第四章 日はまた昇る
こういう事件が実際にあったとは・・・まさに「事実は小説より奇なり」と実感します
第四章
日はまた昇る
(河本潤の報告)
1981年10月12日(月)
翌朝、私(河本潤)は御手洗と一緒にホテルを発った。7時過ぎだった。ロータリーまで下り道を歩いた。いまだ暑い。が、1週間前の比ではない、早朝なので汗に悩まされない。タクシーを止め、運転手に『下り。パーレビ、タフテジャムシッド』と行き先を伝えた。『下りて行って、パーレビ通りとタフテジャムシッド通りの交差するところで止まれ』と言う意味である。
事務所に着くと先ず8階の繊維部に行き、それから階段で支店長室に上がった。小菅支店長は既にデスクワークの最中だった。私を認めるとソファーを指差した。そして、『今日電話が掛かって来る筈なのだ』と呟いた。イルロジの件で、大阪からの電話かと思った。既に本件は大阪でも大きな問題になっている。セキュリティと大きな賠償金が絡んでいるからだ。また、それ以前にコンプライアンスの問題がある。いずれにせよここで待とうかと、新着のテレックスを読んだ。
随分時間が経過した。何本かの電話があったが、事件には関係のないものだった。支店長の表情で分かる。10時半頃に再び電話が鳴った。受話器を取った支店長は私の方を見た。この電話だと直感した。それから15分近く、電話を通してペルシャ語の会話が続いた。
受話器を置いた小菅支店長は一呼吸置き、私に眼をやった。
「イルロジ社長だった」
声音は静かだった。大阪からではなかった。
「また何か新しい要求でも?」
私は既に心理面で疲労の極を迎えていた。新たな攻撃が加わればお手上げと感じていた。
「いやそうじゃない、本件を収拾したいとの話だった。そろそろ終息すべきだとね」
私は驚いた。一昨日までのイルロジ社長の勢いだ。戦いの手を休めるとは信じられなかった。では、あの時のあの剣幕は何だったのだろう?確か2億円から3億円に違約金を上げると怒鳴った筈だ。
「金額面での提示はあったのでしょうか?」
「元々の要求の半分以下だった」
「ということは・・・幾らでしょうか。1億?」
支店長は顎を下から上へあげた。イラン流のノーと言うジェスチャーだ。
「それでは7500万?」
支店長は頷いた。
「イルロジが一番憤慨したのは、紅忠がイルロジのメンツをつぶしたことだ。お金は2の次、3の次だったって。しかしどこの会社にもマナーを知らず、信頼関係を損なう輩はいる。そういうたった一人の過ちの為に両社の関係が毀損されるのは忍びない、オスガ支店長や他の皆さんが信頼できる国際級のビジネスマンであること位よく承知している。折衝窓口の河本氏も非常に優秀なビジネスマンだ。今までの話し合いで十分にお互いの主張すべきことは主張し合った。従い、全てを水に流して新しい信頼関係を築きたい。今後は、イルロジ経由ならイルロジと、他社経由であるなら他社と、忌憚なく話してくれればよい。オープンマインドが一番だ。お金のことは二の次というイルロジの気持ちを実証するため、解決金を半分以下まで下げたい。早急に手仕舞いしたい、と言った。具体的には7500万だってさ」
「どうして突然1億2500万円も譲って来たのでしょうか?」
脱力感を全身で感じながら私は訊いた。
「イルロジの誠意であり、紅忠を信頼しているからだと。相手が紅忠でなければ徹底的に戦うところであったと」
「しかし、急にそう言われてもどこまで信用出来るでしょうか?」
何か新しい攻撃の手立てを隠しているかも知れない、用心に越したことないと思った。
「何らかの方法で、今から1年以内に解決金は決済されることを保証して欲しいと、新しい商売を通しての支払いは勿論歓迎するところらしい。まあ、例のオナキ向けの契約でヤヒモナのサブエージェント契約でも良いと話していたよ」
「つまり、ヤヒモナの下に入ると言うのですか?おかしいですね、ヤヒモナは最大の競争相手で協調など絶対に出来無いという勢いでしたのに。金さえ入ればその他のことはどうでも良いということでしょうか?でも、7500万円といっても辻部長や大崎部長のところにとっては膨大ですね」
