寮の部屋にて・夜の告白
砂漠の魔法使いは箒ではなく絨毯に乗るのだが、都市上空の飛行は禁止されている。
熱射された砂やサバンナの上を悠々と風を切って横切っていく姿を極稀に見かけるが、おそらく伝令のような職種なのだろう、王宮の高い塔へと急ぎ消えていくのが見えた。その空路だけはどうやら許されているようだ。
明かりに照らされて、塔に近づいたときだけ見えていると考えたら、実際はもっと飛行しているのかもしれない。
空を飛ぶ魔法に恵まれたなら、この仕事楽しそうだなあ。連絡水晶や他の手段もあるだろうに、手紙を手渡しすることに情緒を感じる。
世界のあちこちを駆け巡って王宮に帰って行くって、この世の全てを手に入れた気分になれそう。
螺旋状の階段を降りて暗い校舎の中を通り女子寮に戻ると、入り口カウンターにいる寮母に呼び止められた。誰も居ない昼は部屋の掃除をしているにせよ、夜は形ばかりの門限を守らせるためにいるような人だ。世話係が本懐といったような寮母さんの目だが、本気で盗もうと思えば、赤子の手をひねるようなものだった。何せ寮生は魔女ばかりだ。
「ユウ=レイちゃんが探していたわよ」
「ごめんなさい、外出していて戻るのが遅くなりました」と頭を下げながら、何か言わなきゃいけないことがあった筈だったと思考を巡らせる。口をつぐんでいる間に「どこか探しに出たみたい。私はここから動けないけど、どうする?」と答えを求めるように言われてしまうと、続けたかった先を忘れてしまった。
何を頼もうとしていたんだっけ?
暗にユウを探しに行けと言われているのか、部屋に帰るならユウが戻ってきたときに先に伝えて宥めてあげようか、それとも自分の寮母としての立場が悪くならないように伝えただけ、といったような意味だろうか。
相手の発言意図の可能性を色々と考えるうちに、自分の考えを忘れてしまうのは私の悪い癖だった。
言いたいことを後回しにしてしまう、受け身な私。
こういうところも変わりたかったのに、変われない駄目な私。
「夕飯も取っていない筈って、ユウちゃんが」
そうだ、果物の取り置きをお願いしようと思っていたんだった。
こちらからお願いするのではなく周りに気遣われてしまった。ユウは、いつ気が付いたのだろう食堂に私の姿が見えなかったからだろうか。
ごめんなさい、ありがとうございます、といつもそれしか言えずに情けない。嘘の気持ちはないんだけど、事態に対して積極的に関わって果敢に挑んでいけない。あの能動的なお姉ちゃんがいなくても、私は……。
「はい、これ食べてみて」
「何ですか、これ」
差し出されたのは壺に白い布で蓋をされた小瓶。
手にとってみるとずっしり重く、微かに花の香りがして生命力を感じる。
「砂漠の木から取れる蜂蜜よ」
蜂蜜とはなんぞや?
お礼を言って落とさないように蜜の壺を大切に腹に押し付けつつ抱え、階段を上がって私達の部屋に急いだ。芳しい香りが私を誘っている。好きな味だという予感がしていた。そう、私は人間より鼻も利く。
ベッドの上に腰掛けて待ちきれないように布を剥いでしまうと、とろっとした琥珀色の樹液のようなものが壺いっぱいに満たされていた。なんて蠱惑的な見た目だ! 縁に口を近づけて壺ごと両腕を持ち上げた。粘り気があるので半透明の液体は傾けてもなかなか口元まで降りて来ない。焦れったい。
「あー、おいしい……!」
やがて流れ出てきた甘さに至福の声が漏れてしまう。
全部食べずに取っておきたいけど、我慢できずに平らげてしまいそう。
こんなに美味しいものを知らなかった……!
