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私を呼んで

作者: 峯日

幼くして皇帝になったサイラスを、ユーリアは婚約者としてずっと支えてきた。けれど成長したサイラスは、政治に疲れ、側妃エルナに強く惹かれていってしまう。

それは、皇后となったユーリアが、サイラスの心よりも皇后としての役割を優先していたからだった。

ユーリアは、サイラスの心を取り戻し、衰退していく帝国を崩壊から救うことができるのか。


これは、実在した帝国最後の皇后のお話。

皇后ユーリア:その一


「なぜ」

陛下の声は震えていた。

「こんなに酷いことができるんだ。」

その声に、私は弾かれるようにして陛下を見た。


見れば、陛下の目が真っ向から私を見据えている。

ひどいこと?

私はこんなことはしていない。でも、その鋭い、それ以上に悲しい眼差しに返す言葉がすぐに見つからない。何をどう言えば、彼の心に届くだろう。


視線を落とせば、目の前では彼の側妃が泣いている。

背中を鞭で打たれ、血まみれにして。

心優しい彼はそんな姿を痛ましげに見て、そっと彼女の肩に手を添えている。


陛下がお呼びです、そう告げられて急いできた私は、そんな目の前の光景に思わず立ちすくんでいた。

血まみれの背中。

寄り添う二人。

彼が側妃の肩に置く手から目が離せない。

私はもう長いこと、彼の手に触れられていない。

彼を、感じられていない。


心が沈みそうになったとき、彼の震える声が私を呼んだのだ。その声で我に返って、私は弾かれるように背筋を伸ばした。

陛下の声で、大臣や護衛、侍従たちも一斉に私の方を見る。


ここは、皇帝が執務を行う宮殿だ。

側妃は、私の与えた罰が重すぎると泣いて、あえてこの場所に駆け込んだのだ。陛下にすがりつき、私を呼びつけて騒ぎを大きくするために。

わかっている。

今ここで、私は悪役だ。

そうするためにこんなことをするなんて。


この側妃は、西の帝国の文物を皇室費で買い集めては若い貴族に送りつけ、保守派の貴族からいつも批判されていた。

この帝国で西の帝国の文物を使うことは、固く禁じられている。西の帝国は異質で、低俗で、思想が危険だとみなされて、そういう決まりになっている。

だというのに、私が彼女に目立たないで、保守派を煽らないでと伝えても、彼女は全然変わらない。


今日も西の帝国の、肌を露出するドレスを着ていたから、だから私は、後宮を預かる皇后として、早く着替えて、決まりに従って罰を受けるようにと、指示をした。

それを側妃は、私の命令だと偽って、あえて素肌をさらして鞭を受けたのだ。陛下の同情を買うために。私が何とかやりくりして買ってあげたドレス、それを惜しげも無くぼろぼろにして。費用のやりくりは私に全部押し付けて。陛下が必ず守ってくれると、知っていて。


私に保守派の大臣たちの視線が突き刺さる。

私は息を整えた。

私だけは毅然としていなければ。その思いだけで、陛下を真っ直ぐに見て、声を出す。

「その者が決まりを破ったので、相応の罰を与えました。」

「貴女は彼女の家族だろう……?」

陛下の目が切なく揺れた。絞り出された声は耳を刺すようだ。

あぁ。

胸の奥がきりりと痛む。

貴方に、そんな顔はしてほしくない。


陛下は、保守派と激しく争っている。

衰退しつつある帝国を立て直す方策をめぐって議会は荒れている。

保守派の後ろにはさらに皇太后がいる。先帝の生母で、陛下を皇帝に指名した帝国の真の権力者。その皇太后が次の皇帝候補を探すくらいに陛下との関係は悪化してしまっている。


私の役割は、その皇太后を何とか抑えること。皇太后は私の伯母だから。この役割は私にしかできない。

だから私は、陛下と保守派の亀裂が広がらないように心を砕く。たとえ、それで陛下から冷たくされようと、私しか陛下を支えることはできないから。


私は痛む胸に蓋をして、陛下の問いに応えて言った。

「陛下。私たちは確かに家族です。それも、皇族という名の家族なのですわ。私たちが模範を示さなければ。皇族が決まり事を守らなかったときは、」

「決まり事!」

陛下が叫ぶ。

「決まり事、決まり事、貴女はそればかりだ!何が大切か貴女はわかっていないんだ!」

勢い押されて思わず息を飲む。


わかっていないのは陛下です。

その言葉を、私は辛うじて飲み込んだ。

陛下にはもう余裕がない。保守派との確執で疲れ切っている。私は誰よりもよく、知っている。


私は、陛下が四歳で即位してから結婚するまでの十三年間、皇后となるべく育てられてきた。厳しい躾もうんざりするようなしきたりの数々も、陛下の隣に立つために私はずっと、じっと耐えてきた。……そう、私は陛下のことがずっと好きだった。

それなのに。

視界の中で、陛下が側妃の肩を抱いている。陛下はもうこの側妃のことしか見ていない。

出会った頃の、私を「ねえさま、ねえさま」と呼んで、どこへでも付いてきたあの子はもういない。

あぁ。

蓋をしたはずの胸が痛い。


私がつい軽く胸に手を当てたとき。

側妃がちらりと私を見た。

口だけを動かして何かを告げてきた。見ていて?そう言った、かと思った次の瞬間、彼女の体が傾いて、陛下が彼女の肩を強く抱き留めた。

「エルナっ」

陛下が彼女の名を呼ぶ。

陛下の目が彼女だけを見る。

ざわり、と心が騒めいた。

私だって。

私だって名前を呼んでほしい。

つい手が震えてしまって、慌てて心の蓋を押さえつける。

だめ。

感情的になってはいけない。

私は皇后なのだから。


そのとき。

「貴女は何をしていたんだ?!」

陛下の怒鳴り声がした。

私は息を飲み込んだ。陛下の険しい双眸と目が合った。胸がどくりと鼓動した。

今、怒鳴られたの?

私が?

陛下から?

出会って初めて、怒鳴られた?

その衝撃で胸が詰まってしまって、声が、出ない。

どくりと、私を睨む眼差しがあまりに鋭くて、どくりと胸の鼓動が収まらない。私は震える手で胸を押さえた。何か、何か言わないと。

「……ですから、皇后として、決まりを破った側妃に罰を、」

「私の皇后なら!」

陛下が私を遮る。陛下の目は怒りでいっぱいだ。

「なぜ、エルナを守ってくれなかったんだ。」

心に、冷たい風が吹き込んだ。


貴方がそれを言うの?

そう思った。

言ってしまいたかった。

私が守っているのは、貴方だわ。

毎日、貴方のことだけ考えている。

それなのに貴方は、私を呼ぶことも、手を触れることもしてくれない。

私は貴方の皇后なのに。


蓋をしたはずの心が叫んでいる。心が、陛下を求めて泣いている。陛下は、私が側妃をいじめている、そう信じているのに。ここに、私の味方はいないのに。


私は、深く、深く息を吸った。

皇后らしく毅然としていなければ。

ただそれだけを思い浮かべて、恭しく陛下に礼をした。

「陛下。」

視界の隅で、陛下がぴくりと反応した。

あぁ。

声が届いている。

それだけのことで泣きそうになる。

私は、恭しく陛下に頭を垂れ、そして、ここにいる全ての者に聞こえるように喉から深く声を出した。

「ご無礼ながら申し上げます。皇帝という存在は、多くの決まり事によって帝国を支配するのです。ですから私は決まり事に従います。私はこの国の皇后なのですから。」

努めて穏やかに言い切り、私は顔を上げて陛下を見た。

「……っ。」

その瞬間。

胸が、ぎゅっと縮まった。

陛下は、今にも泣きそうだった。

くちびるを震わせ、目元まで潤ませて、それでも何かに耐えていた。その視線が真っ直ぐ私を向いていて、ねえさまと呼ばれたような錯覚に、私は思わず混乱してしまう。

なぜ?