「授業料と言ったところかな。でも、こういう工作費が必要な商売自体が時代遅れで、そろそろ紅忠も脱却しないと駄目だろう。将来は刑事罰の対象となるかもしれない。時代は、この種のビジネスは商社が、いや日本の企業がやって良いのかどうか、という議論になって来ている。多額の工作費は常識から考えてもおかしいが、今まではそれも商売、各国の事情もあるので、と交際費と同率の税金を支払えば事は済んだ。しかし、小豆ビジネスは社会的に許されなくなっている。国相手の商売で賄賂を払って良いのかと、もっとフェアなビジネスを推進する必要があるのではないかと、米国を中心に議論が盛り上がっている。そんなことは君も知っての通りだ」
「長嶋は、彼個人の安全は保障されるのでしょうか?」
「7500万円の支払いを約束するなら、長嶋は何時でも出国できる。安全は保証する。イルロジが責任を持って、関係者を説得すると」
「イルロジが安全を保証するなんて、おかしな話ですね。まあ、いいか。それなら出国は早い方が良いでしょうね」
小菅支店長は頷いた。
「支店長、結局1枚の紙に手書きのサインをしたが為にヤヒモナに6億円、イルロジに7500百万円、総費用は両方を足した6億7500万円の更に使途不明金課税の扱いで50%アップということになるのでしょうか」
私は計算が早い方だが、総額10億1250万円と暗算するのに時間が掛かった。我我の生涯収入の何倍もの金額だ。
「うん、高い授業料だったね」
「長嶋を出国させてから支払わないという手立ては?もう一度値切ってみるとか。またはヤヒモナの分を減らして、全体の金額は上がらないようにするとか」
「河本君も威勢が良いね。しかし、君自身が分かっているだろう、そんな姑息な手段が通用する相手ではない。そんなことをやれば次は河本君が拉致されるよ。それに、今までイルロジから掛かってきた電話でのやり取りは、全て先方で録音されている筈だ。そう考えておいて間違いないだろう」
「そうですね、失敗が失敗を呼ばないようにこの辺で幕を閉じるべきでしょうか」
「長嶋君名で明日のフランクフルト行きを予約するように手配を頼む。畑守君の分も必要だ。私はこれからアポイントがあるので出かける、2、3時間ほど掛かりそうだ」
「出発予定時刻は明日の18時だったですか、15時には空港でチェックインですか。私が空港まで見送ります」
「ここまで来たついでだ。明日の夕刻はアポが入ってない。私も見送ろう。ところで長嶋君の状態はどうか」
「相変わらずですが、少しは落ち着いてきたようです。畑守君が常時傍にいます」
「元気のいい青年だったが、今回は、好事魔多し、と言うことだろうか。こんな事件は忘れきって、日本に戻るのが一番だね」
「イランに居る限り、長嶋君も休まることがないでしょう。でも、帰国したらしたで、居心地が悪いでしょうね。針のむしろ状態にならなければ良いのですが」
私が針のむしろと言ったのは無論会社での話だ。長嶋には、奥さんも生まれたばかりの赤子も居る。家庭に帰れば落ち着く筈だ。しかし、紅忠社内ではどうだろうか?良いも悪いも信賞必罰が徹底した会社だ。私は長嶋の上司の辻部長を思い浮かべた。長嶋ひとりの責にして自らに火の粉が掛らないようにはかるだろう。『出張前にもあれだけ注意したのに、会社にも俺にも迷惑を掛けやがった』と審判が下されるのだろう。長嶋はさぞかし肩身が狭いだろう。いや、現実には紅忠に居場所がなくなるかも知れない。せめて長嶋に開き直れる根性や図太さがあれば良いが、そんなのがあれば事件も起こさなかった筈だ。小菅支店長は、私の考えていたことを察したのだろう、厳しい目で私を見つめた。
「長嶋君は、会社に迷惑をかけたと後ろ指も指されるかな。河本君はそう危惧しているのだろう。多分、その通りだろう。でも、厳しいだけでやり直しの利かない会社は嫌だね」
支店長は何時かの御手洗と同じく長嶋に同情的だった。
「しかし、これは他人ごとじゃない、我我だって自戒しないと」
本当にその通りだ。私も初めて長嶋から話を聞いた時憤ったのを覚えている。小豆ビジネスに加え2重契約と、こいつは碌な奴じゃないと憤った。と、話は私自身のことに飛び火した。
「実は、昨日辻部長から電話を貰ってね、その時河本君のことも話の中に出て来たよ」
「多分、良い話じゃなかったでしょうね?今からいうと3日前ですが、ラシッドに行く前に私と辻部長との間でひと悶着ありました」
「そうらしいね。
