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食後、練習を始める前に、今日の帰り際に配られた一枚のプリントを見せた。
「なるほど…進路調査票ね…。」
「こういうのはカナ姉に相談するのが良いと思って…。」
本当のところ、それは教師に相談するのが筋だと諭すのが、プロを立てるという意味で正道なのだろうが、カナは信也の成績もしっかりと把握していて、こうして頼られたのも嬉しかったこともあって、というのを名目として、相談に乗ることに決めた。
「それで?信也くんの希望ってどこなの?」
「う〜ん…正直どこに行きたいとかはないな。でも、そういう場合って、できるだけ偏差値が上の大学に行くのが普通なんだろ?」
「そうね、それが普通じゃないかしら?」
「…なら、今の成績だとたぶんM大かR大あたりか?まあ、本気で受験勉強すれば、W大も届くかもだが…。」
「うん、そうね。でも、そうすると、バンド活動はだいぶ制限しないとでしょうね…。AO入試って手もあるわよ。たぶん私たちなら受かるだろうし…。」
「…活動の制限はしたくないし…。でも、せっかく俺ができるだけしっかり授業受けてて、AO入試ってのはな…。」
「確かに信也くんの場合、私たちと違って普通科で授業受けていたんだものね…。その努力を無駄にはしたくない…か…。」
「まあな。なんだかんだ言って、ホームルーム以外はどんなに眠くても寝てなかったからな。」
「いい子だね〜、信也くん。」
ナデナデ。
「…茶化さないでくれ。もう子供じゃないんだから。」
「へぇ…子供じゃない…ね…。」
カナは興味深げに見て微笑う。
「……そうだって言ってるだろ。」
「あはは、ごめんごめん。…う〜ん……。」
そんなカナのからかいにそっぽを向く信也に、カナは一度謝り、信也がこれまで受けた模試の成績表にもう一度しっかりと目を通すと、考えるようにして、目を閉じた。それからしばらく…。
「「………。」」
そして、カナは口を開いた。
「…去年どこまで歴史とかって勉強したんだっけ?」
「あっ、それなら…。」
信也は確かと教科書を開き、それを見せる。
「……うん、それなら私ならG大を勧めるかな。」
「えっ…なんで?」
それは偏差値ベースで考えると、1段階から半段階ほど下がる大学だった。正直今のペースでやっていけば、合格間違いなしと思えるそれ。それを普段から、できることはできる限りやれと厳しいカナが提案してきたものだから、信也は思わず疑問を口にしていた。
「う〜んと、これは私の予想なのだけど、やっぱり今年は去年に比べて、お仕事が忙しくなりそうなの。まあ、ピークよりは落ちてくれるとは思うけど…でも、そうなると、たぶん信也くんの成績も落ちるだろうから。」
カナにそう言われると、はい、そうですかと納得しそうになるが、お姉さんにそんなふうにダメになるぞと言われるのは、信也であってもあまり心地の良いものではない。
特に今は子供扱いされたこともあって、そういった煽りを受け取りやすかったのだろう。だから思わず…。
「…そんなことにはならないと思うぞ。両方頑張るからな。」
「あら?そうなの?」
「そうだと言ってるだろ?くどいぞ、カナ姉。」
その言葉にカナ姉は、じゃあ…と答えた。
「じゃあ、信也くんがもし私の予想を上回れたら…。」
「上回れたら?」
「…お姉ちゃん、なんでも言うこと聞いてあげる。」
………は?
どういうことだ?
信也が思わず見返すと、そこにあったのはお姉ちゃんのいたずらっぽい微笑み。
「っ!?……いいだろう。やってやろうじゃないか…。」
そう信也が口にすると、カナは微笑みを濃くした。すると、その瞬間、その微笑みに色を含ませつつ、信也の手を取り、それを弄び出す。
恋人のように隙間なく、繋いでは離して、指の間に指を挿れて、舐るようにねちっこく…。信也はそれに照れると、思わず…。
「…でも、茶化さないでくれ。」と信也は音を上げた。
しかし、カナは止まらない。
「…いいよ。ホントなんでも…。」
信也から見るカナ、彼女はむしろそのことを望んでいるようで…。
そんな彼女に信也は単なるからかいではなく、本音のではと思い始め……。
「…はあ…わかった。考えておく。」
「うふふっ、楽しみね♪」
そう言うとカナは楽しめたとばかりに手を離してきて、悪戯が成功したとばかりに、可愛らしく舌を出す。
…なんだ…やっぱりただのからかいか…。
「…でも、とりあえずカナ姉の最初の提案には乗ろう。その方が確実ではある。絶対に見返すけどな…。」
まあ、信也もカナを認めてはいる。単に伝え方にカチンときただけなのだから。信也もカナと喧嘩をしたいわけではないのだから…。
「あら、ありがと。それにあそこが比較的落ち着いた雰囲気の大学だって聞いているから…それなら2人でいても騒がれないでしょ…。」
「……2人で?って、ん?」
なにかおかしいような…。
『それなら2人でいても騒がれないでしょ…。』
……あっ…。
「…ま、まさかっ!!カナ姉も一緒に受けるのか!?」
そのことに気がつき、思わずイスから立ち上がる信也。それにカナはなんでもないことのように答える。
「あら、ダメ?去年は丁度、AO入試と普通の入試、両方の入試の時期に暇がなかったから、大学は諦めただけで、私もキャンパスライフに憧れがあるもの。」