どうして?

泣きたいのは私の方なのに。

私が貴方のためにすることは、全然、ひとつも報われないのに。

私のことが嫌になった?そんなに側妃が大切?その帝位を危うくするほどに?だったら帝位なんて捨ててほしい。

私はただ、貴方の側にいたいのに。





***

側妃エルナ


笑わないでね?

一目で好きになってしまったの。

だって、とても素敵だったのよ?

たった一人、すっと背筋を伸ばして、じっと前を見据えて、その瞳をきらきらと輝かせていて。

あぁ、何を見ているんだろう。

そう思ったの。

知りたい。

私も見たい。

サイラスさまのことを知って、一緒に同じものを見たいって。


私には姉が一人、弟が一人いる。

息子でも無ければ長女でもない真ん中の私は、居ても居なくてもいい存在。そんな私を可愛がってくれたのがおばあ様。

だから聞いたの。

「おばあ様。私ね、今日とても素敵な方を見つけたの。だけど、その方の隣には私よりずっと大人びたお姉さまがいて、あの方はちらちらとそのお姉さまのことを見ていたの。きっとお姉さまのことが好きなのね。私、どうしたらいい?」

「あらあら。」

おばあ様はつぶらな瞳をいっそう丸くしたわ。

「エルナももうそんな年頃なのねぇ。……そうね、同じことをしていてはいつまで勝てないわね。エルナが進むのと同じ分だけお姉さまも先に進むもの。だから、違うことをするの。エルナだけの、エルナらしいことを探して、身に付けて、そのお姉さまとは違う素敵な女性にお成りなさい。」


お姉さまと違う女性、ね。

なるほどね。

「お姉さま」に似た見本はすぐ隣にいた。私の本当のお姉さま。そのお姉さまのすることを、私は止めることにした。そして、いろいろ探したの。お姉さまがしないだろうことを。


私が一目惚れをしたすぐ後、サイラスさまは「お姉さま」と結婚した。

チャンスが来た。そう思ったわ。皇后の次は側妃選び。私は本当に真剣に考えた。どうやって側妃に選んでもらおうかって。考えて、考えて、私は一緒に行く本当のお姉さまと同じ格好をしたの。とにかく目立って、見つけてもらって、声を掛けてもらおう、そう考えた。

そして、私たちは側妃に選ばれた。

やっぱり、目立っていたのが良かったんだわ。


サイラスさまの近くに行って、よくわかった。

サイラスさまにとって「お姉さま」はただの好きな人じゃない、本当に特別な人、なんだって。

だけど、私は全然平気だった。

私は皇后になりたいわけじゃない。取って代わろうだなんて非現実的なことは考えない。皇后になった「お姉さま」はサイラスさまとは従姉弟で、幼馴染で、あの皇太后の姪だもの。

私が望むのは彼の心だけ。

それなら方法はたくさんある。

「お姉さま」とは違う方法を取ればいいのだから。

私に気づいてもらえさえすれば、私は彼と同じものを見られるわ。


そして、その方法はすぐに見つかった。

サイラスさまは西の帝国にあこがれを持っている。

口に出さなくたってよくわかる。だから私は彼の目を引くために西のドレスを着て、西の物を使うことにした。

それだけで、私はサイラスさまの隣に立った。

そう。

決まり事にもしがらみにも縛られない、彼のことも縛らない。彼の隣に立つ方法は、たったそれだけのことだった。



今、私には、サイラスさまと同じものが見えている。

彼の下には、この国を変えたいと思う人たちが集まっている。みんな、私が一目惚れをしたあの日のサイラスさまのように目を輝かせて、これからのことを見すえている。

あぁ。

サイラスさまがいればこの国は必ず変われる。

私はそのサイラスさまと一緒に、新しい国の姿を見ているの。

一緒に生きるってそういうことでしょう?


あぁ、「お姉さま」。

ありがとう、変わらずにいてくれて。

あなたはいつでも凛と気高い皇后で、そして、いつもサイラスさまが向ける視線に気付いていなかった。

あなたは知らない。

私がサイラスさまに一目惚れしたとき、一番惹かれたのは、あなたを見るあの瞳だったのよ。私もあんなふうに、愛おしそうに見つめてほしい、そう思ったの。


保守派の大臣?

皇太后が送った侍従たち?

これまでこの国を縛ってきたたくさんの決まり事?

そんなことなんかより、あなたはもっと大切なことに気付くべきだった。

ありがとう。

変わらず、鈍いままでいてくれて。

私は皇后なんかにならなくたっていい、サイラスさまのお側にいられたら。

知っていた?

私、もう大人になったの。

彼のために男の子を産んで、その子を次の皇帝にすることだってできるのよ。


あぁ、私、今、とっても幸せだわ。

ありがとう、おばあ様。

とってもとっても大好きよ。




***

皇帝サイラス:その一


初めてユーリアに会った時のことを、私はよく覚えていない。

私はそれだけ幼かったから。


ただ、ユーリアがいるとひどく安心したことだけはなぜだか強く覚えていて、いまだに気が付けば自分の手が彼女の袖をつかもうとしていることがある。

おかしいだろう?

もう彼女を「ねえさま」と呼ぶ歳でもないのに、一体何をしているんだろう。


先帝が病死した時、私は四歳だった。

先帝は私にとって伯父に当たり、私は拐われるようにして皇宮に連れて来られ、即位して、そして自分の名前を失った。

へいか。

それが私の新しい名前だった。

私の父と母は一夜で家臣となり、私が手を伸ばしても届かない遠くから、私を「へいか」と呼ぶだけの他人になってしまったのだ。もう一生、私を抱くことも触れることすることのない他人。

そんな中、ユーリアだけが特別だった。

唯一、私に触れることができ、私から触れてもいい存在。

「ねえさま。」

そう呼べば彼女は微笑んで私の手を握ってくれた。彼女だけが私を安心させてくれたんだ。


ご令嬢の手を握ってはいけません。

そう言われたのは七歳になったとき。今でもよく覚えている。「決まり事ですから」。そう無表情に言ったあの侍従の顔を見るのは、今でも不愉快だ。


ユーリアの袖を握るのを止めたのは彼女の身長を超えたとき。それは、自分でそう決めた。それでも、その後もつい、ばれないように彼女の袖に触れてしまうことがあった。あれは自分しか知らないことだと信じている。


「姉さま」と呼ぶのを止めたのは、体が男になったとき。

これで陛下も父親になれます、母親になるのはユーリア様ですと告げられて、世の中の父親と母親とが営むことを学んでしまっては、もう、彼女を姉のように思うことは無理だった。


ユーリアと早く結婚したかった。

側にいて欲しかった。

今度は私から手を握りたいとも思っていた。

私の手はきっとユーリアを包むくらいに大きくなっている。もう幼い私ではないのだから。ユーリアと呼ぼう、ユーリアにも名を呼んでもらおう、そう思っていた。私は、彼女に名を呼ばれ、「へいか」ではなく私のことを見て欲しかった。