少しずつ舐めては温存したくて口を離すが、残った後味の変化さえ楽しめた。馥郁たる香りも鼻孔に残る。本当に素晴らしい。
ひとしきり感激していると、漆喰の壁に囲まれた木製のドア枠がきしむ物音がして、ユウが部屋に入って来た。忘れていた、彼女も外出先不明になっていたんだった。
「お帰り、探しに出てくれてたんだってね、ごめんね先に帰ってた。……ねぇ、これとっても美味しい。ありがとう!」
小さく微笑んで見上げると、ユウは1人で過ごす時間を期待していたのか、予期せぬ部屋の住人に軽く驚いたようだった。物思いに耽っていて私が戻っていたことにも最初気づかなかったらしい。
その様子から、私だけを探すために夜を費やしていたとは到底思えなかった。
よく考えてみれば双子2人1セットで考えられていた私達とは違い、ユウは実家から離れて暮らしている上、初めて寝室を共有するなどの庶民には分からない気苦労があるはずなのだ。夜間でさえすぐ隣の部屋にメイドが控えていた環境だった、とはいえ一応は学園内での権利は同等との建前のある私との共同生活になる訳で。
「良かったですわ、お気に召したのね」
他人の存在を一度認めると、貴族令嬢として育てられた彼女は素早く態度を切り替えたようだった。ね、美味しいでしょう、と子供をあやすような優しい声色を発しながら中央に近づき、自分のベッドの上に倒れ込む。
彼女も上の立場でしか人生を経験して来なかった戸惑いや困惑があるんだろう。私はその逆、お姉ちゃんのいない1人の生活を初めて手探りしているんだ。
「私を探して疲れちゃった?」
デコラティブピローに顔を埋めたまま、ユウは頭を振った仕草で返答した。長い波打つ銀髪がベッドの上に均等に広がる。こうした所作までとても優雅だ。髪をかき分けてコルセットに包まれた背中上部を撫でさすってあげる。
「ちょっと――図書館に行って参りましたの」
勉強をしたから疲れた、と示唆したいようだ。混乱した様々な思いで占められていて、あまり話しかけて欲しくないのだろう。その1つに私が見つかったという安堵がかろうじてあるくらい。
背中に手のひらを添わせたまま、精神回復の魔法が使えたらなぁと願ってみた。私の悩みは魔法を発現できていないことくらい。もちろん切実で、自分の才能を疑ってしまうほど自尊心まで傷ついてはいるが、エルフの血からすると、魔術学園で勉強を続けてさえいればいつかは覚醒できるとどこか楽観的でいられる部分もあった。いわば留学みたいなもので、最初はつまづいてしまったりすることも仕方のないこと。
今できることはコルセットを外してあげることくらいだろうけど、さすがに本人の同意なくできない。あんなに窮屈そうなもの、よく貴族令嬢は好んで身に着けるよね。本当に分からない。
お姉ちゃんともきっとまた違う種類の悩みだ。この年頃にまでなれば、たとえ血肉を分けた姉妹であっても腹蔵なく話すなんてことはしないし、相手は相当高貴な身分である。学生という今だけの仮身分で下の階級の見聞を多少広げつつある…とはいえ、生まれ育った場所から完全に切り離されて異文化から学び取りつつある私よりも根幹は揺らいでいないだろう。ではこの学園で何に直面しているのだろうか?
私から仕向けたとしても、それを口実に易々と直情的な訴えをしてくれるとは思えない。人間はエルフ以上に複雑で社会的な見えないしがらみを背負って生きてきたと察せられたから。きっと私と同じで説明するのも面倒臭いだろう。何しろ私には何も知識がないんだから。
ふかふかしたクッションの1つに顔半分を押し付けたまま、ユウは窓の方へ視線をやる。
「図書館でエルフのことも調べてみましたわ。樹液や蜂蜜がお好きなのね」
これは嘘ではないだろう。けれど、きっと心ここにあらず状態で本の頁をめくっていたに違いない。
勉強しているポーズでも取っていないと長時間居座っている理由を周りに納得させることができなかったからだ。図書館に彼女の愁色の理由がある。明日の放課後は行ってみなければなるまい。そう決心してしまうと幾許か心が軽くなった。
「うん、そう……。ね。ユウの今いちばん食べたい物を教えて」
蜂蜜の美味しさに救われて、いつの間にかユウのことを考えてあげられるくらい前向きになれたのだから、私も同じことをしてあげたかった。自分のことを棚上げしてお姉ちゃんのことを考えてしまう星回りに生まれついてもいる。
あれを食したい、と言われれば市場まで探しに行ってみせよう。週末になれば寮を抜けて王都の商職人ギルド周辺に集まった問屋街へ足を伸ばすことも許可されていた。田舎育ちの私は経済概念が乏しく、ただ純粋に彼女を元気づけてあげたかったので、そうした実際的なことは二の次でこれまで考えが及びもしなかったが。
