小さな約束 2
「何かさぁ、この頃へんなのよねぇ」
少し語尾の伸びるのんびりとした独特の調子で由良が話しているのを横目に、夏迦は井戸の滑車を鳴らして水を汲む。
汲んだ水を天秤棒の両脇についた桶に開け担ぐ。ずしりとした重みが薄い夏迦の肩にかかる。昨日から店の屋内の汲み上げ式の井戸の調子が悪く、店の裏手の井戸から店内に水を運ぶ。
零さぬように慎重に進む夏迦の後を由良がついてくる。
店の調理場の大甕に水を開け空の天秤棒を担いでまた井戸へ。
先程から何往復もしているが、由良は飽きもせずついて回って一人で喋っている。
「何が変なの?」
ようやく大甕をいっぱいにして一息ついた夏迦が聞き返す。
「それがさぁ」
待ってましたとばかりに由良が身を乗り出す。
「お内所にね、新しい子が入ったのよ。でもね、なんだか変なの」
「ふぅん…」
夏迦は首元を寛げて汗を拭きながら生返事をする。
「私達抱え子は店には出ないでお内所で芸事や作法やらを仕込まれるけど、その子はお内所の与えられた部屋から出てこないのよ。部屋も一人部屋で侍女までついてさ」
「楼主様のご親戚でも預かっているんじゃないか?」
「なら、廓のうちじゃなくて、島の外の寮の方に預けるんじゃない?」
確かに、と夏迦も思った。
普通の家庭の娘をわざわざ遊郭で預からなくても、大店の店には島の外に寮を持っている。
上級遊女の療養や家内のものの住まいなどに使われているが、現在は病気の遊女もいないし寮の方に暮らす楼主の家族もいない。
「姐さんたちも知らないみたい」
大抵、内所に上がる子は上級遊女の抱え子となる。
その遊女が親代わりとなって、芸を磨き、教養をつけ一本立ちするまでの面倒を見る。
内所に上がってどの姐さんにも声がかからないのは異例だ。
「楼主様のことだ。何か事情があるんだろ。知らないふりしておいでよ」
「だって気になるじゃない〜?」
由良は子供っぽくちょっと口を尖らせて井戸脇の床几に腰掛け足をぶらぶらさせている。
「また!そんな格好見られたら雪埜婆に叱られるよ」
雪埜婆は抱え子たちの教育係で昔は上級遊女だったらしい。
雪埜という綺麗な名前に似合わぬキツイ物言いの女で、抱え子たちの中では炭埜婆と陰口をきかれている。
「雪埜婆は昨日っから島の外にお使いよ。鬼の居ぬ間によ」
「由良!」
途中から由良を黙らせようとジタバタする夏迦に気付かず由良の背後に仁王立ちで立つ雪埜婆に由良は飛び上がって床几から転げ落ちた。
「あんたって子は何度言ってもわからない!普段が整わなければ咄嗟の時には地が出ちまうんだよ!」
「ひゃ、ひゃい…」
転げ落ちた時に舌でも噛んだか、変な声で返事をして由良が立ち上がる。完全に腰が引けている。
「おいで。あんたにはたっぷり灸を据えてやろう。あぁ、夏迦。楼主様がお呼びだよ。」
首根っこを抑えられ、半ベソで奥に連れて行かれる由良にそっと手を振って夏迦は内所に向かう。
珠州の大店は二つの玄関を持つ。
陸に開けた表門と人工湖に面した水の戸である。
大抵は中庭を囲んで大きくロの字に建てられており、表門に面した地階が酒舗となっている。
中庭を挟んで水の戸側の地階が遊郭の本玄関である。
つまり表門から入っても酒舗だけで帰ったか、本玄関から遊郭に上がったかは外からわからない構造になっている。
ロの字の横の部分は酒舗の厨房や従業員たちの生活の場になっている。先程、夏迦たちがいた場所だ。
楼主の住まい、所謂内所は水の戸側の地階にあり、客と遊女の出入りが管理できる位置である。
内所といっても、奥向きの本当の住まいと遊郭の差配をする表向きの場所に分かれており、楼主は大抵表向きの場所にいた。
「呉宇沙様。お呼びですか?」
夏迦は裏戸の土間から声をかけた。
下働きが座敷に上がることはない。
「夏迦かい。ちょっと上がっておくれ」
異例のことにモジモジと尻込みしていると、板戸がからりと開いて楼主が手招きした。
「雪埜婆はいないよ。大丈夫だからお入り」
珠州随一ともいわれるこの嘉月楼の楼主呉宇沙は銀髪を丁寧に撫で付け、銀の細枠の眼鏡をかけた三十路絡みの男である。
いつも笑みを浮かべているような細い眼も銀、優しげに見えるがこの若さでこの遊郭を切り盛りしているからはただの優男ではない。
真実はわからないが、耳を疑うような怖い話の二、三は夏迦でも使用人たちの噂話で聞いている。
「実はねお前に頼みたい仕事があってね」
穏やかな口調だが断られるとは微塵も思っていなさそうなのがやはり怖い。
「何、簡単なことだ。ある品を届けて欲しいのさ」
呉宇沙は懐から重みのある金袋を小机の上に置いた。
「女の子の格好をして」
夏迦はその言葉に固まって思わず伸ばしかけた手を慌てて引っ込めた。