『長嶋は論外だが、河本君も何も分かっていない』
と嘆いておられたよ」
「私も熱くなって言い過ぎたかも知れません。でも現場を御存じないのに不満や非難ばかりで、あれでは長嶋君や畑守君も気の毒です」
「そうか。辻部長は
『私だって言いたいことは山ほどある。でも、組織を運営するのは簡単なものじゃない。河本君は若くて分かっていないが、小菅支店長、よく現場でご指導お願いします』
と、矛先が私のほうにも来そうな勢いだった。小豆が絡んでいるだけに本社でも騒動になっているのかな。帰国すれば長嶋君は槍玉に挙げられるだろう」
「支店長、それが心配です。長嶋君が精神的に参っているのはご存知の通りです」
「でもね、これは長嶋君個人の問題じゃない。今の紅忠では、何時、誰が同じような不祥事をおかしても不思議ではない」
支店長は表情を和らげ、和やかに話を続けた。
「それに、人って誰でも何処かで失敗している。私だって、河本君だって、そういう経験があるのじゃないかな。仕事が忙し過ぎてね、紅忠マンになった分、お互いちょっと一般常識が不足しているし」
その口振りに外連味はなかった。私は答えに窮した。確かに私は人のことをどうこう言える身の上ではなかった。支店長は話を元に戻して続けた。
「大阪本社や栗田総支配人にも連絡を取って、本件はこの線で必ず決着をつけたい。我我に分がある話ではないからね。どこで妥協するか、落とし所をどこにするか、の話だ」
その口振りから本社を既に説得したのだろうか?昨日も辻部長と連絡を取っている。温厚だが凄腕と評判の支店長である。
「それでは出かけて来る。河本君、なにか起これば、本件に関してだが、御手洗君に連絡頼む」
部屋から出る時に小菅支店長は後ろを振り向いた。そして、人差し指と中指で碁石を打つ真似をして、もう一度笑った。
「これだけ忙しいと、君とのハンディは縮まらないね。手合わせは8月の1回だけでお預けか。せっかく君が来たのに腕を磨けなかったよ。帰国前に時間があればもう1回教わりたいね。そうそう、それから今晩は空けておいて欲しい。どうせイルロジとは最後の交渉がある筈だ、これは私の勘だけど」
支店長が出かけたあと、久し振りに自分本来の仕事に戻った。夕刻に長嶋を見舞い、皆と一緒にいつも通りの夕食をとった。それから支店長宅に行き待機した。支店長の想定通り、当日の午後11時頃にイルロジから至急会いたいと連絡が入った。そして真夜中になってイルロジから社長、チリウイア副社長、他1名の計3名、それに小菅支店長と私とで某所で延々と最後の交渉が続いた。最終的に決着を見たのが午前4時半、その内容を詳述すると一つの物語になってしまう。私はくたくたになった。小菅支店長の眼も充血していた。商社マンの平均寿命が短いのも道理である。予期せざる最後の交渉で、しかし、紅忠にとって相当有利に最終的な合意を見た。まるでサーカスの綱渡り的な難しさだった。ビジネスの交渉は、土壇場になれば、団体戦でなく個人戦の要素がある。支店長の、あの交渉力は、一体どこにエネルギーの源泉があるのだろうか。
1981年10月13日(火)
私達は午後3時前に空港に到着した。
空港は相変わらず混雑していた。イ・イ戦争のただ中で便数は戦前の10分の1以下に減ったと思われる。また、空港は攻撃目標となる。政府は安全の為、送迎者の空港周辺への立ち寄りを制限していた。しかしそれでも次第に慣れに染まり、鈍感になり、人々は集う。見知らぬ我我にも話しかけて来る人たちがいる。ドイツに住む家族に送金して欲しいとか、この手紙をドイツで投函して欲しいとか、連絡の途絶えた家族を気遣う人達が話しかけて来る。
群衆の中には、相当数の女性もいる。政権が代わり宗教色が強まるにつれて外出も規制され、スカーフから髪の毛が見えるのも非難されるようになった。が、元々は活発な女性が多く公共の場でも黄色い声をあげていた女性たちだ。黒色のチャドールの下には、ジーンズを着け、ファッションに関心があるのは革命前と変わらなかった。
一時は空爆も受け数十人単位で何回か死傷者も出た。その為ひっそりと人気のない空港になったが最近では混雑も激しくなっている。出発時刻の2時間どころか3時間近く前にチェックインしないと搭乗があやしくなる。少しでも遅れて到着すると座席は他の乗客に取られてしまう。『予約よりもお金という袖の下』が優先されるお国柄だ。
