第二章 フィクサー
交渉力=事象把握力+スキル(≒経験)商社マンの経験を凝縮して掲載しました。
第二章
フィクサー
(河本潤の報告)
1981年10月2日(金)
「河本君、こんなに忙しいと体があと2つくらい欲しくなるね」
受話器を置いた小菅支店長は私(河本潤)の方を向いて笑った。支店長から、長嶋出張員の件で相談を受けたのは朝一番のことだった。
紅忠商事テヘラン支店は日本人駐在員が約15名、ナショナルスタッフが30名ほどいて総勢50名くらいの体制だ。パーレビ王朝が崩壊し、イスラム政権が発足してから3年が経とうとしていた
私はイスラム革命直前のイランに駐在していた。酒も女も金次第だったパーレビ国王時代の末期のことだ。が、イスラム革命が起り、その動乱期に駐在員数を絞り込むことになった。当時、私は特別な『個人的事情』を抱えていた。若い男の特別の事情、つまり、女性問題だった。小菅支店長に願い出て帰国者のリストに加えてもらった。帰国したのが3年前の春で、半年も経たない内に米国大使館占拠・大使館職員の人質事件が発生した。米国が犯罪者パーレビ元国王を匿った、というのが大使館占拠の口実だった。米国は日欧に呼び掛け経済封鎖で対抗した。他方、米国とイランの仲違いを待っていたかのようにソ連がアフガニスタンに侵攻した。翌年にはイラクのフセイン政権が領土問題に端を発してイラン南部に侵攻した。イラン・イラク(イ・イ)戦争の始まりである。イラクを米国が裏で支援しているのは周知の事実だった。怒涛のように歴史的な事件が続いた。
イ・イ戦争は現在(1981年)も続いているが、米国大使館員の解放を契機として、イランに対する日欧による経済封鎖は緩和された。一番の目当ては原油の輸入にあることは言うまでもない。紅忠商事はじめ日本の商社は、この機会とばかりに出張員を大挙派遣した。
紅忠商事の場合、戦略の中心は『オスガ』プロジェクトだった。まず原油を輸入し、その代りに輸出権を確保する、というのが戦略の骨子だった。期待に違わずイラン側は紅忠商事の提案に乗ってきた。原油が売れるなら、とイスラム政権は乗り気だった。
『オスガ』プロジェクト実現の為に、全社で20名ほどの出張員が派遣された。繊維部門だけでも4名の出張員が派遣された。私も、長嶋出張員も、そういう実行部隊の一員だった。
長嶋の担当はアパレル用の織物だった。我我出張員は、戦時下なので、支店長宅や駐在員社宅の空き部屋に滞在していた。食事も一緒に食べるが、お互いに仕事が忙しく、なかなか顔を合わせることもない。
『オスガ』プロジェクトも佳境に入っている。当然支店長は多忙を極めていた。小菅支店長の発案で決まった戦略なのに『コスガ』と言わず、『オスガ』と言うのは理由があった。『コス』という発音はペルシャ語で女陰を意味する。当然イラン人の耳目を引いてしまう。で、会社の最重要戦略が『コス』から始まるのはどうかと修正が入ったのだ。KosugaからKを外せばOsugaとなる。
「河本君も疲れが溜まってきただろう。でも、繊維関係の商売を纏め上げるのは君が適任だ。ところで最近長嶋君と話をしたかなあ」
と小菅支店長は本題に入った。長嶋とは大阪で面識があった。まだ30前で、確かイランには初出張だった。当地で一般的な食事は羊と鶏の料理だ。あいにく長嶋は両方とも苦手だった。刺身が食べたい、漬物が欲しい、と食事の度に溢していた。出張した時に持参した日本食はたちどころに底をつく。無いものねだりを口にしても仕方がないだろう。で、私とはどうも馬が合わない。因みに首都テヘランには魚屋が1軒しかない。日本では馴染みのない魚に毎時間のように水をかけている。魚屋の気持ちはいずこも同じ、活きが良さそうに見せたいのだろう。が、食べると腹を壊すか、寄生虫に終の棲家を提供することになる。焼き魚にする以外にないが、その匂いは当地のひとにとっては独特(死体を焼いた時のそれ?)で顔を顰める。
「長嶋君とは3週間ほど前に話をしたきりです。何かあったのでしょうか?」
