2.白銀の館
早朝、パールは屋敷の前で馬車を待っていた。
昨夜はほとんど眠れなかった。
(ヴィクターと同じ屋敷で暮らすことになるなんて)
ノーマルモードでは、彼のルートは最も難しいと言われていた。
心を開くまでの過程が長く、一つでも選択を間違えると即バッドエンド。
「お待たせいたしました」
現れた馬車は、想像以上に豪華だった。
車体は漆黒で、車輪や装飾には銀の意匠が施されている。
まるで、ヴィクターの髪色のように。
「では、参りましょう」
執事が扉を開けると、中には意外な人物が。
「おはよう、聖女様」
銀髪が柔らかな光を帯びて。
ヴィクター本人が、パールを待っていた。
***
(え、どうして・・・?)
昨日の冷たい態度からは想像もできない。
パールは一瞬、戸惑いを見せる。
「父上の命令だ」
ヴィクターは窓の外に目を向けたまま告げる。
「聖女を迎えに行くのは、当然の礼儀だと」
その横顔は美しく整っているが、どこか近寄りがたい冷たさを漂わせていた。
(やっぱり、嫌がってるんだ)
パールは静かに席に着く。
選択肢は出てこないが、ここは黙っているのが賢明だろう。
馬車は、石畳を軽やかに進んでいく。
窓の外には、見たことのない風景が広がっていた。
「あれが、ムーンライト家の領地だ」
ヴィクターの声に、パールは顔を上げる。
遠くに見えるのは、白銀の輝きを放ち、氷のように凛と佇む大きな館。
「アメジストの力で守護されている」
淡々と説明が続く。
「聖女といえど、無用な接触は避けていただきたい」
(ストレートな拒絶!)
だが、その時。
馬車が大きく揺れた。
「っ!」
バランスを崩したパールは、思わずヴィクターに寄りかかってしまう。
一瞬、甘い香りと、冷たさの中にある温もりを感じた。
***
「申し訳ありません!」
慌てて体を起こそうとするパール。
だが、その動きに合わせて馬車が再び揺れる。
「動くな」
冷たい声とは裏腹に、ヴィクターの腕がパールの肩を支えていて、先ほどの拒絶からは想像できないほど自然で優しかった。
(え・・・?)
「道が悪い」
彼は相変わらず窓の外を見つめたまま。
「着くまでは、そのままでいい」
告げられた言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかった。
・・・このまま、もたれていていいの?
(これって、フラグ?)
ノーマルモードなら間違いなく好感度が上がるシーン。
でも、これはハードモード。
選択を間違えれば、即バッドエンド。
「ですが・・・」
「黙っていろ」
その声には妙な焦りが混じっていた気がする。
そして、パールには見えないが、ヴィクターの耳が、わずかに赤くなっていた。
***
白銀の館は、近づくほどに圧倒的な存在感を放っていた。
純白の壁に、銀の装飾が施されている。
まるで、月光を閉じ込めたかのよう。
「到着しました」
執事が馬車の扉を開ける。
その瞬間、パールは思わず息を呑んだ。
館の正面には、巨大な噴水が。
水しぶきが虹色に輝き、その周りには紫色の花々が咲き誇っている。
「アメジストの庭だ」
ヴィクターが静かに告げる。
「代々、我が家に伝わる宝石の力で育てられた花の庭園だ」
(これが、ノーマルモードでは見られなかった景色)
「案内しよう」
意外な言葉に、パールは驚いて振り返る。
ヴィクターは相変わらず冷たい表情だったが、どこか違和感があった。
(さっきまでの拒絶は?)
「遅くなるぞ」
促されるまま、パールは館の中へと足を踏み入れる。
そこには、想像を超える光景が広がっていた。
***
白銀の階段が優雅に伸び、天井からは巨大なシャンデリアが光を放つ。
壁には紫を基調とした壁画が描かれ、所々に配された宝石が輝きを放っている。
「ここが、私の新しい・・・」
「貴女の居室はこちらです」
ヴィクターは階段を上がりながら、さらに説明を続ける。
「父上の命により、東棟を用意させた」
(東棟?)