いざとなれば何かして日銭を稼ぐか、他にしようがなければ、ツケでも週末だけの時間給でも願い出ればいい。好きな子の窮地はこちらまで苦しいのだ。我が身のことより、ずっと――。
世界中を旅行して見聞の広い貴族の引き出しにはやはり感嘆する。私が初めて蜂蜜を口にした同じ驚きをあげることはできないだろうし、私無勢があれこれ心配して図書館で調べてみたところで限界があるが、ユウが自ら欲しいと言ったものでは私のもらった意外な驚きを同じく返してあげられないことは明白だ。
また調べたとて砂漠市場で入手可能なものなのかすら判別が付かないだろうが、学園でいちばん学びたかったことが人間社会への知見なので、ユウが示してくれる僅かな見識さえいつも有難い。
彼女の背中から手を離してベッドに腰掛けた背中を正す。
両手を太ももの上で重ね合わせて真っ直ぐに待機姿勢。
貴族の多い学園では礼法の授業もあった。習熟度別でスタート時点から最下位クラスだったけども。
私の手が背中から離れたことを感じ取り、ユウも長い髪を自らかき上げて起き直った。
相手が良い態度を示しているのであれば相応でしかいられないのが貴族なのだ。
少しずつ私は彼女を理解し始めていた。
「私達の違いはね、支配階級かどうかなの」
話し始めたユウは、ふふっと自嘲気味に笑った。
「王宮貴族と共に一列に並んで、砂漠を横断して鷹狩りすることがあるのね。子供の頃は連れて行ってもらえることもあったのだけど、最近では全然駄目。砂漠に出るには私は大きくなり過ぎてしまった……」
どこか遠い目をしている。少女だった頃に思いを馳せているのだろう。
「あるとき鷹匠に恋をした。……といっても、それなりの身分ですのよ? 一代限りの爵位にも叙せられている方。ご自分の実力で、精悍で、とても素敵なの。私が狩りに夢中になり過ぎると勘付いてからの両親と来たら、寮に押し込んでこうして貴族社会の遊び事とは隔ててしまった。王宮貴族だけが狩猟権利を有するの。だから私達でさえ、ご招待を受けずに勝手に城郭都市の外へ出て狩りをすることはできない。獲物を絶滅させないように厳密に決められているのね」
深くため息を吐く様子も高貴で美しく見えた。
突然、言葉にされた恋という感情。
私にはまだ分からず、ただ聞いてあげるしかできない。
「でもいいの。私の夢はあの方と生き物を育てて、その恵みの中で共に生きていくこと。あの方は鷹を養殖したりウサギやキジを育てたりして、私はドレスの生地になる生き物を飼うの。……そうなりたくて、私はこの学園で勉強して行くのだわ」
一息ついて、更に吐息のように語られた夢は、私には一度も考えたことがなく実現させてあげられそうにもないものだった。
「私がもう一度食べたいのはね、あの方と真昼の砂漠の真ん中でいただいた香辛料の利いた豆のお料理。あの方自身の手で肥育した家禽類が狩猟した夜食のお肉……、エルフのあなたには考えられないことでしょうけど」
例によって伏せたまつげの下から視線を投げかけてくる。
私の大好きなユウは、話者の変更を促すこんな仕草まで完璧だ。
だけど何も言ってあげられなくて、私は黙っていた。
そうしてエルフ種の食性まで見かけるほど書籍に対して向き合っていたような思いに対して、恋を知らない私が一体何を言えるというのだろう。
恋というのは自分に自信があって、その前提の上に相手とこうなりたい欲しいと願わずには居られないような何かなんだろうから、双子の落ちこぼれの方の自分という存在の不確かさにまごついている私では、まだ入り口にさえも立っていない。
私から見れば何もかもを手に入れているように見えるユウにとって、図書室の本だけが現環境で得られる精一杯の糸口だとしたら、なんて一途で健気な思いなんだろう。ご両親もいつか分かってくれる、その気持ちに絆されると思っていたかった。
「恋は心ときめくだけではなく、苦しいのよ。大人になるまで待っていて下さるかしら。……それを思うといても立ってもいられない。無駄な時間を過ごしたくない、1つ1つ素敵な女性になるための授業なんだって」
私には自分の存在、過ごしている今の時間、勉強して得られるはずの未来の時間、相手にもそうした成育歴や夢や希望があって――相手を取り巻く環境の中で、自分が彼の周りにいる競争相手に勝たなければいけないという、その全てが分からなかった。
私にとっては殆どの思考回路が生まれてからずっと双子の姉に占められて来ていて、ようやく逃げ出してきたばかりなのだ。だから真っ向勝負すらしたことがないのだった。