「昨日の晩、というか今日の早朝、真夜中の1時過ぎだったかな、突然彼の方から電話があった。『ご報告します、お陰さまで大きな成約が出来ました』と言う内容だった。『それからついでに報告ですが、問題も抱え込んだかも知れません』と言うのだ。私は『今どうしても時間が取れないので、河本君に相談して欲しい』とすすめた。つい、君の名前が口を突いて出てしまった。繊維の話だし、君はここの元駐在員だからね」
支店長の口調は穏やかだった。が、懸念がないなら私を呼びつけない筈だ。長嶋の電話から何か引っかかるものを感じたのだろう。そうしてそういう時の支店長の勘は独特のもので、的をついていることが多かった。
「それは構わないのですが、長嶋君はどんな問題を抱えているのでしょうか?真夜中の1時に電話とは、それなりの事情があったのでしょうね」
長嶋の特徴のある話し方は覚えている。しかし、意外や顔の方はとっさに思い出せなかった。2つ3つ私より年下だろう。度のきつい眼鏡をかけた、細身で長身な若者というのが私の印象だった。
「そうだね、私も気になったので『何か問題があるなら今話せばどうか?』と促した。すると彼は、『いえ、明日になれば解決するかも知れません。夜分遅くに大変失礼いたしました』と丁重に答えて電話を切ったのだ」
「それだけではどのような問題か分かりませんね、今晩私の方から訊いてみましょう」
「ご苦労だが頼む」
夜中に電話してきたにも拘らず、どれほど緊急性があったのか、何について相談したかったのか等等、漠然としたままだった。
「私はこれから外出です。戻りは夜の8時を過ぎると思います。晩飯を一緒出来るように今から長嶋君の時間を押さえます。支店長宅で食事は可能でしょうか?」
「大丈夫だ。私の帰宅はもっと遅くなりそうだ。私を待つ必要はない。晩飯を食いながら長嶋君の話を聞いてやって欲しい、宜しく頼む」
私は事務所を出発する前に長嶋を探した。長嶋は事務所に居なかった。戦時下なので、外出先と連絡先は各人が黒板に記入することになっていた。しかし、彼の箇所は空欄になっていた。まだ出社していなかったのだ。私はメモを残すことにした。『長嶋君、今日、晩飯を一緒にどうだい?私は8時迄に戻るので支店長宅で。河本潤』事務所の受付のキアナにメモを託し、必ず長嶋本人に渡し、確認を取るように念押しした。
夕刻キアナに確かめたところ、間違いなくメモは本人に渡っていた。だが長嶋から返信も電話連絡もなかった。夜9時頃に単身寮に電話を入れた。出張者も泊まったり、食事をしたりすることが多い。だが。社宅にも長嶋は立ち寄っていなかった。そこにいた化学品担当の北村駐在員に聞くと、
「長嶋さんは大殊勲です。超大型の契約をものにしましたからね。どこかでお楽しみじゃないでしょうか。6月頃からの長丁場です。羽目を外したくもなりますよ」
と呑気な返事が返ってきた。一般的な話だが、若い駐在員や出張員が『ひと晩蒸発する』ことは稀な話ではなかった。が、長嶋もそう言うケースだろうか。
「そんなに大きな契約なの?」
「繊維グループじゃ、1件の契約としては史上最大級だと自慢しておられましたよ。確か60億円とか」
イスラム革命後、イランではドルの代わりに円建て取引となっていた。
「それは凄い、桁違いだね。しかし普通じゃない。大き過ぎる。繊維の商売はプラントとは違う。通常は1件数百万円、大きくても数千万から1億円まで。そういう契約の積み重ねだ」
公団ビジネスは確かに金額が大きかった。バザール筋の輸入商とは規模が違う。が、それにしても余りにも巨大だった。
「軍隊の家族向けらしいですよ。最近は石油公社傘下のよく似た組織と合併したので金額が一層大きく膨らんだようです」
私は、オナキ向けだなと思った。オナキは軍人の家族向け生活雑貨の輸入に特化した特殊公団だ。同じような組織が石油公社傘下にもあったが、最近両組織は合併した。結果として政治力も財務力も抜群の公団が生まれた。しかし、そのような特殊組織との取引は通常の商売とは異なる。独特のコネと、工作費が必要だ。いわゆる小豆ビジネスで、フィクサーとの連係プレーも前提条件だ。で、どのような問題を抱えたというのだろうか?