私が十六歳になったとき。

私の結婚が議会で取り上げられた。私は舞い上がるほど嬉しかった。けれど次の瞬間、皇太后の冷たい声がそれを否定した。

「陛下にはまだ早いでしょう。」

「なぜ、ですか。」

思わず声が出てしまい、私は自分でも驚いた。

だめだ。

反抗したと思われる。

私は慌てて床に膝を付いた。

段の上の椅子に座る皇太后が目を細めた。それだけで議場の空気が凍り付く。私はさらに頭も下げた。


私を皇帝に指名した真の権力者。私の摂政として国政を牛耳る人。そして私のすべてを管理し、抑圧しようとしてくる人。けれど、私が結婚すれば、不要になってしまう人。

そうだ。私は、結婚すれば成人したとみなされて、摂政が不要となり、皇太后は後宮に戻ることになる。


『なぜですか。』

あれは、そんな重要なことを不用意に口走ってしまった私の失態だった。

つい、言ってしまったんだ。

言わずに、いられなかったんだ。



思えば、あの頃からだったように思う。

「決まり事ですから。」

ユーリアが事あるごとにそう言うようになったのは。


皇太后は私を見張るために自分の姪であるユーリアを皇后に選んだ。そんなことは嫌でも知っている。それでも、ユーリアを選んでくれたことだけはあの人に感謝している。


十七歳になって、やっとユーリアと式を挙げられた。

私がそれをどれだけ待ち望んでいたか、彼女はきっと知らないだろう。


皇帝との初夜には監視が付く。そういう決まりになっている。

本当の意味で二人きりにはなれない空間で、それでも私は夢見心地で彼女の手を引いた。

やっぱりな。

つい、笑んでいた。

私の手はユーリアより大きくなっていた。三歳年上の彼女の手は、自分が大きくなってみればずいぶん華奢だった。私はその手を可愛いと思った。だからその手に口付けた。そんなことで彼女は震え、顔が赤くなって、私はまた、可愛いと思った。

かつて私の手を包んだ彼女の手を大きくなった自分の手で包み込み、そのまま引き寄せて彼女を自分に近づけて、そうして自分の額を彼女の額に押し付けながら私は一言ささやいた。

「ユーリア。」

息の触れ合う近さで、ユーリアがぴくりと反応した。

胸が震えた。

出会ってから十年以上経って初めてユーリアの名を呼んだ。その事実に震え立つような感動を覚えて、自分の頬が熱くなったのをあの空間で一番感じていたのは私だっただろう。

「呼んで。」

私は祈るような、どこか浮きあがるような気持ちでささやいた。私は待っていた。彼女のくちびるが私の名を呼んでくれる日を。私の名を呼んで、私を私として見てくれる日を。

ユーリアは知らない。

私の中でユーリアの存在がどれほど大きかったか、そしてユーリアの返した言葉が、どれほど私を深く刺したかを。

「ねぇ、ユーリア。私の名前も呼んでみて。」

そう繰り返した私に、彼女はゆっくりと瞬きをして、それから小さな声で言ったのだ。

「お許しください、陛下。それはできない決まりになっているのです。」


その後のことを、私は今も思い出せていない。

監視役の記録によれば、あの夜、私たちは本当の意味で夫婦になったらしい。私の記憶と違っていても、帝国にとって、また、皇帝の成婚の儀にとって重要なことは、皇帝と皇后が本当の意味で夫婦になり、父親と母親になれることが証明され、それが記録として残るということだ。

そこに私の心は必要ない。


ユーリア。

貴女は知らない。

貴女の口から「決まり事」と聞くたびに、私がどれだけ貴女に否定された気持ちになったのか。父も母も無くした私にとって、貴女と側妃たちは私だけの大切な家族で、中でも貴女は特別だったんだ。

貴女には、私自身を見てほしかった。




***

皇后ユーリア:その二


「あの子を皇帝に選ばなければ良かったわ。」

春の日の午後、おだやかな陽の光が差し込む茶会の席。

私と皇太后であるおば様しかいないその席で、不意におば様がそう言った。


次はどのお茶にしましょうか。そういう何気ない会話に急に出てきたその言葉に、私は思わず固まった。

ここまではっきりと言われるのは初めてだった。


おば様は、侍従が捧げるいくつかの茶葉の香りを順番に確かめながら、言った。

「あの子は西の物にかぶれ過ぎているわ。あの側妃も側妃ね。まるで教育がなっていない。」

ごく自然なその声に、私だけが反応してしまう。手が震えてしまったのを誤魔化すため、私は手にしていた茶器を机の上に置いて言った。

「陛下は、まだいろいろと学ばれている最中ですから。」

上手く誤魔化せますように、そう、怯えた心を強く抑えつけながら。


今、この国を取り巻く環境は複雑だ。

陛下が即位する前から、外国の使節団や商会が次々に来訪するようになっていた。頻発する小競り合い。彼らは、商業上の決まりから始まって、徐々に、市場や調停、裁判の仕組みにまで西のやり方を要求するようになっていた。


親政を始めた陛下は、その押し寄せる荒波に帝国が飲み込まれてしまわないように、いつも、一番良い方法を探していた。そうして悩んだ末に、ときには、西の要求を受け入れた。その陛下の気苦労が、かえって保守派との抗争を一層激しくさせていた。

だから私は、私だけは陛下を支えていたかった。


おば様が、選んだ茶葉の香りを確かめながら、私を見た。

私は、その目を真っ向から受け止めた。

陛下は、皇帝としての生き方しか知らない。

そして今まさに、全身全霊でその責務を全うしようとしている。そんな彼を、皇帝の座から引きずり落とさないでほしい。


おば様は、しばらく私を見、ふぅと息を吐くと、また茶葉に目を戻してから言った。

「……ユーリア。あの子の手綱をよく握っておきなさい。」

その会話はそれが最後だった。


おば様に知られてはいけない。

私が抑えたいのは、おば様自身なのだということを。

側妃が、西の物を買いたいと言い、陛下がそれを良しとするのなら、私の役割はそれを支えること。ただ、目立たないで、煽らないで、と願うだけ。


私は、小さなころから陛下の隣に立てる日をずっと待っていた。

物心ついたときにはそう定められていて、もう、他の未来は見えなくて、ただ、彼の皇后になる未来しか見えていなかった。

やっと陛下の妻になれた、あの日のことも私ははっきり覚えている。優しく私の手に、髪に触れてきた手の震え。初めて一つになった夜のこと。その後の同じような夜のことだって。彼が、少年から青年へと少しずつ大きくなったこの数年、彼と過ごした一つ一つの日を私はこれからもずっと忘れない。


だから、側妃が鞭で打たれた日も、私が思っていたことはただ一つだけ。

彼の皇后として、私がすべきことをする。

私は彼に相応しい皇后でいる、そのことだけを心に留めて私は言った。

「ご無礼ながら申し上げます。……私は決まり事に従います。私はこの国の皇后なのですから。」

私は、きっと忘れられない。そう言い切った後に見た、陛下の今にも泣きそうな顔を。

「……っ」

その表情、その潤んだ眼差しに、心の蓋がごとりと揺れた。

責めるような、縋るような瞳に胸が強くつかまれた。くちびるが震えそうになった。

私は急いでくちびるを噛みしめた。いけない。こんな、陛下の敵ばかりのところで私まで感情的になってしまっては。

私は、いえ、私たちは、互いに見つめ合ったまま、しばらく動けないままだった。


最初に動いたのは、彼。

彼は、私を見て一度口を閉じると、目を細め、そのままゆっくりと目を閉じて、まるで独り言のように小さく、つぶやくように言った。

「もういい。もう、貴女を私の皇后だとは思わない。」


私は、はっとして護衛や侍従たちを見回した。

聞かれてしまった?大臣たちの侍従に、おば様が潜ませている侍従たちに?……それが、気になって。

この帝国で家族のつながりはとても重要で、まして正妻である皇后の立場はそれを象徴するような存在だ。その皇后を否定するような発言を皇帝がするなんて、皇太后に知られてしまったら、陛下ですら罰は免れない。

けれど、見回した侍従たちは、顔色一つ変えてはいなかった。

そう……よね。

ここでの失敗は生死に関わる。ここは帝国の中枢で、感情を見せないよう、一言も一歩も間違えないように訓練を重ねた者たちが、一つの失敗もせずに無事に帰れるよう、じっと息を殺している場所なのだから。

まるで、生きた彫刻ように揺るがない彼ら。陛下を囲んでいるのはそういう者たちだ。


そのことに、胸が苦しくなって思わず抑えた息を吐いたとき。彼の、次の声がした。

「貴女は、何も言ってくれないんだな。」

小さながら、ひどく、はっきりとしたその声に、私は弾かれたように彼を見た。

彼は、けれどもう私を見てはいなかった。目を逸らし、側妃の肩を抱いて、宮殿の中へと消えて行ってしまう。

私は、ぎゅっと手を握ってただその背を見た。

だって私は何も言えないから。

この場所で。

私に、何を言えと言うの?