ノーマルモードの知識が頭をよぎる。
東棟は、ムーンライト家の中でも特別な場所。
歴代当主の家族しか使用を許されない。
「ですが、私なんかが」
「聖女だからだ」
ヴィクターは立ち止まり、真っ直ぐにパールを見つめた。
「それ以外の理由など、ない」
その紫の瞳には、何かが渦巻いているような気がした。
拒絶?警戒?それとも――。
「ヴィクター様」
執事の声で、ヴィクターは我に返ったように視線を外す。
「午後からの予定がございます」
「ああ」
***
「では、パールの案内を任せる」
執事がヴィクターに深々と一礼すると、彼は無言で立ち去っていった。
その背中には、どこか慌ただしさが感じられる。
「パール様、こちらが貴女のお部屋です」
扉を開けると、そこには息を呑むような美しい空間が広がっていた。
薄紫のカーテンが風に揺れ、白銀の家具が優雅に並ぶ。
ベッドには純白のレースが施され、まるで雲の上にいるよう。
「これは・・・」
「ヴィクター様が、直々に選ばれました」
(え?)
「昨夜遅くまで、何度も確認されていたとか」
執事の声には、かすかな笑みが混じっている。
「普段はあれほど無関心なお方なのに」
(ヴィクターが?)
パールは混乱していた。
昨日の冷たい態度。
今朝の馬車での優しさ。
そして、この部屋。
(これって、どういう?)
「着替えもご用意しております」
執事が大きなクローゼットを開く。
「夕食までに、お好きなものをお選びください」
中には、見たこともないような美しいドレスの数々。
そのどれもが、紫と銀を基調としている。
***
「まさか、これも・・・?」
「はい、ヴィクター様が」
執事は穏やかに微笑む。
「お気に召しませんでしたら、別のものをご用意いたしますのでお申し付けくださいませ」
「いえ、とても素敵です!」
パールは思わず、一番シンプルなドレスに手を伸ばしていた。
銀の刺繍が施された、淡い紫のドレス。
(これを、ヴィクターが選んだって?)
昨日の冷たい態度からは想像もできない。
でも、確かに馬車の中では。
「パール様?」
「あ、はい。すみません」
慌てて我に返る。
今は、目の前の状況に集中しないと。
「夕食は19時からです」
執事が告げる。
「ヴィクター様と、お二人でと伺っております」
(えええ!?)
「お父上の公爵様は公務で、しばらくお戻りになりません」
さらに続ける。
「ヴィクター様が、パール様の教育を担当するようにと」
(まさか、二人きり!?)
ノーマルモードでさえ、ヴィクターとの二人きりの食事は物語後半。
それが、ハードモードで、初日から。
(これは完全に、死亡フラグでは!?)
***
窓辺に立ち、パールは庭園を見下ろしていた。
アメジストの花々が、夕陽に照らされて神秘的な輝きを放っている。
(とりあえず、初日を乗り切らないと)
記憶を整理する。
ヴィクターは最初こそ拒絶的だったが、意外な優しさも見せている。
でも、それこそが罠かもしれない。
「ハードモードだもの」
小さくつぶやく。
「油断したら、即死エンド」
時計が、18時を指す。
あと一時間。
選んだドレスに袖を通しながら、パールは考える。
ノーマルモードのヴィクターは、徐々に心を開いていくキャラクター。
(でも、このハードモードでは違う?)
「全然、読めない・・・」
その時、窓の外で人影が。
中庭を歩くヴィクターの姿が見えた。
銀髪が夕陽に輝き、その横顔は物語の中で見た時よりも美しい。
ふと、彼が上を見上げる。
視線が合った瞬間、パールは慌てて身を隠した。
心臓が、大きく跳ねる。
(まずい)
ゲームの中で何度も見てきたはずなのに。
実際に会うと、こんなにも胸が騒ぐなんて。
「これは、想定外・・・」
鏡の前で深く息を吸う。
夕食まで、あと45分。
「バッドエンドは回避しないと」
パールは決意を固める。
「でも、あの表情の意味も、知りたい」
窓の外では、アメジストの花が、静かに揺れていた。
***