「長嶋に会えば、すぐに私に連絡を取るように言って欲しい」
「承知しました」
北村は私から何かを感じ取ったのだろう、緊張した声音で答えた。
この日は長嶋の居場所さえ分からず仕舞いだった。そうして漸く翌朝、長嶋の方から私に電話が入った。
1981年10月3日(土)
朝の8時を回ったばかりだった。電話口に出た私に長嶋は縋るような声音だった。
「河本さん、直ぐにお会いしたいのです。どうしてもご相談したいことがあります」
怯えて、切羽詰まっているようだった。緊迫の奥に焦りや疲労も感じられた。
「私も会いたい。が、君はどこにいるのだ?昨日から探していたのだ。伝言メモを読んだだろう?」
「済みません、一刻も早くお会いしたいのですが、会社には行けません。ワールドホテルにお越し頂けないでしょうか」
「パーレビ沿いのホテルだね。了解。事務所から20分くらいだろう。ロビーに居るの?」
長嶋は電話の向こうで声をひそめた。
「いえ、ホテルの523号室におります。部屋にいますのでドアを4回ノックして下さい」
「わかった、523号室だね」
私はメモ用紙に部屋番号を走り書きした。
「それから尾行されていないか確かめて下さい。河本さんおひとりでお越し下さい」
「注文が多いね。理由は会ってから聞こうか」
「河本さん、私は殺されかけました。昨晩、拉致されました。助けて下さい」
長嶋の必死な様が受話器から伝わった。
ワールドホテルはパーレビ通りに面している。パーレビ通りはテヘランのど真ん中を南北に走る主要道路だ。イスラム革命後、正式な呼称は変わったが、相変わらずパーレビ通りで通用した。ホテルは紅忠テヘラン事務所から2ブロック北へ上がったところにある。大きな街だが、ホテルらしいホテルと言えばワールドホテルを含めて5つ位しかなかった。
私は20分ほどでワールドホテルに到着した。10月に入ったのに相も変わらず真夏日だった。日の出と同時に直射が肌を刺す。シャツが汗でずぶ濡れになった。ホテルに入った途端、ひんやりとした空気が全身を包んだ。汗がみるみる引いて行く。523号室のドアを4回ノックした。そろりと細目にドアが開き、長嶋が病人のような顔を覗かせた。ドアチェーンは掛けたままだった。怯えた眼が身構え警戒を解いていない。髭が薄っすらと土色の頬を覆っていた。
「おひとりですよね?」
長嶋はあたかも私の後ろに誰かが隠れているかのように訊いた。
「ああ、彼女は連れてこなかった。君もひとりか?」
とドアを開けるように促した。
「どうしたのだ」
とベッドの傍のサイドチェアに座った。目で長嶋をベッドの端に座らせた。長嶋は半月ほど前に会った時より更に痩せていた。何かにビクついているようで体が小刻みに震えている。
「顔色が悪いね。お茶でも注文しようか。落ちつけよ、何があっても命まで取られないのだから」
私が『命まで取られない』と言うと、長嶋はベッドの端から飛び上がらんばかりで、うゎーと叫んだ。
「河本さん、助けて下さい」
面と向かってこういう風にすがり付かれると、冗談のひとつも返したくなった。が、今の長嶋にそれを受け入れる余裕はなさそうだった。
「拉致されて、殺すぞと脅されたのです。この部屋にも無言電話がありました」
それを聞いてやはり軽口を叩きたくなった。『信じられんね、君が脅す方なら分かるが』とか、『心配するな、ここはイランだ。君の奥さんはいない』とか。が、実際に私の口から出たのは、通りいっぺんで事務的なものだった。
「順序良く説明しろ。その方が落ち着くぞ」
長嶋はおどおどと、要領の得ない説明を続けた。既に1時間半は費やされた。おどおどしているのは恐怖心からだろう。要領得ないのは何かを隠そうとしているからだろう。ポイントを外されると全容が掴めない。