長嶋には畑守が付き添い、ルフト機でフランクフルトに向かうのだ。長嶋は相変わらず眼の焦点が合わないような顔つきだった。反対に畑守は口を頻繁に動かし、我我に何度も頭を下げ、長嶋の分の礼も言った。
「畑守君、日本到着は何時頃になるのかなあ」
支店長が畑守に確認していた。
「長嶋君、帰国すれば旨い刺身が食えるぞ」
私は長嶋と握手しながら言った。と、長嶋が軽く頷いた。私達の方を向いた長嶋の眼と口が『ありがとうございます』と動いたように見えた。そうだ、何時までも続く禍なんて聞いたこともない。障害にぶつかって沈んだとしても、底にコツンと当たれば、後は浮き上がるだけだ。私も頷き、長嶋にニッコリ微笑んで手を振った。
「もう大丈夫だ、ご苦労さん」
と今度はポンと畑守の肩を押して別れを告げた。
私達は2人がパスポートコントロールの向こうに消えるまで見送った。支店長も私も簡単な晩飯を取っただけでイルロジとの交渉、今朝には元々決まっていたアポイントと、今まで睡眠すら満足にとれなかった。
「ちょっとその辺でなにか胃袋に入れようか。君は若い分腹も減っただろう」
「やはりフライトが離陸するまでおられるご予定ですか?」
「ここまで来れば1時間、2時間を惜しむ理由もないからね」
体の芯まで疲れていたがほぼ24時間ぶりの本格的な食事だった。ラム肉のステーキと大盛りのご飯の組み合わせだ。ご飯には卵の黄身、スライスした生の玉葱、焼きトマトと四角いバターが添えられている。イランの代表的な料理、チェロキャバブだった。バザールの食堂に行くと毎日この料理しか店は出さない。座れば自動的にチェロキャバブが出て来る。イランの定食中の定食と言ったところだ。イラン人は飽きもせず毎日でもおいしそうに食べている。ラム肉は柔らかった。適度に脂も乗っている。疲労で体が宙に浮いているように感じたが、食事は全てたいらげた。ともかくイルロジの件はほぼ一段落ついたのだ。
「今日は眠いと美味いが同居している感じだね。昔ならちょっと一杯と、ビールを口にするところだ」
支店長は人懐っこく笑った。さすがに公衆の面前ではアルコールをたしなめない。美味いと口では言いながら支店長は半分以上食べ残した。
それから1時間半ほど経過した。私達は送迎ロビーのガラス越しに滑走路を見ていた。いよいよ当該便が滑り出した。B747である。私はルフトハンザ機の特徴のある濃いブルーがかったロゴの付いた機体を目で追いかけた。滑走路の端で左旋回するとそのままノロノロと離陸態勢に入った。それほどスピードが乗っているように見えなかったが、機体は前部から順にユックリと宙に浮いた。
「これで一件落着でしょうか?」
フライトが今まさに飛び立ったのに、安堵感はなかった。突然の結末だった。長嶋の安全を模索し、漸くそれが保証され履行されたのだ。しかし、仕事を仕上げた充実感はない。私の中で疼くのは疲労感に加えて脱力感と無力感だった。どことなく釈然としなかった。チリウイア副社長は特に手ごわかった。が、気が付いた時、事件は突然決着していた。
「終わったのだろうね」
青空に小さく消えて行く機影を眼で追い掛けながら支店長は同意した。
私達は空港ビルの扉を押して、照り返しの強い夕陽を受けながら駐車場に向かった。
「ハッジ モガダムご苦労さん、行こうか」
いつの間にか支店長の運転手が後ろから歩調を合わせていた。運転手のモガダムは紅忠テヘラン事務所の生き字引だ。事務所開設以来、全所長に仕えている。一度念願のメッカ巡礼を終えたので名前に『ハッジ』と尊称を付けて呼ぶ。寡黙だが一番紅忠に愛着を持っているスタッフだろう。
真夏の酷暑とは違う乾燥した爽やかな風が肌を撫ぜた。もう10月も半ばだ。透明な空気が肌になじむようになった。私が出張でイランに来て、早や5ヵ月半経過した。長嶋事件のフォローを集中的にしてからでも10日間以上経過した。結局何も有効な手は打てなかった。ヤヒモナにはビジネス面でも、その後の処理の面でも世話になるばかりだった。私の方は交渉らしい交渉も、抵抗らしい抵抗も出来ず、イルロジの揺さぶりに右往左往しただけだ。所詮商社マンとしての実力もこの程度だ、と自嘲した。ヤヒモナ社長がいなければどんな結末になったのだろう。そのような私の気持ちを察してか、小菅支店長は