ここで口走った言葉は明日の朝には貴族たちの噂になってしまう。


言えるわけがない。

わかっていないのは陛下です、だなんて。

そんな恰好でここに来る側妃の方が恥知らずです。彼女を庇えば陛下と保守派の溝はもっと深くなるのです。……言えない、とてもそんなことは。


私は心の蓋を無理に押さえつけ、彼を見送りながら心の中で彼に向ってささやいた。

貴方の力になりたいの。

私は、貴方の皇后としてできることをしているの。

本当はもっと吐き出したい。

私は貴方の妻でしょう?

もっと私を見て。

会いに来て。

また触れて。

でも、決してそのどの一つの言葉も言い出せない。

だって、私は彼の皇后だから。

何があっても彼の隣にいて彼を支えると決めている。


私は、その場に取り残された。

彼と入れ替わりで宮殿から出てくる大臣たちの好奇の目に晒されて、私は、ただ、最後の彼の表情だけを胸に刻み込んでいた。





***

皇帝サイラス:その二


ユーリアと結婚して、私は、いつでも彼女に会えるようになった。

けれど、心は満たされないままだった。


ユーリアは私の名を呼ばない。

私が彼女に触れていいのは、夜に二人でいるときだけ。皇帝が一人になれることはなく、私たちには常に誰かの目があった。

それでも彼女が側にいればいくらか安心できた。だから、たとえ満たされなくても、彼女以外の妃など要らないと思っていた。

先帝が十九歳で病死したとき、側妃は四人いた。

幼くして妃になった方など知らぬ間に妻というものにさせられて、夫婦とは何かも知らないまま、夫の死後も皇宮を出られず、死ぬまでここで過ごすのだ。そんなのはもう、軟禁だ。それを知りながら、必要としない側妃など私は迎えたくなかった。

けれど、ユーリアが言ったんだ。

「皇帝は側妃を迎える決まりになっています。」

そう、だ。

他の妃がいなければ、ユーリアはこの宮殿で一人になってしまう。

だから、私は考えた。

せめて寂しくない日々を過ごして欲しい。それで、姉妹で選定会に来ていた二人を側妃に選んだ。彼女たちを選んだ理由はただそれだけだ。

側妃を選んだのは私が十八のとき。彼女たちはまだ十六と十三の子どもだった。



その年。

帝国の最後の属国が、西の帝国に占拠された。

あれが、私を大きく変えたのだ。


私の代で、属国をすべて失った。

その事実に、私は驚き、恐れ、慄いた。

私は東の小国を思い出していた。東の小国は西の帝国から多くの文物を取り入れ、国を大きく変えていた。その改革から二十年。気が付けば、小国だと侮っていたその軍事力は我が帝国を凌駕するまでになり、数年前には属国が一つ、奪われていた。


だめだ。

我が帝国も変わらなければ。属国を失った今、次は必ず帝国そのものが狙われる。


私は焦った。

大量の書物を読み、多くの者の意見を聞いた。知れば知るほど帝国の知識も技術も危機的な状況だった。貧困に苦しむ民。硬直した統治体制。新しいもの、優れたものに向けられる恐れと軽蔑。そこに潜む、経験という名で隠された怠慢と自己欺瞞。各地で内乱が相次ぎ、国庫は枯渇寸前だ。一体、どこから手を付ければいい?全てが複雑に絡み過ぎている!

刷新、だ。

西の帝国の物を取り入れて全てを一度に刷新するしかない。

それが、皇帝としての私の決断だった。


それなのに。

保守派は足を引っ張った。

なぜ彼らには帝国の危機がわからない?決まり事だから西の帝国の物は使うなだと?その決まりは誰が何のために決めたんだ?その決まりは何のためにある?私は優れたものを取り入れたいだけだ!この国を立て直すために私は全霊を捧げている!

鉄砲の一つでも比べてみろ。

飛距離も威力も製造費用も、全て西の帝国に負けている。戦艦の試験砲撃?何を馬鹿なことを言っている?!砲弾を製造する費用も賄えなくて武器庫は空のままだろう!


遅々として進まない改革。

相次ぐ反乱。

強まる保守派と皇太后からの抑圧。

私は追い詰められていった。

疲れていた。

息が詰まりそうだった。


そんなとき、あの書物を読んだ。

西の帝国では、一人の皇帝には一人の皇后しかいなく、皇后は自分の権力を持てるという。はは。私の理想が書いてある。

嬉しくなってユーリアにも見せた。けれど、ユーリアは言ったんだ。

「あまり、惑わせられないでくださいね。貴方はこの国の皇帝なのですから。」


あぁ。

ユーリア。

貴女は知らない。

貴女の言葉は、ひどく私を傷つける。

貴女との間に、もう手の届かない距離ができてしまったと、私が思い知ったのはそのときだ。



二十二歳になった時。

遂に東の小国が我が国の領土を狙って、やって来た。

我が国は迎撃し、そして、敗者となった。

膨大な戦費。

屈辱的な終戦条件。

戦費以上に膨大な額の賠償金。

帝国全土が激震した。

荒れる議会を、私は冷めた目で玉座から見下ろした。

全権大使を罷免しろ、小国との約定など反故にしろと喚く大臣たちには反吐が出る。

私は言い捨てた。

「もう決まったことだ。約定締結の手続きに誤りはなかった、そうだろう?」

それ以外、あいつらは私に何を言えと言うのだろう。

これまで散々、約定や決まり事といった因習を押し付けてきたのはあいつらだ。


とはいえ、試験砲撃の費用すら捻出できなかった我が国の、どこから賠償金を絞り出せばいいというのだろう。

皇室費を国費に振り替えたいと思っても、大半を握るのはあの人だ。皇室が身銭を切らずに、どうやって貴族たちにこれ以上の費用を負担させるんだ。

全てが塞がれてしまっている。


エルナが現れたのはそういうときだった。


「陛下。」

深夜。

独り執務室に籠って思案していた最中に急に声がして、びくりと顔を上げて私は再び驚いた。

「……君は。」

そこにいたのは、久しく見ていなかった幼い方の側妃・エルナだった。エルナは、西の帝国のドレスを身に付けていた。西の帝国の。それが目を惹いた。眩しかった。灯りの少ないところに立っているというのに後光が差しているのかと見間違うほど、その姿が眩しく見えたのだ。

エルナは呆然とする私に近づいて、私の肩に手を置いた。

陛下。

はっとした。エルナとほぼ同時に、控えの侍従が私を呼んだのだ。こんな夜更けに、陛下から召されてもいない側妃が陛下の元を訪れるのは決まりに反します。確かに侍従はそう言った。そしてエルナもまた確かにこう言った。