「長嶋君、もうひとつ理解できないね。例えばだが、君はある女性と結婚前提に交際した。だが、相手は結婚するに相応しくなかった。この女性に当たるのがイルロジで、2人の関係は大体そういうことだったんだろう?」
長嶋は頷いた。相変わらず蒼い顔で背を丸めていた。
「ところがその後、もっと魅力的な女性が現れた。相性も良い。最終的にこの女性と結婚することに決めた。それがヤヒモナ社だ。で、結婚したところ子供が生まれた。めでたし、めでたし、じゃないか?」
長嶋は自信無さげに頷いた。
「実際、男も女も付き合ってみないと相性が分からない。お互いに理解し合えないケースも多い。だから君のように見切りを付けることが出来て、2人目の女性と幸せになったなら結構な話じゃないか。最初の女性、つまり、イルロジと関係を深めても結局どうなったか、不幸な結果になったかも知れない。今回は結果良しなんだ」
そのまま1分ばかり経過した。
「河本さん、私は命を狙われています。どうすれば良いのでしょう」
君の命くらい呉れてやればどうか、とも言えなかった。しかし、映画じゃあるまいし、拉致されただの、拳銃で脅されただの、商社マン生活で聞いたこともない事件だった。
「先ずは警察に相談だろうね。暴力が絡んでいるのなら警察に保護して貰うのが1番だ。しかし、一体誰が君を狙っているのだ?」
「イルロジです」
「イルロジ?君の元恋人じゃないか、納得できないね。最終的に別れたんじゃなかったのか?長嶋君、僕は真剣に君の話を聞いた。既に1時間半以上経った。こんなのはもう十分だ。今からは君がキチンと、隠し事をせず、説明する番だよ。さもないと堂堂巡りするばかりだ」
その後もう一度説明を聞き、漸く問題の本質が理解できた。長嶋のビジネスモラルに反した行動が原因だった。両てんびんにかけた代理店契約など商社マンとしてあるまじき初歩的なミスだ。が、それが原因で拉致し、拳銃まで使って脅すとは論外に思えた。私は整理の為に長嶋に再確認した。
「要は重婚罪か。奥さんに隠れて魅力的なガールフレンドと遊んでいた。で、子供もできた。で、彼女との結婚を決意した。しかし法律的には奥さんとの離婚が成立していなかった。で、奥さんはカンカンに怒っている。君、ここは中近東だからプライベートな重婚の方がましだったよ。複数の奥さんがいる金持ちなんて大勢いる。しかしビジネス界では重婚罪は許されない。イランだけじゃない、中近東では代理店の権利は間違いなく保証されている。一方的に廃棄出来ないよ」
長嶋は再び蒼白になり、落ち着かなく眼玉をキョロキョロさせた。
「君はイルロジのフォローが悪かったとか、納期で問題を起こしていたとか弁解がましいことを言ってたが、これは単純明快だ。100%君が悪い」
単純で、単純だからこそ解決の糸口が見つからない場合もある。今回もそうだ。基本的に『目には目を』の土地柄だ。イルロジは外国人であっても容赦しないだろう。
その時だった、部屋の電話がジリリーン、ジリリーンと鳴り響いた。みるみる長嶋の顔色は土色に戻ってしまった。怯える長嶋を制し、私は代わりに受話器をとった。
「ハロー」
相手の返答を待ったが返事はなかった。
「ハロー、どちら様ですか?」
と確認したが沈黙が続いた。10秒ほどして、電話は向こうから切られてしまった。無言電話がなければ、長嶋の話は信じ難かった。長嶋が怯えている背景も漸く実感できた。
「入札結果が発表されてから、君は電話で、しかも向こうさんから掛かってきた電話で1回だけイルロジ社長と話をしたのだね」
長嶋は頷いた。『そりゃ、相手も怒るだろうよ。(君を)殺したくなるのも分かる』と言いかけて、私は口を噤んだ。今の雰囲気では、冗談が冗談に聞こえそうもなかった。
「先ずは小菅支店長に報告しよう。それとイルロジ対策だ。放っておいてよい筈がない。独占契約にサインしているのだから」