「いずれにせよ、河本君にはご苦労さんだった。君がいないと、どうなっていたことか。もっと手こずっただろうね」
慰労されるとかえって気持ちが沈んでしまった。雑魚が飛び跳ねても河の流れは変わらない。脇役がセリフを間違えても舞台は進行する。どうせ大した役割は与えられていなかった。が、その些細な役割すらこなせなかったのだ。その点、主役は・・・主役は・・・何かがおかしいぞ、一体この事件の主役は誰だったのだろう?イルロジ社長が主役?田舎芝居じゃあるまいし、ギョロ目で大声を出していただけだ。脅しが得意技なら高が知れている。チリウイア副社長?ねばっけがあり、タフだった。が、違うだろう。主役、主役?私はこの間、混沌としていたものに改めて意識を集中した。底流にうごめくものを掴もうとした。
その時、私に突然閃いたことがあった。思わず大きな声が出てしまった。
「小菅支店長、ひょっとして」
「どうしたのかね?」
私の心臓はドッドッと音を立てて駆け出しそうだった。
「はい、いま思いついたのですが、まさかイルロジとヤヒモナは、裏で結託していたと言うことはないでしょうか?」
「なるほど。が、どうしてそう思ったのかね?」
支店長は歩みを止めず静かに訊いた。夕日を面に受けた支店長はいつも通りのゆったりした口調だった。一つの事件が解決し最早空港にいる必要はない、過去の事件を振り返る時間もない。私の推理を聞く必要もない、と言い出しかねない表情だった。長嶋事件は解決を見たのだ。オスガ構想を核にして、その周辺に重要な案件が5指に余るほど待ち構えているのだ。無駄に費やす時間はないのだろう。が、私の方の気持ちは治まらなかった。私は声高に訴えずにおられなかった。
「そう考えると辻褄が合うことが多いのです。例えばコモドールホテルに別別の名前で2室予約したでしょう、その情報をどうしてイルロジは容易く知ったのでしょうか?私はホテルの従業員がイルロジに通報したと思っていました。また、長嶋を密かに出国させようとした時、どうしてイルロジ一派は空港で待ち伏せ出来たのでしょうか?更に、ヤヒモナ社長の別荘にかくまった時、誰がそれを密告したのでしょうか?表面的には佐藤駐在員の失言、早とちりです。しかし、本質はそこに無いと思います。イルロジに強力なネットワークがあったとしても、情報が漏洩するスピードが速すぎました。我我はイルロジに脅され、長嶋の命にかかわる問題だと動転し、全ての事実を貫く一本の糸に気付かなかったということはないでしょうか?我我のとった方針と行動を全て事前に察知出来た人物がひとりだけいます。それは、ヤヒモナ社長です。ヤヒモナに相談を持ちかければ持ちかけるほど、我我の不安は増長されました。ごく自然に、さりげなく恐怖心を植え付けられたので、我我は気付かない内に判断力が鈍ったのです」
支店長は私の方を振り向いた。夕日が当たるので眩しそうだった。メガネの奥の眼を細め立ち止った。
「つまり我我はヤヒモナ社長の書いた筋書き通りに踊らされたと言うことかね?」
声は落ち着いていた。
「今になって考えると、そう解釈すると全ての辻褄が合うのです。イルロジが火を付け、ヤヒモナが火消しをする。両社でマッチとポンプの役割を分担して、我我から絞れるだけ絞り取る。最初は別別に、競争相手としてこの案件を追いかけていたのかも知れません。ところがある時点で紅忠が二股を掛けていたことに気付いた、明らかに2重契約である、しかもイルロジとは独占契約を紅忠の同一担当者が締結していた。それを知った時、2社は小躍りをして喜んだかも知れません。金の匂いには最も敏感な手合いですから。そこまで来れば、あとは状況に合った筋書きを作るくらい、彼らにとっては容易かったでしょう」
私の仮説は話している間に確信に変わった。細かなところでは誤謬もあるかも知れない。が、大枠は間違っていない筈だ。すると、小菅支店長はコックリと頷いた。
「そうだね、私もそう思った。大阪の辻部長にも同じような趣旨で説明を入れておいた。これで辻部隊も今回はただ働きだろう。仕方が無いね、部下の尻ぬぐいだから。でも私の説明を聞いて辻部長は嘆いていたよ、
『儲けが無くなりましたがな』