「でも、私は陛下の妻ですもの。夫婦のことにそんな決まり事なんて要らないわ。」

私はまじまじとエルナを見た。

私に合わせて、西の帝国を理解しようと彼の国の言語を学んでいるエルナ。彼の国の文物を取り寄せ、学び、我が帝国に有用と判断した物を若い貴族の間に広めようとしてくれているエルナ。ここ最近多忙で会っていなかっただけなのに見違えるほど大人になっていたことに私は気が付いた。

そうだ。

エルナは十七歳になったのだ。

かつて幻想を抱いていた私が結婚をした歳。

そのときの私と同じ歳になったエルナが私の前に現れた。

「手を。」

私はエルナの手を取った。その手は私の手の内にすっかり収まった。私は椅子に腰掛けたままエルナの両手を包み込み、立って私を見下ろすエルナを見上げた。

「君は、私の名前を知っているか?」

エルナは笑った。

仄暗い空間で、そこだけ花が綻んだように華やいだ。

「サイラスさま。」

私は、一瞬、時が止まったかと思った。

自分の名前が新鮮に聞こえるほど長く、誰もその名を呼んでくれていない。もう呼ばれることは一生ないだろうと半ば諦めかけていたのに、エルナは私の名前など知らないだろうと思ったのに、あっさり呼ばれるなんて。呼ばれてみれば、なんて呆気の無いことか。

言葉を出せないでいる私にエルナは微笑んだ。

「陛下の妻ですもの、知っているわ。陛下のお名前を呼んでも良いの?」

直ぐに返事ができず、私は幾度も呼吸をしてから返事した。

「……もちろんだ。エルナ、私も君を名で呼ぼう。」

うれしい。

そうつぶやいて、照れたように微笑むエルナの、なんと眩しく見えたことだろう。

私はそこで初めて、自覚した。

私は切望していたのだ。

帝国を導く優れた皇帝になりたいと強く願いながら、それ以上に、私を私として認めてくれる存在を。

あのとき同時に感じた、安堵感。

あれが無ければ、私は、敗戦後の混乱を乗り切ることはできなかった。圧力に屈して、改革を始めることすらできなかっただろう。


エルナがいたから私は活力を取り戻した。

私は自分が失ったものが彼女にあると感じ、また、今の私に最も必要なものが彼女にあると感じていた。私は彼女の宮殿に通い、また彼女も私の宮殿に来るようになった。エルナが私の宮殿に駆け込んできたのはそんなときだった。


エルナの背中は血まみれだった。

ユーリアのせいで鞭で打たれた、そう泣き叫んだ。

私はエルナの姿に、それ以上に、私を突き放すユーリアの姿に胸が潰されるようだった。


ユーリアが私の宮殿に来るのは珍しい。彼女は、私が呼ばなければ来ないから。

そのユーリアが言った。

決まり事を守らない者は罰するのだと。

あぁ、ユーリア。

私は貴女の口からそんなことは聞きたくない。私を、否定してほしくない。

貴女を私の妻に迎えて私は嬉しかったんだ。たとえ貴女が私の名を呼んでくれずとも。これまで何十、何百といた帝国の皇后ではなく、私だけの皇后になって私を見てほしかった。

けれど、貴女は言ったんだ。

「私はこの国の皇后なのです」


そう、だったのか。

貴女は皇后になりたかったのか。

私の妻ではなく、この国の皇后に貴女はなりたかっただけなのか。

足元が、黒く、深く崩れるようだった。




***

皇后ユーリア:その三


側妃エルナが鞭で打たれた日。

陛下の残した、もう貴女を私の皇后だとは思わないという言葉は、何度も蘇っては長く私を苛んだ。


あの日から、陛下と目が合うことは無くなった。義務的に隣り合う儀式のときですら、陛下と会話をすることすら、私にはもう、起こりえないことになってしまっていた。

陛下が向き合うのは二人の側妃だけ。

彼女たちは姉妹で、兄弟のいない陛下はまるで自分の本当の妹たちのように可愛がり、また時には愛する女性としても慈しんでいる。

私にそれは止められない。

だって、私と彼の間には子どもがいない。

彼女たちは、彼の子どもを産むためにここにいる。

私に残された役割は、保守派の間を立ち回り、おば様の機嫌を取ることだけ。


最近の私は、おば様に、肌に良い西の帝国の薬草を勧めているの。

これは西の帝国のものですよ、なんて、そんなことをわざわざ知らせる必要はない。まず気に入ってもらうことが大切。そうでしょう?

そうして、西の帝国にもいいものがある、そう少しずつ理解してもらえばいい。

何かを変えるためには、変えると良いことがある、まずそういう実感を持ってもらわなければ、そうでなければ人は変われない。

これが、私なりの、陛下を支える方法なの。


陛下の負担を少しでも減らせるなら私は耐えられる。

誕生日も結婚記念日も陛下の誕生日ですら陛下に会うことができなくて、この皇后のための華麗な宮殿で、ぽつんとひとり、陛下の訪れを待つことになっても、陛下の目に私が映っていなくても。

私は言わない。

睨んでいいから私を見て。

怒鳴り声でいいから貴方の声を聞きたいの。

そんなことは、絶対に。

たとえ心がそう叫んでも、陛下の役に立てるなら、私がその心の蓋を開けることはない。




***

皇帝サイラス:その三


ユーリアはこの国の皇后になりたかっただけだった。

そのことに気付いてしまったらもう駄目だった。

彼女の目を見ることができなくなった。彼女の後ろには皇太后がいて私を陥れようとしている。そのことが頭から離れなくなった。

もう彼女といても安心できなくなっていた。



そんな私を嘲笑うかのように、帝国も衰退する一方だった。

志を同じくするものたちと帝国を一新したい、そう試みた改革はことごとく保守派の反発で頓挫した。私を支持したある者は国外に逃亡し、ある者は処刑された。私だけが残された。

議会で、政治の場で、私は孤独だった。

その頃の私は常に追い詰められていた。

そんな私を繋ぎ止めてくれていたのがエルナ、だったのに。


エルナが鞭で打たれてから六年後。

遂に、帝都が西の帝国と東の小国の連合軍に包囲された。

かつて私が抱いた懸念は、目に見える現実のものとなっていた。

私は皇帝で、しかも侵略される可能性に気付いていたのに防げなかった。その罪深さに打ちひしがれる私に、ユーリアが知らせたんだ。

エルナが皇太后に殺される、と。


私は走った。

止めようとする侍従や護衛を振り切って。

陛下。

陛下。

廊下ですれ違う者たちが怒鳴り、押さえつけてこようとするのをかわして、教えられた場所へとひたすら駆けた。

そうやって、皇宮の隅、草木に水をやるために掘られた小さな井戸、やっとそこに着いて、そして、見た。

エルナは縛られていた。

皇太后が見張る、その前で。

その小さな井戸に、頭から逆さにして落とされるために。

彼女が井戸に落ちる直前、私は、彼女と、目が合った。


全身の血が一気に沸騰した。

私は吼えた。

猿ぐつわを噛まされ、罪人のように押さえつけられた。

私は、唸り声を上げて慟哭した。


頼む。

奪わないでくれ。

もう何も望まない。

この国のために尽くさせてくれるなら、もうなんでも、帝位でもいつでも喜んであなたに返すから。

だからどうかこれ以上、私から何も奪わないでくれ。



私は、かなりの時間、呆然と座り込んでいた。

黒い夜が天を覆い尽くしていく。

皇宮の外で兵馬の音がした。

あぁ、私たちを帝都から逃すために兵が集められている。もう大した兵馬も残っていないのに。

やっと、そんなことを漠然と思うようになった頃。エルナが逝ってかなりの時間が経ってから、私は縄を解かれ、猿ぐつわを外された。

私から縄を解いたのはユーリアだった。

久しぶりに見るユーリアは、切なさを湛えた瞳で私を見た。


私は思った。

あぁ、ユーリア。

そんな目で私を見なくていい。

貴女のせいでエルナが逝っただなんて、私は露ほども思っていないから。貴女がエルナを虐めていたとも思っていない。だって貴女は、そんなことができる女性ではない。

……けれど。

あぁ。

ユーリア。

貴女は、決まり事に縛られて、ただ私たちを見ているだけだった。

貴女は、皇太后が大臣や侍従たちを操っているのを、それで帝国が堕ちていくのを、私やエルナが苦しむのを止めてはくれなかった。帝国の存続。それを切望し、全霊を捧げていた私の隣に立って一緒に国を変えようとはしてくれなかった。