私は自分がイルロジの社長だったら、絶対に泣き寝入りしないと思った。理はイルロジにある。相手は、日本屈指の総合商社だ。逃げ隠れ出来ない。とことん追い詰めればその分見返りが大きくなる。そう考えるのが筋だ。
私は長嶋を説得し、ワールドホテルから支店事務所に移動することにした。この部屋に無言電話が2回も掛かって来たのだ。相手は長嶋の居所を掌握しているのだ。仲間が今も監視しているだろう。ホテルにとどまるのは却って危険だった。
あいにくタクシーは1台もいなかった。いたとしてもそのタクシーが拉致したグループの差し金かも知れない。人通りの多い大通りを歩いた方が安全ともいえる。咄嗟にそう判断してパーレビ通りを歩くことにした。外に出ると、お昼前の直射と路面の照り返しで一挙に汗が噴き出して来た。今から事務所までの20分間、ひたすら暑さに耐え、歩くだけだ。長嶋は落ち着きなくビクビクと辺りを見回している。
突然、私の胸から怒りが込み上げてきた。抑えきれなくなり、長嶋の胸座を取った。
「長嶋君、紅忠のモットーを知っているだろうね。2つしかないのだから、覚えているだろう?」
長嶋は驚いて眼を丸くした。
「忘れたのなら教えてやろうか、1つは
CLEAN, HONEST, BEAUTIFULだ。
もう1つは
FIGHT FAIRだ。君に取ってはね、冗談くらいに受け取ったモットーかも知れないが」
と言いながら私は長嶋の体を激しく揺すった。
「君は、僅か2つしかない紅忠のモットーの、2つとも破ってしまったのだ」
私と長嶋が事務所に戻ったのは昼前だった。支店長は不在だった。秘書・総務・経理を兼任している御手洗が報告した。
「最近、外出なさることが多いです。伝言なら私が承ります。急ぎのご用なら事務所でお待ちになるのが一番です。外出なさった場合、支店長は午前に1回、午後にも1回は事務所に電話を入れられます。また、夜は10時頃まで事務所に詰めていらっしゃいます」
支店長は以前にもまして多忙を極めていた。それは私も知っている。現場が忙しいうえに、本社の関係部署との折衝も多かった。
「じゃあ、早めの昼飯でも食って支店長をお待ちしようか。長嶋君、昨晩から食ったのはバナナとヘンダワネ(メロン)だけだろう?」
長嶋は虚ろな目でコックリと頷いた。最早、長嶋の頭は回転を止めていた。あの、功名心に満ちた3週間前の長嶋は最早いない。
午後2時過ぎになって漸く支店長が帰社した。かいつまんで経緯を報告した。御手洗駐在員も同席した。
「参ったね、この話は。イランにはアサシンと言う場所があって、そこが英語の『ASSASSINATION(暗殺)』の語源と言われている。金が絡む上に、面目まで潰されたのだ。彼らは、イルロジとその仲間は、何をしでかすか分かったものでない」
「確かにイルロジが怒るのも無理ありません」
「で、肝心の先生はどこに居るのだい?君の話だと呆けたようになっているらしいが」
「隣の会議室で休ませています。睡眠を十分取れば回復するかも知れません。今は朦朧としていて言葉を交わすのも難しい状況です」
「無理させないことだね。隣の部から来た出張者の」
「畑守君ですか、いま長嶋君の傍に居ます」
「畑守君は常に長嶋君に付き添わせて欲しい。人手が足らない場合は、繊維の佐藤駐在員に頼んで欲しい。長嶋君の状況は君の方でも見守って欲しい」
「了解しました」
「で、イルロジの件だが、君の力も借りたい。イルロジとは話し合う必要がある」
支店長は話を続けた。
「この事件は2つの側面がある。一つは長嶋君の安全上の問題だ。もう一つは代理店契約の問題だ。安全は最優先で他のものにかえ難い。ベストなのは長嶋君の出国を実行することだろうね」
「全く同感です。昨晩の拉致事件は異常ですし、ワールドホテルでの無言電話は冗談では済まされません」