って。しかし、辻部長や大崎部長はしたたかだ。ただ損をするだけというのは考えにくいね。転んでもただでは起きない御仁達だ。また多少損が出たとしても身から出た錆だろう。長嶋君は酷い目に遭ったが、我が社から訴訟に持ち込める理屈でもない。結局のところ、交通規則を守らず罰金を払うような話だ。闇の世界でさえルールがある。最初にルールを破ったのは紅忠だ。違約すりゃただで済まないのだから、多少の出費もやむを得ないだろう。栗田総支配人もとっくに了承済みだ」
私の頭は空白になった。いつ辻部長と連絡を取ったのかを聞く余裕も失っていた。余りにもショッキングな説明だった。小菅支店長は仕組まれた筋書きに気付いていたのだった。
「しかし、河本君の頑張りのお陰で授業料が軽減された。紅忠にとって結局利益の多寡が一番の関心事だ。ヤヒモナやイルロジもこの辺が手の打ちどころと考えたのだろう。彼らも商売人、特にヤヒモナ社長はスマートだ。我我をとことん追い詰めたりしない。土俵際の交渉では、君の手腕は大したものだった。迫力もあったよ。
最初、彼等が裏で組んでいるのかどうか確信を持てなかった。金の匂いがお互いを引き寄せたのだろう。きっかけを作ったのは長嶋君の方、つまり、我我の稚拙な行動が原因だ。でも長嶋君をカスピ海の別荘から連れ戻し、その直後にヤヒモナ社長と会った時だ。何となく話のつじつまが合い過ぎると感じたのだ。どうも誰かが準備した筋書きがあるのではないか、その筋書き通りに我我は踊らされているのではないかとね。ヤヒモナもイルロジも紅忠を入れた3社会談は避けていた。競争相手を貶し、敵愾心を持っている素振りを見せる。互いに最大の競争相手だと思わせる。一つ一つは自然に見えたが、どこかワザとらしい。それからもう一つ思い出した。長嶋君の報告によればイルロジ社長はこの種商売で『当然のことながら競争相手にも配慮する、競争相手に勝てば良いと言うものでもない』と言っていたらしいね。ヤヒモナは結果として成果をイルロジから分捕った。イルロジですら考慮する気配りくらい、数段上手のヤヒモナなら当然出来るだろう、『勝てば良いというものでもない』のだから。そこでルールを守らなかった紅忠からペナルティを分捕る方策を考えたのだろう、イルロジの為にね。それが成功すればヤヒモナの懐は痛まない」
私は言葉を失った。ただ頷くばかりだった。
「そこで私は芝居を打つ決心をした。私は迷わず河本君をこの件の担当にした。同じ繊維畑だし、ものに動じない。一番適任だと思った。同じようにヤヒモナ社長も彼の右腕を起用するのではないかと踏んだ。社長のそばに、いつも用心棒兼秘書長としてくっ付いているチーホル秘書長を覚えているだろう?若いがスマートで、見た目は温厚でもある。ヤヒモナ社長は彼を買っているのでいつも傍においている。が、もし重要な案件があればチーホル秘書長を連絡員に起用するのではないかと考えたのだ。機転も利いて忠誠心もあるからね。我我が長嶋を急遽国外逃亡させようというアイデアを出した時、あの時は咄嗟のアイデアだが、ヤヒモナ社長も反対できなかった。その時、チーホル秘書長は社長の命で中座して外出した。ヤヒモナの説明通りなら、前から決まっていた大切な商談の為だ。しかし、あれは嘘っぱちで、チーホルがイルロジに通報したのではないか?ヤヒモナ社長自身は動きが取れなかった。我我が居たからね。が、イルロジに一刻も早く連絡する必要がある。まあ、彼等にしても筋書きを書き切れていない芝居のようなものだからね。ヤヒモナも時間との勝負で、その場の作り話で対応する必要があった」
確かにあの日だけはチーホル秘書長は会議の席から中座した。私は自然に受け止めたが、小菅支店長は疑ってかかっていたのだ。
「そこで先ほど言った芝居だ。いや向う見ずな博打かも知れない。実は私は博打って殆ど知らない。しかもこの博打は相手の本拠地、相手が運営するカジノでプレーするようなものだ。私は短期決戦しかないと思い、一か八かの勝負を、その時、その場の交渉に賭けることにした。無論、相手に芝居を演じに来ましたとも言えないだろう。だから河本君経由でもっともらしい『ビジネス拡大会議』をアレンジして貰ったのだ。会議が佳境に差し掛かった時、私はヤヒモナ社長に
『少し相談したい事があります。なあに、ここでも良いのですがね』