私が耐えられなかったのはそれなんだ。

なぜ隣に立って、一緒に抗ってくれなかったんだ。

貴女は私の妻なのに。


そう思いながら、私は、ユーリアに解かれた手で、あのいつかの夜のようにユーリアの手を取った。そんなことをしても失われた時も命も戻ることはないと知りながら、それでも聞かずにはいられなかった。

「貴女は今でもこの帝国の皇后、なんだろうか?」

私は祈った。

否定してほしかった。

たった一言、私は貴方の皇后だと、貴方だけの妻だと言ってほしかった。

けれど、貴女は瞳に涙を浮かべながらいつものように凛とした声で言ったんだ。

「えぇ、陛下。私はこの帝国の皇后です。」


その後のことも、私は思い出せていない。

いつかのあの夜の後のように。


その後、私は皇太后に拉致されるようにして帝都を出た。

皇帝でありながら、帝都とそこに生きるすべての民を捨てて私は真っ先に逃げたんだ。



私は無力だった。

無能で、それ以上に孤独だった。

私を認めてくれる者を皆、失った。

その失意の中、私の知らないところで帝国は連合軍に多くの権限を奪われ、そして、私たちは帝都に戻された。

帝都を捨てた私に、摂政を置いてでも皇帝を続けろだなど、皇太后の操り人形になれと言っているのと何が違うのか。

だけど、あぁ、そうか。

そうだった。

私は最初から人形だったんだ。

自分の名前すら無い、人の形をした物体。

そうか。

なんだ。

小さい頃に拐われた、あのときに、「私」はこの世からとうに消えていたんだな。




***

皇后ユーリア:その四


あの、エルナが鞭打ちの罰を受けた日から、私の名前を呼んでくれることも、見てくれることすらしてくれなくなった彼。

それでも彼を慕い、彼に相応しい皇后であることだけを支えにして日々を過ごす私に彼が再び言葉を掛けてくれたのは、結局、西の帝国からなる連合軍に帝都が包囲された六年も後のことだった。



帝都が連合軍に包囲されたとき。

「帝都から逃げる?!」

侍女の言葉に、私は思わず声を上げていた。

次の瞬間。

「皇太后陛下がエルナ様を処分なさるとおっしゃって、」

『処分』、その意味することに全身の血がザァッと落ちていく。

私は部屋を飛び出した。

エルナの宮殿に向かおうとした。おば様の息が掛かる侍従たちに行く手を塞がれた。私は彼の宮殿へと向きを変えてただ、急いだ。


間に合って。

彼からあの娘を取らないで。

私では彼を笑顔にできないの。


私は走った。

彼は、自分の宮殿で戦況の報告を受けていた。

私の報せに、彼は弾かれたように飛び出した。私は疲れ切り、床に崩れるようにして座り込み、足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ただ、祈りを捧げることしかできなかった。


あぁ、天よ。

どうか彼女をお守りください。

彼女は彼の命綱なのです。

彼しかこの帝国を救える人はいないのです。

だからどうか、彼女を彼から奪わないで。


私はひたすら祈っていた。

「皇后陛下。」

不意に呼ばれた。

その声にはっと気が付けば、一瞬どこにいるのか混乱するほどの静寂が辺りを覆い尽くしていた。

夜になっていた。

見上げた漆黒の空に星はない。

それが、天からの答えだった。


私は震える足でそこに向かった。

そして、皇宮の隅、庭の草木に水を与えるための井戸の側で、呆然と座り込む彼を見た。

彼は、樹に巻く粗野な縄で体を縛られて、何に使われたのかわからない黄ばんだ布で猿ぐつわを噛まされていた。


陛下。


私は思わずつぶやいていた。

そうしなければ泣き叫んでしまいそうだった。

彼は、帝国そのものなのに。

彼の姿に、今まさに侵略されている帝国の姿が重なった。


なんとか、震える手で、侍従に渡された小刀で彼の縄を解いた。黄ばんだ布をその口から取り、懐紙で彼の顔を清めた。

彼はその間、ずっとぼんやりとした目で私を見つめていた。消し切れない不安が滲む瞳。出会った頃の、まだほんの小さな彼を思い出し、私は、思わず彼の頬に手を添えていた。

彼の瞳が大きく揺れた。

彼は、息を吸って、私だけに聞こえる声で呻くようにささやいた。

「貴女は今でも、この帝国の皇后、なんだろうか?」

彼は、あの夜のように私の手を包んだ。

その双眸に私の心はぎゅっと掴まれた。いつぶりだろう?彼が私を真っ直ぐに見つめてくれたのは。いつぶりだろう、彼の瞳に光が差して見えるのは。

改革が失敗して、彼の瞳からは光が消えた。

その瞳に久しぶりに光が差しているように感じて、私の心は高鳴った。私は彼の手を包み返し、心の中でつぶやいた。


ねぇ。

サイラス。

貴方は、こんなときも貴方らしいのね。

どんなに困難でも帝国に尽くそうとするひたむきな姿勢。こんな状況でもまだ帝国を諦めない皇帝としてのその矜持。

私、ずっと誇らしかったの。

そんな貴方の皇后になれて。

私は貴方に相応しい存在でありたい。貴方が帝国を諦めていないのなら、私も貴方の隣で貴方とこの帝国を支えたい。


そう願いながら、伝わるように祈りながら、私は彼に答えて言った。

「えぇ、陛下。私はこの帝国の皇后です。」

その返事に、彼は息を飲んだ。

そうして泣きそうな顔で、微笑んだ。



後から思えば、あの日が、この帝国の歴史にとって一つの分水嶺だった。



私たちは帝都を後にした。

彼は、ほとんど口を利かなくなった。

落ち伸びた先で、終戦に向けた交渉が始まった。

激高するおば様の隣で、その交渉の内容を聞き、私は、なんて皮肉的なんだろう、と思っていた。

西の帝国と東の小国の連合軍が掲げた終戦条件の一つは、おば様の、皇太后の蟄居だった。

西の帝国は、自国と対話できる相手は陛下しかいないことを知っていて、その最大の障壁は皇太后だということも知っていた。帝国が実現できなかったそれを西の帝国が終戦条件として挙げただなんて、本当に、なんて皮肉的。

陛下による完全な親政は、帝国のために、もっと早く実現されるべきだった。


けれど、その条件は結局、保守派の巧妙な交渉によって議会に知られることはなく、まして陛下自身が知ることもないままに別の条件へとすり替えられ、そして、陛下は、療養の名目で軟禁された。

摂政という名で再び国政を支配したのは、皇太后だった。

そうして、皇帝のいない帝国は、夕陽が音も無く沈むように崩壊へと向かって静かに、不可逆的に堕ちていった。




ほぅ。

吐き出す息が白く見える。


晩秋の早朝。

霜を踏みしめながら、私は彼が軟禁された場所へと足早に向かっていた。

終戦を迎え、帝都に帰還して、彼が軟禁されてから、もう八年もの月日が経っていた。

私たちはその間、離れ離れになり、私は相変わらず皇后のための宮殿で一人過ごしながら、おば様や保守派のこと、この帝国が移り行く様などを、塀の中の彼へとこっそり知らせていた。私が彼にできることはそれだけだ。