「そうそう、場合によってはヤヒモナ社長にも相談すれば良い。日本人だけでは過不足も多い。他方、ビジネス面の問題は河本君が中心になって解決を計って欲しい。イルロジと会うのは早いほどいいだろう」
現有メンバーでやり繰りする以外にないので、当面私がイルロジ社と折衝することになった。が、イルロジが長嶋の拉致に直接絡んでいたのか、それともイルロジの先のフィクサー単独の威嚇なのか、それとも他の組織が絡んでいるのか、まだ判然としなかった。
「私から本社には連絡を入れておく。それから河本君がイルロジと面談する時は、必ず2名以上で行動頼む。単独行動は絶対駄目だ。無論、御手洗君を同行させても良い。アポイントが決まれば、遅滞なく私に報告頼む」
紅忠の顧問弁護士には御手洗から連絡を取ることになった。当面の大まかな方針は決まった。支店長は別件で慌ただしく外出した。
私は出来るだけ早くイルロジ社長とアポイントを取りたかった。しかし、その必要は無くなった。当人が紅忠事務所に乗り込んできたのだ。時間は午後4時を過ぎていた。
「支店長は居るのか」
轟くような声だった。大きな体躯、怒りに満ちた鋭い眼光、闇の世界を知っている人間だけが持つ威圧感、まさに赤鬼のような風体だった。横にいる小太りの若者は副社長兼秘書役のチリウイアだろう。
会議室から出て来て偶然その場に居合わせた畑守が飛び上がらんばかりに震えた。秘書の御手洗は意外と落ち着いている。支店長室の奥の会議室では長嶋が仮眠を取っていた。ノコノコと顔を出すのを懸念した。しかし、この大声を聞けば陰に潜んでいるだろう。
「小菅支店長は留守です。どちら様でしょうか。お名前をお伺いしても宜しいでしょうか」
御手洗が落ち着いた声で丁重に尋ねた。
「支店長が居ないなら、長嶋さんはどこだ。まさか居ないとは言わせない」
「それが生憎、長嶋も留守をしております」
と今度は私が答えた。
「何だと、長嶋さんは事務所に居る筈だ。嘘をつくな」
「失礼ですが、もう一度お伺いします。どちら様でしょうか」
御手洗は怯むことなく問いかけた。
「我我はイルロジ社のものです。こちらは社長のイルロジです。私は副社長のチリウイアです」
横からチリウイアが穏やかに自己紹介した。
「私は紅忠の河本と申します。日本からの出張者ですが、ちょうど良かったです。私はイルロジ社長にお会いしたかったのです」
社長とチリウイアに名刺を渡しながら私は言った。
「それはどうしてでしょうか?」
チリウイアは名刺に眼を落しながら尋ねた。
「多分、本日突然お2人がお越しなさったのと同じ用件かと思います。でも、まずお教えください。どうしてイルロジ社長は長嶋がここに居ると断言なさったのでしょうか?」
「そうか、あなたが、河本さんが、支店長の代わりに責任を持って話をしようという訳か?」
イルロジ社長は私の問いには答えず、ギョロリと眼を光らせた。
「小菅支店長は不在ですが、支店長室が空いています。御手洗君、使えるよね。イルロジ社長、チリウイアさん、立ち話もなんです、どうかお入り下さい」
2人を奥のソファーに座らせ、私と行き掛かり上畑守もテーブルを挟んで前に座った。頼みもしないのに御手洗が隅に座った。私はイルロジ社長の先程の質問に答えた。
「私には権限はございません。但し、出来るものは出来る、出来ないのは出来ない、本社に相談するなら相談すると、責任を持ってお答えいたします。私は繊維部門に所属しているので、少しは長嶋の商品もわかります」
「私は紅忠の責任者と話がしたいのだ。権限もない社員と話をするのはもうコリゴリだ」
「もし即答をご要求なさるなら、私にはお答えしかねる場合もございます。しかし、誠意を持ってお話しを承り、ご意見やご要望を正確に本社に報告することは出来ます。また、本社からの返事を適宜ご連絡させて頂きます」
私はユックリと話をした。横で畑守が固唾をのんでいた。小太りのチリウイアが、失礼ですが、と口を挟んだ。