と周りを気にしている風をみせた。スマートなヤヒモナ社長は私の意向を察し、隣の社長室に案内した。会議室との仕切りのドアは開けたままだった。こうして2人だけで話が出来るようになった。社長は私が何を言い出すのか検討つかなかったはずだ。
まず、私はペルシャ語で今までの協力のお礼を丁重に謝した。それから声をひそめた。
『あなたの片腕のチーホル秘書長でしたか、チーホルさんはイルロジとおかしな時間帯にコンタクトを取っていますね。ご存知でしょう、副社長のチリウイアを?長嶋を空港に送ろうとした日にもチーホル秘書長は特別多忙だったですね。実はチーホルさんとイルロジのチリウイア副社長がコンタクトしているのを偶然知ったのです』
と、かまを掛けた。そして、じっと相手の眼を見つめた。あの時ヤヒモナ社長は我我と終日行動を共にしていた。連絡係はチーホル秘書長しかいなかった。また、チーホルが連絡を取るなら副社長のチリウイアだろう、と考えた。証拠が不十分なところは眼にものを言わせるしかない。私はヤヒモナ社長から眼をそらさなかった。気迫を込めての勝負で、文字通り短期決戦だった。
暫くの沈黙の後、私は相手からある種の感触を得た。そこでニッコリ笑って言葉を継いだ。
『もうそろそろ決着させましょうか、我我の方にも限度がある。私が本社を説得しても、いいところ出せるのは7500万円です。5000万でも本社には抵抗が大きいと思いますよ。でも、私が責任を持って説得します。この商売のボリュームは決まっています。売値も上げられません。だから出したくてもこれ以上の原資が無い。ここで手を打ってくれれば、これからの新しい商売でも協力し合える余地が残ります。隣で進めている共同会議が証拠です。社長がご覧になっても、我我と提携すれば、新しい可能性が掘り出せると思われませんか?それともイルロジに、河本出張員相手に丁丁発止と続けさせますか?ビジネスのことですから、長期的にお付き合いした方がお互いのメリットでしょう。あなたの手元には約束通り6億円残るのだから。イルロジを説得して下さい』
と相手の小耳に入れた。
『私は本件に関して会社の全面的な委任を受けています。着地点を何処に置くかは私に一任されています。でも今日は最初から手持ちのカードをすべてお見せしました。駆け引きはしていません。社長を信頼しているからです』
と言いながら、なおも相手から目を離さなかった。
ヤヒモナ社長は一瞬考え込む風だった。迷いも見えた。しかし、咄嗟に方針を決めたのだろう、私が口をつぐむと社長はニッコリと頷いた。そして
『了解しました。解決の為一層努力しましょう。オスガさんにこれ以上のご心配をお掛けしないようにします。ご安心ください。その代わり、テヘランの地下鉄案件か火力発電プロジェクト、どちらか一つはご一緒出来るようにご尽力お願いします。また、将来幅広く協力し合えますように。私達はこれから末長くお付き合いしたいと希望しております』
と答え口元を和らげた。遠くの君からは何の話か推察さえ付かなかっただろうね。彼は最後まで役者だった。
私は念押しした。
『紅忠のスタッフに落ち度があったかも知れません。しかし、貴社経由の初めての契約です。それがトラブルの種となったなら我我の足も竦んでしまいます。これからのビジネスの為にも一番大切なポイントです。イルロジ社長を説得してください』
つまりヤヒモナにイルロジを説得せよと言ったのだ。ヤヒモナ社長は大きく頷き、強く握手した。
『オスガさん、すでに申し上げた通りです。ご安心ください。7500万ですね?約束は守ります、明日の午前中までお待ちください』
彼はそういってもう一度にっこり笑った。そして拉致の件についても説明があった。
『そうそう、長嶋さんがひと晩拉致された件についてご報告します。あれは余りにも度が過ぎた仕掛けというか悪ふざけでした。私からも厳重に抗議しました。誰に抗議したかは申し上げる訳に行きません、どうかご容赦ください。一つご報告します。あの時彼らが準備したのは長さ10センチ足らずの金属パイプ1本とロープ、それに録音再生機、照明ランプ、それに大きなスピーカー、何枚かの毛布、そんなところだったらしいです。倉庫選びは簡単です。長嶋さんは恐怖の余り誤解されたと思いますが、本当の武器など使用するはずもありません。タオルで目隠ししたのも実際の仕掛けを長嶋さんに見せないためです。いやいや、それにしても絶対に許されるものではありません。長嶋さんに裏切られたとカッとなり、馬鹿なことをしたものです。もちろん、ヤヒモナは一切関与しておりません』