ダメ?と上目遣い気味に信也に聞いてくるカナ。
そんなことをカナのような昔からの知り合いにされると、信也としては弱い。信也は力なくイスに腰を落とすと、テーブルに頰杖をついて答える。
「…いや、嬉しいけど。」
「そう…嬉しいんだ…よかった。」
なぜか今日のカナは強く優しいお姉さんではなく、対等の立場の女の子に、信也には見えて……って、さっきからかわれたばかりじゃないか…まったく俺ってやつは…。
「……でも、カナ姉なら、もっと上の大学に行けるんじゃないかと思うとなんか悪くて…な…。」
カナは信也の相談に乗り、すぐに最適解?を出してしまうくらいには、頭がいい。そんな彼女のことだ。おそらく暇な時間に勉強するくらいで、信也のような成果を出すことは容易なことだろう。
「気にしないで。私も信也くんとキャンパスライフ送りたいだけ…というか、そのために大学に行くようなものだから…。」
「えっ…カナ姉?」
やっぱり今日のカナ姉はおかしい。ここまでからかいが続くなんて今までなかったのに…。
これも、もちろんあの会議の効果というやつだ。カナ自身、春香に信也を奪われたことに物凄くショックを受けていた。みんなの手前…いや、正直怖かったのもあるが、変なことをしないようにという注意を含めての現状維持を提案したが、また信也の恋人候補が現れた以上、そのまま座していることなどできようはずもなかった。それで今日は何度もストップを掛けてはいたが、想いが溢れてしまって…。
カナの頬に一気に朱が差す。
「っ!?な、なんて冗談よ!冗談!!ほら相談はこれで終わり!!これからは一緒に受験勉強頑張りましょ。で、でも今は練習に向かわなきゃ!!ほら!双子ちゃんが覗いてるぞ〜。」
そうカナに言われて、ドアの方を見ると、下からメイ、ミイ、初音と団子のように顔を並べていた。
まずいと双子は逃げ出し、初音はバレてしまいましたねと、頭を下げている。
「…まさか本当に覗いているとは…。」
嘘から出たまことというのか、本当に覗いていたことに驚いているカナ。
「?カナ姉?」
「…ほら、信也くんは先に行ってて。私は飲み物飲んでから行くから。初音さん、お願いできる?」
「はい。かしこまりました。」
「そうか、それじゃあ先に行くな。ありがとう、カナ姉。」
そう信也が部屋を出て行った。
すると、初音は電子ポットのスイッチを入れ、ティーセットの用意を始め…って、これはどう見ても、時間がかかるそれで…。
…どうやら初音もカナに話があることが窺えた。
「…それで…。」
「はい、それで…とは?」
「わかっておいででしょう?」といつもの様子で、カナからは怒りなどの感情を感じ取れない初音。
「……。」
思わず無言になると、やれやれといった様子で聞いてくる。
「なぜご主人様に嘘を吐かれたのです?」
寝耳に水というやつだろうか、その言葉は、カナにそれほどの衝撃を与えた。思わずこう答えさせるほどに…。
「…ば、バレました?」
一瞬、ハッとするカナだったが、初音の様子がまったくと言っていいほどに変わらず、もう認めるしかないと悟ったカナ。
そんなカナに、初音がわかった理由を勉強ですよ、と教えてくれる。なんとも気前の良いことだという皮肉が出てくる自分が嫌になる。たぶんカナはまだ心のどこかで初音を認めきれていないということなのだから。
「ええ、ばっちり。私もご主人様のテストや成績を沙羅に報告してますから、どの程度の大学に行けるかくらいは予想できます。」
「…はあ…これは一本取られましたね。」
「それで?」
そう口にした初音の表情はいつもより読みづらく、敵対していたあの頃を想起させた。
ここで嘘なんて吐こうものならば、見限られてしまうかもしれない。
仕方がない。これはまだ誰にも知られたくなかったのだが…。
「…だって、あの二人も入学できるところにしないといけないもの。」
カナのいうあの二人。
その言葉で思いつくのは、やはりあの双子で…。
初音は考えが纏まると、自然と微笑んでいた。
「…ふふふっ、お姉ちゃんも大変ですね。」
「まあね…というか、これから大変になるんですけど…。特にミイちゃんに勉強させなきゃなので…。」
もし自分たちのような普通入試ではなく、AO入試とかで、大学に入っても、卒業できないというのは寂しいものだ。だからあの勉強嫌いの学力を、卒業できる程度までには育てねば、カナはそんなことも考えていた。
「ふふふっ♪」
「ところで、初音さんの笑顔なんて信也くんに向けているの以外で初めて見たかも…。…あなた、彼以外が相手でも笑うことできたんですね…。」
「普段も笑っているではありませんか…って、そういうことではないですね…。ええ、まあ、心を許した相手には自然と出てしまうみたいです。初めてこれを見た時、沙羅からはあんた誰?とか言われました。」
「そうなんですか?ひどいですね…ふふっ♪」
「ふふふっ、でしょう?沙羅はひどいんです。あんな姑は最悪ですよ。」
そんなことを口では言っていても、初音は笑顔だった。どこか温かいそれ。それが自分たちにも向けられるようになると思うと、カナはこそばゆいと思う反面、とても嬉しかった。
「私たちも認めてくれて、ありがとうございます。過去は色々ありましたけど、お互い頑張りましょうね。」
そして、2人は互いに手を差し出し合い、手を握った。




