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その頃、三瀬家では、秋穂が信也のことを考えていた。
てっきり冬美が近いうちに信也のことを連れて来ると思っていたのだが、いつになっても連れてきやしなかったからだ。
冬美はどうやら放課後にカラオケに行ったり、学園での触れ合いで満足してしまっているらしい。
秋穂が学園まで出向くという手があるにはあるが、理由もなくそこに行くのは、流石に憚られる。
このままでは当分、秋穂が信也と会うことはないだろう。
それは信也という推しが近くにいることがわかっている秋穂にとってかなりキツいものがあった。
なにせ信也はようやく現れた秋穂の心の癒しなのだから…。
「…はあ…。」
そんなため息を吐いていると…。
「ただいま、ママ。彼氏連れてきた〜。」
なんて声が聞こえ、一瞬それが冬美のものかと誤認したのだが、声が違い、口調もまったく違ったのだから、すぐにそのことに気がつく。
その声の主は春香だ。
彼女はなんとも勿体ないことだが、信也をフッたのだという。
おそらく単に性格が合わず、もしくは余程いい男を捕まえたのだろうと思い、秋穂はその問題を放置していたのだが、どうやらその彼氏とやらを連れて来たらしい。
とても信也の代わりになる者がいるとは思えないが、娘の彼氏だ。
まあ、家に上げてもいいだろうと思い、玄関に行き…。
「おかえり、春香。そちらが…っ!?」
…そして、秋穂は驚愕した。
相手は確かにそれなりに顔の良い男だった。
服装のだらし無さもそれなりに似合ってはいる。
しかし…。
…その男は秋穂のことを見るなり、驚愕し、そして…。
ニヤリ。
いやらしい笑みを浮かべたのだ。
ゾワワワワッ!!
一瞬にして寒気が秋穂を襲う。
それは明らかに秋穂のことを性的対象として見るそれであり、捕食者のそれだった。
秋穂は純粋に気持ちが悪いと思った。
秋穂の防衛本能は即座に働くと、今日は悪いけど、家族間で大事な話があるからと思わず、その彼氏を押し返していた。
そして、しっかりと戸締まりをして、秋穂は春香をリビングへと連れて行き、ソファに座らせる。
「なによ…ママ…せっかく空也が来てくれたのに…。あれ?家族会議なんしょ?冬ちゃんは?」
「……どういうつもり?」
秋穂の中にあったのは、まずなぜあんな男を連れて来たのかということ。幸い、秋穂はかなり身持ちも固く、気を付けていたから連れ込まれて弄ばれるという被害にあったことはなかったのだが、秋穂の友人がそういった被害にあったことがあり、その前に紹介された彼氏たちの特徴とあまりにも似通いすぎていたのだ。
比較的容姿や雰囲気、立ち振舞いというやつが…。
「?」
しかし、どうやら春香はその言葉の意味がわからない様子なので、もう少し言葉を付け加えた。
「なんで…なんであんな男を連れてきたの?」
「???……あんな男?」
最初は意味のわからなかった春香。
しかし、その言葉の意味を理解するなり、春香は立ち上がっていた。
「ママ、なんでそんなこと言うのっ!?ママは空也のこと何も知らないくせにっ!!」
「ええ、知らない。知りたくもない。ただわかることはあるわ。」
その時、秋穂はまだ冷静だと自分では思っており、春香も静かな怒りを感じるのみだった。なので、春香はそれに当てられ、一度は矛を収め…。
「…なによ。わかることって…。」
「……。」
わかること…秋穂がわかってしまったこと…。
それはあまりにも春香にとってキツいことだった。
それは秋穂も経験のある…いや、今もその渦中にあることだったから。
秋穂は覚悟を決めると、口にすることにした。
もう秋穂はそのことのキャパシティがオーバーしていたから、娘の分とそれまでは抱え込めなかったのだ。
「…たぶん、さっきの彼氏…春ちゃんのこと愛してないわよ。」