彼の軟禁場所へ向かう足取りが、つい、速くなってしまう。

そのたびに、後ろに付いてくる侍女を何度も振り返り、侍女が持つ薬が溢れていないことを確かめる。

気が急いてしまう。

早く彼に知らせたい。

おば様はもう長くない。

お歳を召して、病も得た。

後もう少しで本当の意味で貴方は自由になる。


彼は、本当ならもっと早く、自由に羽ばたくはずだった。

彼の望む賢君になれるはずだった。

それは、私にとっても同じことだった。

「もう私の皇后だとは思わない」、そう言われて避けられて、彼が軟禁されて、気付けばもう十四年。その間、本当なら私はずっと彼の側にいられたはずだった。

どこで狂ってしまったのだろう。

私は、何を間違えてしまったのだろう。



昔のことを考えるうち、私は彼が軟禁される宮殿に着いていた。

皇宮の隅の小さな宮殿。侍女が小さな通用門の小窓から私の訪れを中へと伝えている。

私は、はっとして閉じられたままの門を見た。

確かに今、門の向こうで気配がした。

「陛下?」

私は門に縋りついて声を張り上げ、耳を門へと押し当てた。どんなに小さな音も聞き逃せない。

「そこにいらっしゃるのですか?」

木の葉を踏む音がした。

私は続けた。

「陛下。薬湯をお持ちしました。どうぞこれをお飲みになってください。」

皇太后の病状は皇宮の最重要機密。それを不用意に伝えることはできないから、私は彼だけに宛てた小さな文を油紙に包んで黒い薬湯の中に潜めていた。


風が吹いた。

落ち葉が乾いた音を立てた。

門の向こうからの返事は聞こえない。

私はまた声を上げた。

「陛下。どうかこの門を開けてください。陛下にお会いして良いとおば様からお許しが出たのです。」

祈る気持ちで返事を待つ。

向こうで軽く咳き込む音がして、それからやっと、彼のかすかな声がした。

「貴女は、」

かすれて、息が上がったような声。

昔とは全然違うその弱い声。

胸がぎゅっと切なくなって、私は胸に手を当てた。

彼の声がした。

「今でも、この帝国の皇后、なんだろうか。」

私は顔を上げた。

この問答。私たちが何度も交わしてきた、私と彼しか交わすことのできないこの会話。

私は迷わず即答した。

「えぇ、陛下。私はこの帝国の皇后です。」

私は彼の返事に耳を澄ませた。

そして、心の中で祈るようにして語り掛けた。


ねぇ、サイラス。

もう直ぐで貴方は報われる。

貴方はこれから本当の皇帝となり、貴方の理想とするところへとこの帝国を導いていくの。

貴方がいればこの帝国は必ず持ち直す。

私たち、今度こそ一緒にこの国を支えていきましょう。

そのときはどうか、私の手を握ってね。

貴方が私の手を握っても咎める人はもういない。

知っていたわ。

貴方が私の袖を見ていたことも、触れてくれることがあったことも。

私たちを縛るものはもう直ぐ無くなるの。

だからどうかまた私の名前を呼んで、私を見て。

私も貴方の名前を呼んで、貴方に触れたいわ。





***

皇帝の視点:その四


木の葉が騒めく音がした。

まだ夜が明けてそれほど経っていない、草花も無い小さな宮殿の庭は、晩秋になって一層冷えていた。その庭に立ち、木の葉の騒めきを聞くことだけが私の日課だった。


庭しかない、侍従とも呼べない小男が一人いるだけの空間。

話し相手はおろか、気を紛らわす書物も無い。私を訪れる者も、文の一つもない。

あの人は、今度こそ完全に私を外から隔離するつもりだろう。ユーリアからの便りも届かないのだから。

でも、それでいい。

私は人の形をしているだけで、既にこの世からは消えた存在なのだから。


若い頃の習慣とは恐ろしいもので、明け方には目が覚めてしまう。昔と違って講義も公務も無いというのに、だ。

朝の清冽な空気の中、私は毎日、天のエルナに詫びている。

彼女は私が選んだばかりに、私が側に置いたばかりに皇太后に処刑されてしまった。


帝都から逃げる間際の混乱にあって、それでもなおエルナを赦さなかった皇太后。

終戦後、彼女の体はやっと井戸から引き上げられた。それを見守ってくれたのは私の側妃でもあるエルナの姉だった。

あまり会うことのなかった彼女の顔を思い出すことはできないが、それでも彼女が先代の側妃たちのようにささやかでも何か楽しみを見つけ、この鳥籠のような皇宮で生き延びてくれることを切に願う。

彼女なら、侍女たちの共同墓地に埋められたエルナにも花を手向けてくれるだろう。


エルナを思って天を仰いだとき、不意に、女の声がした。

皇后がここに来たという。

私は思わず顔を上げた。

気が付けば、門の近くに引きつけられていた。


この門の向こうに彼女がいる。私ではなくこの国を選んだ皇后が。そう思うのに、ユーリアを忘れ去ってしまうには、彼女は私の心に深く入り過ぎていた。抗いがたい若い頃の習慣で、私は、一歩、また一歩と、門に、彼女に近寄った。

彼女の呼びかけに答えることはできないまま、つい、彼女がいるかも知れない門の辺りに手を当ててしまう。

「陛下?そこにいらっしゃるのですか?」

彼女の声がした。懐かしい、あの凛としてよく響く声。

「陛下。薬湯をお持ちしました。どうぞこれをすべてお飲みになってください。」

薬湯。

ぎくりとした。そんなものは、ここに来てから何百、何千と飲んできた。そのために私は歩くことも不自由になってしまった。ここで口にするいわゆる薬湯は、私の命を縮める飲み物だ。だというのに、それをユーリアが自ら持ってきた。その事実に私は戦慄した。私はとてもその場に立っていることができず、一歩、また一歩と身を退いた。

「陛下。どうかこの門を開けてください。」

門を、開ける?

この門を?一度も開いたことのないこの門を開けて、貴女が入ってくる、そう言ったのか?何が起きている?私は混乱して再び後退り、思わず転びそうになって、そこでやっと気が付いた。