「長嶋さんが不在なので最初から説明するのは時間も要します。概略を説明します。私共はある入札案件で、紅忠商事さんと独占的に取り組む代理店契約を結んでいました。担当は長嶋さんです。先月末に結果が発表されたのですが、何と長嶋さんは私共の商売敵と組んで成約されたのです。我我は両天秤に掛けられていたのです。永年日本の会社とお付き合いがあるが、このような違約は初めての経験です。大商社のされることではない、本当に残念です」
チリウイアは悔しそうに顔をしかめた。度のきついメガネの奥の眼が真丸くなっている。髭が濃いのだろう、昼過ぎと言うのに剃り痕から短い髭が黒く浮き始めていた。チリウイアは話を続けた。
「紅忠が独占契約を反故にされたのは論外です。更に、ヤヒモナ社経由で契約されたのも余りにも酷い話です。当社の面子が丸潰れになってしまいました。フィクサーにも説明出来ない失態です」
「それが事実なら大変申し訳ないと思います。しかし、当社の社員がそのようなことをしたとは信じ難いことです。何か特別な原因でもあったのでしょうか?思い当る節でもございませんでしょうか?」
「私の方がお聞きしたい位です。どうして長嶋さんは商道徳に悖ることをなさったのでしょうか?我我は契約を反故にされ、面子も棄損されたのです」
と、チリウイアが答えると、その後をイルロジ社長が続けた。
「よりによって紅忠が新たに手を組んだ先はヤヒモナだ。我我にとって最大の商売敵で、顔も見たくない間柄だ。よくも私の顔に泥を塗ったな!」
耳まで赤くなったイルロジ社長は大きなこぶしでテーブルをドンと叩いた。
「わかるだろう、このようなビジネスは我が社だけで進めているものではない。長嶋は、フィクサーの顔にまで泥を塗ったのだ」
いつの間にか『さん』付けが無くなり、長嶋と呼び捨てになっていた。
「先ずは当社内でも十分に調査させて頂きたいと思います。ところで、社長は先ほど、『権限のない社員との話し合いはもうコリゴリだ』と仰いましたね。つまり、長嶋に権限がないことをご存知であって、そういう手合いとはもう話をしたくない、とそういう風にお考えなさったのですね」
「例え一介の社員であっても紅忠の社員として約束したものは守って当然だろう。契約を反故には出来ないぞ」
「ですから、先ずは長嶋からも充分に状況を聞き、その上でお返事させて頂きたいと存じ上げます」
「一つだけ言っておく。我我のフィクサーも『裏切られた、信用も台無しにされた』と怒りに燃えている。ふた股かけられて名誉まで傷付けられたのだからな」
「長嶋は何かに怯えているようですが、何がございましたのでしょうか?まるで暴力を受けたような怯えようでした」
「河本さん、だったかな。我我はビジネスマンだ。しかし、世の中はビジネスマンばかりじゃない。別世界の住人も居る。ある別世界の住人にとって最大の武器は暴力そのものだ。長嶋の身に何が起ころうとも、自分が蒔いた種だと思い知るが良い」
畑守の顔色は既に真っ青だった。私も内心逃げ出したくなった。長嶋は既に暴力行為の被害者だ。そこにはフィクサーが絡んでいるのだろうか。背景の勢力はオナキとも緊密で、権力の一角とも言える。問答無用とばかりに闇から闇に葬り去られる懸念もあるのだ。だが、ビジネス社会で禄を食んで生命まで脅かされるなど論外である。私はイルロジ社長を見据えた。
「長嶋個人の安全が脅かされるようなら、これは大問題です。私はイルロジ社長に、長嶋の身に危害が絶対に加えられないように対処して頂きたい、と要請します」
強気の発言とは裏腹に、私は内心震えが止まらなかった。実は頭頂部や手のひら、更には脇の下に汗が充満していた。何とか表面を取り繕うので手が一杯だった。相手の矛先が私に襲いかかりませんようにと祈った。