暴力を使えば我我は逃げ出す。ヤヒモナ社長は当然理解していた。イルロジとは違うね。
私たちが話をしたのは概ねこんなところだ。その後の推移は君も知っての通りだ。実際ヤヒモナ社長が約束した途端、問題は解決に向かった」
小菅支店長は説明が終わると、一人合点したように頷き、このファイルを閉じた。そして新しい案件に頭の中を切り替えたような表情になった。もう私に焦点は合っていなかった。過去を振り返る時間はないのだろう。支店長として検討すべき重要案件が、まさにオスガプロジェクトが、激動の歴史を背景として始動しているのだ。
だが、私の方は、気持ちを切り替えられなかった。大量の情報が突如乱入し、脳味噌をかき回した。私は収拾がつかなくなっていた。
「支店長はとっくにご存じだったのですね」
私は呆然とひとり言のように呟くのが精一杯だった。私には漸く全貌が見えたばかりなのだ。いや見えたというより、教えて貰っただけなのだ。同じ舞台で芝居を演じながら、肝心の主役がどんなことを考え、自分がどんな役割を演じているのか、私には最後の瞬間まで読めなかったのだ。長い間舞台に立ってはいたが、大根役者そのものだった。
「小菅支店長はご存じだったのに、現場にもっと近い私は何も見えていなかった、ということでしょうか?」
私のひとり言は続いた。と、他の案件を考え始めたためか、小菅支店長は私の呟きの意味が分からなかったかのように不思議そうに私を見た。答える前に間を置いた。何について答えるべきかと、問いかけるような表情で私を覗き込んだ。それから一瞬の後にはいつも通りの柔和な口調で答えた。
「河本君、君は十二分に役割を果たしてくれた。紅忠は手強いと先方は考えたはずだ。前線の兵隊が弱いと戦に勝てない、司令官がどんな作戦を立てたとしてもね。私は何となくこの事件はおかしな匂いがすると感じた。嵌められているのではないかと疑った。しかし、経緯を詳しく辿ったとしてもどうなるものでもない。紅忠サイドに決定的な落ち度があったのだ。代理店契約違反だからね。となれば結局は善後策の問題だ。適切な妥協点というか、着地点を見つけるには、交渉力がものをいう。まずは河本君に前面に立ってもらうのが最善と考えた。で、次第に相手の手口が掴めるようになった。実際、期待通りに話は進み、短時間で解決を見た」
私は益益混乱し、頭の回転は完全に止まった。
「いつ、いつ頃そう考えられたのでしょうか?」
喉が渇きしゃがれ声になっていた。
「いつだったかな?それほど前ではない」
「私は何も気づかず、がむしゃらに動いただけでした」
「いや、そうではない。沈着冷静だった」
と私をなだめ、付け足した。
「私は歳を食っている。語学研修入れると3回目の駐在だ。長らくイランの軒先を借りて商売やって来た。その分、イランが好きだし、良いところも悪いところも少しは見える。それだけのことだ」
小菅支店長は踵を返し再び駐車場の方に歩きだした。もはや私の方を振り返ることは無かった。白髪が少し目立ち始めた後頭部の生え際が夕陽で細く薄紅に輝いた。ハッジ モガダム運転手も並んでいる。2人の遥か彼方、一直線上にイラン富士が見えた。この大休火山は逆3角形の環状の雲をたなびかせていた。久し振りに見る雲だ。ようやく訪れる秋の兆しを告げる鰯雲が3筋、4筋、更に彼方の天空を横切っていた。
- 完 -
参考資料等(敬称略)
一、日本経済新聞 イラン関連記事1977年8月26日~1978年10月31日
二、朝日新聞 イラン関連記事1977年8月26日~1978年10月31日
三、伊藤忠商事株式会社、住友商事株式会社、三菱商事株式会社のホームページの『理念』と『企業行動基準』等
四、イラン現代史日誌 富田健次
五、情報:伊藤忠商事株式会社 駒田敏雄、住江漠、丹羽宇一郎、保津章、武井眞哉、岡崎友信
六、インターネット情報:ウィキペディア
七、イランの人口 8100万人(2020年現在)
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