「…ひどい…。」
春香の瞳から涙が零れ落ちる。
春香は、信用していた…信頼していた母から、まさかそんなことを言われると思っていなかった。
…ママは味方だと思ったのに…。
「そんなことない。ないないないないないないないないない。」
「……。」
「だって…だって空也は…空也は…私を可愛いって…好きだって……それに…それに…。」
…激しく自分を求めてくれた。
春香の言葉を聞くまでもなく、その先の言葉がわかり、秋穂は手遅れだったかと額に手を当てる。
「…なんで…なんでわからないの。」
「…わからない…わからないよっ!!ねぇ、なんでママこそっ!!」
心乱れる春香。
そんな彼女を優しく諭す。または時間を置いて諭す。
そんなことができる余裕など、まだその時の秋穂にはなかった。
それで思わず……。
「…なんで信也くんを捨てて、あんなのを選んだのよ。」
もちろん春香に対する心配の思いの方が強かったが、その言葉は意図せずに、秋穂の口から漏れ出たものだった。
その言葉に驚く春香。
信也?…なんでみんな信也なの?なんで信也のことを良いみたいに言うの?アレは元彼。私は彼を捨てたのに……それをなんでみんな……。
「……。」
その言葉が引き金だった。
…春香の中の黒いモノが顔を出し始める。
いや、それは表層から漏れ出てはいた。なにせ彼女のコンプレックスに纏わりつくものだったから。
しかし、春香はそれを自覚し、口にすることはなかった。
秋穂は春香たちを育てるのを、本当にたった一人で頑張っていたから。
それに…これはこの家族関係を崩壊させるほどだとなんとなくわかっていたから。
…でも…。
春香はその枷を意図的に外した。
「………ママだって…。」
「…なに。」
「……ママだって…人のこと言えないでしょ。」
「……。」
春香は赤ん坊の春香を含めた3人で写った写真を指差し、嘲る。
「…ねぇ、あの人本当に私たちの父親なの?」
「……春ちゃん?」
「中学生の時も、小学生の時も、幼稚園の時も一度も顔合わせたことないんだけど。」
「っ!?……。」
「入学式、卒業式、七五三、授業参観に体育祭に文化祭……家にいつもいないよね…。」
「……。」
「昔は寂しかったな…パパがいなくて…。」
「…は、春ちゃん…そ、それは…。」
「うん、でも年齢を重ねるごとにわかってきたんだよね…十五年…ううん、もう十六年も海外だっけ?連絡も減って…。」
ここまで聞いて、秋穂にもようやく彼女の意図がわかった。
そのあまりにも酷な現実を…。
「……やめて。春香…やめて…。」
それはわかってはいたとはいえ、娘から聞かされるにはあまりにも酷な現実。
「…ママ、浮気されてるんじゃない?」
秋穂は膝から崩れ落ちた。
「というか、それしかないでしょ。だって冬ちゃんなんて写真の顔しか知らないんだよ。私も赤ちゃんの頃だからホントのところ、覚えてないし。」
「……。」
「いい加減気がつけば?ていうか、十六年も電話だけで信じ続けるなんて重すぎるでしょ、プッ、アハハハハハ♪」
「……っ…………。」
秋穂の綺麗な顔は何かに耐えているような様子だった。
それを見た春香はスカッとしたのか、満足そうにして…。
「じゃあ、それだけだから。もう私のことに口出さないでね、秋穂さん。」
バタリとドアは閉じられ、春香が階段を上っていく音だけが聞こえていた。
秋穂の目からほろりと涙が零れ落ち…。
「うっ……うううっ……。」
我慢の限界が来た。
「ーーーっーーーっ!!!」
それから冬美が帰ってきて、目を腫らした秋穂を見て、どうしたのかと聞くが、秋穂はなにも答えなかった。
冬美がそんな秋穂を見たのは初めてのことで、春香に何があったのか聞こうとしたのだが、秋穂に止められた。
このことで春香が原因だと、冬美は確信する。
これ以降、冬美は春香との距離を置きだしたのだった。




