、再来年も、おまえと音楽をするってことなんだ。


 俺はギターをぎゃらりと鳴らし、マイクに向かって現在を生きる魂を発露した。


「……行くぜッ! アンコール曲──」


21


 その夏の暮れは、彼女の話題で持ちきりだったな。

 

 ギターもドラムも出来ちまう異国の美女は、

 舞台から降りるや否や、学年問わず囲まれちまったんだ。

 ちょっと困ったように視線を送ってくる様子が、なんとも後輩らしくて可愛いかったな。


 あの様子ならもう、教室のあぶれ者にされることもないだろう。


 なーんて、俺は部室の窓際に頬杖を突きながら、外の様子を眺めてさ、

 去年の姫野もこんな風に俺を見てたんだって思うと、ちょっとばかし恥ずかしくて。


「やっほ!」


 気が付くと、懐かしい黒髪が部室を揺れていた。


 それは、何十年と探し求めていたものに、不意と巡り合ったような感覚だった。


「……姫野?」


 俺は衝動的に立ち上がったな。


 だって、その肌の病的な青白さも、

 透き通るような佇まいも、

 何度目を擦ったって、目の前に居たのは間違いなく彼女だったからだ。


「キミのライブ、なかなか悪くなかったよ~」


 ま、私ほどじゃないけどね。

 なんて、姫野は動けなくなった俺の肩をバシバシと叩きながら、おどけたように笑っていた。


 どうしてここにいるんだとか、

 おまえは完璧なゼロに至ったはずじゃとか。


 そんな些細な疑問は、

 朗らかに揺れる彼女を見ていたら、もはやどうだっていいことだと思えたよ。


「……いまさら化けて出てきて、なんの用だよ」

「今日はね、私のミサンガ、チョキチョキしに来たんだよ」


 右手でカニさんポーズを取る姿がどうしようもなく愛おしい。

 言われるがままに、俺はミサンガを付けた左腕を差し出してみる。

 すると姫野は細い指先で紐を挟むんだ。


「はい、チョッきーん!」


 当然、切れるわけがないんだけどな。

 そもそも、ミサンガって自分で切っちゃダメなもんだし。 


 でも、ずっと、こういうくだらないことを、俺は姫野と何度だってしたかったんだ。


「なぁ……姫野」

「なにかな?」

「おまえのミサンガ、結局どんな願いごとを込めてたんだ?」

「ん~」


 分かりやすく下あごに人差し指を添える姫野は、いつも通りにあざとい奴だった。

 それから、彼女は両腕でぺけ印なんか作っちゃってさ。


「ないしょっ!」


 まぁ、そんなところだろうと思ったよ。


「でもね、それは今のキミだよ」


 そう言った姫野の笑顔に、近頃よく見た寂しさは少しもなかったから、

 これで良かったんだろうなって、俺は思えたよ。


「そろそろ時間だね」


 なんだか、視界がやけにぐらぐらとしている。

 最近は薬を飲むこともやめたはずなのにな。

 遠ざかる部室の中で、姫野は俺に手を振っている。


「なるべく遠回りして来るんだよ~」


 なーんて、冗談っぽく笑う姫野はさ、

 最後に、譜面台の上に置かれた遺作へそっと触れて。


「……ありがとう、秋斗くん」


 今度の姫野が遺す言葉が、「ごめん」じゃなかったことに、俺はなによりも満たされたな。


38


 それは、波打ち際で優しく揺られているような気分だった。

 鼓膜は次第に音というものを拾い始めて、俺は、耳元でしきりに呼ばれていることに気づいたんだよ。


「先輩……先輩ってば!!」

 

 呆れたように俺を見下ろす白髪の少女は、むぅと、頬を膨らませていた。


「こんなところで寝てたら風邪ひきますよ!」


 おかしいなぁ。

 俺はさっきまで、外でチヤホヤされてるカノンを見ていたはずなんだが。


「まだ、おねむの時間には早いんじゃないですか?」


 彼女は揶揄うように言って、グラウンドの模擬店街を指差す。

 そのうえ堂々とお腹の音まで鳴らしちまってさ、俺を手招きするんだよ。


「勝利の打ち上げ第一弾ってやつですよ!」


 遅れた方が奢りですからね、

 なんて舌を出しながら、カノンは弾む足取りで廊下へ消えていく。


 寝起きの相手にそれはちと卑怯だろう。

 振り返ることはない。

 俺は苦笑を零しながら立ち上がり、茜の落ちるグラウンドへと歩き出す。



 水色のミサンガが、するりと、床に解け落ちた。




~おしまい~

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― 新着の感想 ―
すごく、すごく空虚で、満たされていた物語だと感じました。 読了した今、心にぽっかりと穴が空いたみたいに哀しいのですが、なにかあたたかいものが満ちていて、ふと触れた優しさに笑ってしまうような。衝撃的な映…
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