20.凍てつく想い
ヴィクター視点です。
月が沈みかけた頃、ヴィクターは書斎の窓辺に立っていた。
パールが去った後も、彼女の気配が空気の中に残されている。
紫の力が、その存在を鋭く感じ取っていた。
古文書が、机の上で無造作に開かれたままだ。
先ほどまで読んでいたはずの文字が、今は目に入ってこない。
代わりに、パールの後ろ姿が脳裏に浮かぶ。
本棚に手を伸ばした仕草。
月明かりに照らされた横顔。
震える声。
ヴィクターは目を閉じる。
運命の檻からの解放は、彼の中の氷をも溶かし始めていた。
今まで凍らせていた感情が、少しずつ形を変えようとしている。
妹であり、家族。
その二文字が、胸の奥で重く沈む。
暖炉に残った灰を見つめる。
パールが立っていた場所。
そこに近づいた自分の行動が、今更ながら心を乱す。
紫の力が、以前より強く反応している。
それは彼女への想いが、もう否定できないものになっているという証。
守護者としての力さえ、その事実を突きつけてくる。
執務机に向かい、積み重なった書類に目を通そうとする。
だが文字は踊り、意味を成さない。
銀髪が顔にかかり、それを払いのける仕草も荒々しい。
従者の足音が廊下を過ぎていく。
夜が更けていくのを、時計の音が告げる。
静寂の中で、感情の氷が確実に融けていく音が聞こえる気がした。
いつからだろう。
養妹として見守るべき存在が、一人の女性として目に映るようになったのは。
その変化に気付いた時には、もう後戻りはできなかった。
窓の外では、アメジストの花々が夜風に揺れている。
その光景さえ、今は胸を締め付ける。
花々は彼女の存在を象徴し、その揺らめきは心の動揺そのものを表しているかのようだ。
ヴィクターは立ち上がり、本棚に向かう。
先ほど彼女が触れていた背表紙を、同じように指でなぞる。
その仕草に、自分でも気付かないため息が漏れる。
紫の力は、調和をもたらすもの。
だが今は、むしろ心を掻き乱す存在となっている。
束縛から解放された力は、感情までも解き放とうとしているのか。
書斎の扉を開け、廊下に出る。
月明かりは薄れ、夜明け前の闇が深まっていた。
彼女の部屋の方向を見上げる。
今頃は眠りについているだろうか。
それとも、自分と同じように目覚めているのだろうか。
記憶が、転生した彼女との出会いまで遡る。
困惑の色を隠せない父に、ヴィクターは冷静に応えた。
養女として迎え入れることに、何の異論もないと。
その時の判断は、守護者としての責務に基づくものだった。
だが今、その決断が自分自身を縛り付けている。
兄として接するべき相手に、別の感情を抱くことは許されるのか。
アメジストの守護者として、その立場を見失うことは赦されるのか。
階段を上り、自室への廊下を歩く。
足音を立てないよう気を付けながら、彼女の部屋の前を通り過ぎる。
扉の向こうから、微かな気配を感じ取る。
やはり、まだ目覚めているのだろうか。
立ち止まりかける足を、意志の力で前に進める。
今は、この想いを封じ込めておくべきだ。
だが同時に、その氷もいつかは溶けてしまうことを、心のどこかで理解していた。
***
自室に戻り、ヴィクターは窓を開ける。
冷たい夜気が流れ込み、熱を帯びた頭を冷やしていく。
遠くの空が、僅かに明るさを帯び始めていた。
机の上には、今朝届いた報告書が置かれている。
王太子からの書簡。
アレクサンダーもまた、世界の変化に戸惑いを感じているのだろう。
報告書に目を通す。
各地の守護者たちの様子が記されている。
レインの回復。
カイトの決意。
ルシアンの発見。
そして、パールの存在が与えた影響。
ペンを取り、返信を書こうとする。
だが、文字を綴る手が止まる。
今の自分に、冷静な判断など下せるはずもない。
紫の力が、また胸の内で脈打つ。
その鼓動は、彼女への想いと同じリズムを刻んでいる。
もう、この事実から目を逸らすことはできない。
アメジストの守護者。
ムーンライト家の当主。
そして、彼女の兄。
その全ての立場が、今の自分を縛り付けている。
だがそれは同時に、新しい可能性をも示唆していた。
運命の檻から解放された今。
本当の意味での選択が、彼にも許されているのではないか。
夜明けの光が、少しずつ部屋を明るく染めていく。
ヴィクターは深いため息をつく。
この想いを、どこまで封じ込められるのか。
それとも、もう既に手遅れなのか。
執務机の引き出しを開ける。
そこには、彼女が聖女として初めて儀式を行った時の記録が収められていた。
まだ不慣れな様子で、それでも懸命に役目を果たそうとする姿。
その記憶が、胸を締め付ける。
紫の力は、本来、感情を抑制するもの。
調和をもたらし、混乱を鎮める。
だが今は逆に、封印していた想いを解き放とうとしている。
窓の外で、鳥の最初の鳴き声が響く。
夜が明けていく。
新しい一日の始まりは、新しい試練の始まりでもある。
今日も彼女と顔を合わせる。
朝食の席で。
執務の合間に。
そして、宝石の力を確認する時に。
その度に、この想いは強くなっていくのだろうか。
ヴィクターは立ち上がり、着替えを始める。
従者が来る前に、心を整えておかねばならない。
表情を取り繕い、感情を押し殺す。
それが、今の自分にできる精一杯の自制だった。
だが、その氷の仮面にも、確実にヒビが入り始めている。
彼女の存在が、その温もりで、少しずつ心を溶かしていく。
いつか、この想いが溢れ出してしまう時が来るのかもしれない。
その時は、きっと――。
考えを断ち切るように、ヴィクターは部屋を出る。
廊下には既に朝の気配が満ちていた。