私の姿の、なんとみすぼらしいことか。

頭髪も肌も手入れをしていない。髭など暫く剃っていない。この服などいつ洗ったのかも分からず、自分からも異臭が漂う、ように思う。こんな姿でユーリアに会える訳がない。

一際強い風が吹き込んだ。

私は咳き込んだ。

体まで随分弱くなった。そう思い、そこで自分の皺枯れた手にも気が付いた。あぁ。私の手はこんなに枯れてしまったか。

それでも彼女の声は止まらない。

「陛下にお会いして良いとおば様からお許しが出たのです。」

そのとき、あの人をおば様と呼ぶその声に、突如浮かんだ事実に、私は再び戦慄した。

そうだ。

彼女は、彼女のままだった。

あの人は彼女を名前で呼んでいた。

彼女にはまだ名がある。

名無しになった私とは違う。


私は愕然とし、頭の中が真っ白になった。

彼女の声がそんな頭の中にがらがら響いてくる。

「陛下。どうか、お願いです。」

その語尾は震えていた。

その縋るような声は、私の心も震わせた。

ユーリア。

私は声にならない声で彼女に告げていた。

貴女を、ずっと愛していた。

ずっと、私の片思いだったのに。


彼女が、今の私を選んでくれる訳が無い、そう思いながらも、けれど、もしかしたら、そんなわずかな希望に縋って、私は再び門に手を当てた。

そして願うような心持ちで彼女に聞いていた。

「貴女は、」

久しぶりに張り上げた声は、喉を出ることもできずにかすれていた。それでも、声を絞り出してでも聞かずにはいられなかった。

「今でも、この帝国の皇后、なんだろうか。」

この問いを、何度も、祈るような気持ちで聞いてきた。

だからまた祈ろうとしたとき、一瞬のためらいも無しに彼女の応える声がした。

「えぇ、陛下。私はこの帝国の皇后です。」


そう、か。

やっぱりな。


私は、ただ、自嘲した。

他に何ができたというのだろう。

彼女は私を選ばない。

彼女が選ぶのは、皇后の位とこの国だ。

彼女は知らないのだ。

彼女は私を安心させてくれる唯一の存在で、私にとって、本当に何者にも変えがたい存在なのだということを。


私は、門から手を離した。

そして、木枯らしの吹く庭を見渡した。


きっとこの帝国は長くは続かない。

帝政でありながら皇帝を必要としなくなった時、既に歯車は狂っていたのだ。私が私では無くなった即位の日から、あるいはもっと早く、自分たちでも気付かなかったいつかの時には既に、帝国の歯車は狂い始めていたんだろう。

あぁ。

この帝国まで無くなってしまったら、私には生きる意味が本当に何も残らない。



ユーリア。

貴女には、名前を呼んで欲しかった。

他の誰でもない、私として私を見て欲しかった。

ただ私の側にいて、私が生きる意味を与えて欲しかった。





***

皇后の視点:その五


宮殿の外から幼子の泣き叫ぶ声が聞こえてくる。

とうさま。

かあさま。

おうちにかえりたい。

遠くからでもはっきりと聞こえる泣き声が私の胸を刺してくる。


皇太后が逝った。

最期の最後に次の皇帝を指名して。

彼は、私が薬湯を届けたその日のうちに逝ってしまった。

結局あの赤い門が開けられることはなく、彼は、私をおいてエルナの元に逝ったのだ。毒を飲まされて。それを見届けるかのようにして皇太后も世を去った。

私一人が、残された。


「皇后陛下。」

呼ばれて、私ははっとした。

勢いよく扉が開いて、火がついたように泣き喚く幼子が現れた。三歳だなんて。サイラスを継ぐ新帝の、なんて幼いことだろう。

ねぇ、サイラス。

貴方もこうやって連れて来られたの?

夜中に拐われるようにして、とうさま、かあさまと声を枯らして泣き喚く、小さな顔をぐちゃぐちゃにするそんな幼子に、「ねえさま、ねえさま」と付いてくる昔の彼の、幼い頃の顔が重なった。


私は立ち上がっていた。

幼子に駆け寄って、侍従の手からその子を奪うようにして胸にかき抱いた。

「大丈夫。大丈夫よ。」

幼子は混乱して一層激しく声を上げた。

耳を裂くその泣き声が私の心の蓋を突き破り、剥き出しになった心が泣き声に共鳴し、震えて、私を強く揺さぶった。

あぁ。

この子はまさしくサイラスだ。

私の背を越えるほど大きくなりながらなお私の袖を握ってきていたあの彼だ。

「大丈夫。あなたには私がついているわ。」

私は幼子を強く抱きしめた。

鋭い後悔が胸を突いてくる。


あぁ。

サイラス。

私、貴方を抱きしめれば良かった。

私たちが結ばれたあの日、貴方が名前を呼んでくれたあのときに。貴女は帝国の皇后かと問われたあのときに。エルナが鞭で打たれたときには、彼女は私の大切な家族だと言ってエルナのことだって。

私は貴方を愛していた。

その貴方に触れて、抱きしめる、それだけのことに、なんの決まりがあったというのだろう。今、この子を抱いているように、ただ抱きしめて、私はいつでも貴方の側にいると伝えれば良かっただけのに。

どうして、そうしなかったんだろう。

自分で自分を縛りつけていて。

そして、貴方を失った。


サイラス。

私、昨日、逝ってしまった貴方の手を握ったの。

貴方があんな扱いを受けていたなんて。

全然気付いていなかった。

悪いようにはしていない、そう言うおば様のことを、あの人のことを信じ過ぎていた。貴方があんなに細くなっていたなんて。

貴方から離れてはいけなかった。貴方と一緒にあの庭で生きるべきだった。私は本当に大切なことをわかっていなかった。

あぁ。本当に皮肉だわ。

貴方と対話することの大切さを、私たちの誰よりも遠く離れた西の帝国の方が知っていたなんて。

私はあの人に最期の最後まで試されて、結局あの人に、遠くの国の人々に敵わなかった。貴方を支えられなかった。



抱きしめた幼子が、胸の中ですすり泣いている。

小さな手が初めて私に伸ばされて私の服をつかんだ、その瞬間。

私は、彼の名前を呼んで、ついに嗚咽した。

サイラス。

サイラス。

新帝となる幼子を抱いて、いつかのあの皇帝の宮殿で。

先帝と皇太后の相次ぐ崩御、そして新帝の即位。それらに備えて大勢の大臣、侍従たちが集まる皇帝の宮殿で。彼らの視線を一身に浴びながら、私はもう我慢せずに、誰の目を気にすることもなく声を上げて、ただただ彼の名を呼んで、嗚咽した。

全てのことが、手遅れだった。



私は帝国最後の皇后となり、帝国最後の皇太后となった。

サイラスが逝ってから数年後、帝国が滅ぶ日を幼い皇帝と共に見守った。

かつて彼の座っていた玉座、その玉座のある宮殿が、新たな政権によって封鎖されていく。

それを見守りながら握り締めた小さな手の元皇帝に、幼かった頃のサイラスの面影が重なって、私は、彼に届いて欲しいと願いながら、心の中で彼に呼び掛けた。


サイラス。

私、いつもこの子の手を握っているの。私が側にいることが伝わりますように、そう願って手を握るのよ。

ねぇ、サイラス。

私が貴方のところに逝ったなら、もう一度私の手を握ってくれる?

私の名前を呼んで、私のことを見てくれる?

今度こそずっと貴方の側にいたい。

私、今、貴方にとっても会いたいわ。

このお話は、中国の清王朝最後の皇后とその皇帝の話を元にしています。

世界史の教科書に出てくる人たちのドラマを感じていただけたら幸いです。


お話に出てくる鞭の事件と井戸の事件はほぼ史実です。

皇帝が亡くなった次の日に皇太后が亡くなったということもほぼ史実。

登場人物の年齢差もほぼ史実どおりで、皇帝の年齢に合わせて起きた事件も、ほぼ史実どおりです。十四年も会えなかった、というのは……大げさかも知れません。


西の帝国はヨーロッパ諸国で、東の小国は日本です。

皇太后は有名な西太后です。

どこかの帝国のお話として読んでもらえたら、と思い、名前の中国色は薄めています。


皇帝は光緒帝。

本名はザイティエン。名前もキャラクターは巷で言われている性格に寄せました。肖像画は格好いいものが多いようです。


皇后は裕隆ユーロン皇后。

女主人公ですが一番創作しています。

本当は意地悪で、光緒帝とは仲が悪かったようです。(でも光緒帝の本当のお母さんはそれ以上に意地悪だったらしい。)

最初の頃は光緒帝に恋心があったようですが、冷たくされるうちに憎むようになっていったとも言われて、光緒帝を殺したのは実は彼女だったという説もあります。


側妃は珍妃。

本名はネット検索では出てきません。明るく利発で、光緒帝に愛されていました。井戸に落とされるのを光緒帝が見た、ということも史実らしいです。エルナのキャラクターは創作ですが、意外とあり得たことかもしれません……。

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