「河本さんだったか、若いだけあって威勢がいいね。我我は絶対に危害を加えたりしない。が、用心はしておくことだ。私が全てを監督出来る訳ではない。思いがけない危険が迫ったとしても、それは身から出た錆というものだ」
イルロジ社長は諭すようにうっすらと笑った。やはり長嶋が拉致されたのを知っているのだ。その眼差しは無機質だった。人間の尊厳や命そのものを塵芥ほどにも意に止めないのだろう。チリウイアが補足するように話した。
「河本さん、まず長嶋さんが、ビジネスモラルに違反されたのです。そして、それを我慢出来ない勢力もあります。彼等が、我我に制御出来ないほど怒り出し、長嶋さんに危害を加えかねなくなりました。いや、既に警告の意味で、彼等流の実力行使に訴えたかも知れません。私共はそれを危惧したので本日お邪魔したのです」
これではイルロジは長嶋の拉致に関わりのない善意の第3者だと強調しているに過ぎない。長嶋に危害を加えられてもイルロジは関係がない、こうして長嶋のことを心配しているくらいだ、と恍けているのだ。
「ちょっとお待ちください。長嶋は当社の社員です。ビジネスの問題なら誠意を持って対応させて頂きます。しかし、長嶋の安全が脅かされるのは全く別次元の問題です。私は日本大使館にも相談するし、当地の警察にも相談します。また、火種が貴社の関係先であるなら、当然貴社に対して、抗議したいと思います」
私はチリウイアをジッと睨んだ。しかし、憶病な犬ほどよく吠えるという。私の睨んだ顔もその程度だったかも知れない。
「それは強弁です。火種は貴社、現実には長嶋さんの行為そのもの、にあったのです。違約されなければ問題など起りようがなかったのです」
「チリウイア、既に警告したのだし、これ位で良いだろう。河本さん、小菅支店長にも伝えておいて欲しい。我我も、フィクサーも怒っていると言うことだ。長嶋に取り返しがつかないことが起こる前に解決した方が良いぞ」
「一つ質問があります。イルロジ社長は来社された時、『長嶋は事務所にいる筈だ、居ないなどと嘘をつくな』と仰いましたね。どうして長嶋がここに居るとお考えなさったのですか?まるで長嶋を尾行しておられたようなご発言ですね」
私は静かに訊いた。最後の勇気を振り絞ったと言えなくもない。
「でも、河本さん」
とチリウイアが代りに答えた。
「長嶋さんの場合、オナキとの大型契約が成立したところです。その対応で忙しく、事務所で作業中と思うのが自然でしょう」
チリウイアはスマートだ。ああ言えばこう、こう言えばああ、と如才が無い。
「それでは、小菅支店長も不在ですが、どうして支店長の場合は『ここにいる筈だ、嘘をつくな』と仰らなかったのでしょうか?」
「言葉尻を突っ込まれても困ります、小菅支店長にもお伝え頂きますね、我我は正式に損害賠償を求める積りです」
「了解致しました。支店長に伝えます」
「誠意ある調査とご回答をお待ちします」
チリウイアの言葉遣いは最後まで物静かだった。
「私の方からは長嶋の身の安全を保証して頂くように重ねてお願い致します。安全問題は他の問題とは次元が異なりますので」
我我は立ち上がりお互いに握手した。
「河本さん、あなたは日本人にしては背丈が大きいね。私と同じ位ある」
そう言いながらイルロジ社長は力一杯握って来た。私も力を込めて倍返しした。
「日本には、『大男、総身に知恵が回りかね』と言う諺がございます。私にとっては不本意な諺ですが」
とニッコリ笑った。イルロジ社長と、チリウイア副社長、それにガードマン兼運転手のレスラーのような体躯の男との3名が事務所をあとにした。私にとっては良い頃合いだった。初めての経験で、怯えが顔面に溢れ出そうだった。あれ以上強がっても粗が出てしまっただろう。
「畑守君、長嶋君を匿おう。事務所は駄目だね、見張られているに違いない」
「この建物はタフテジャムシッド通りと、裏の小道との2つの出入り口があるだけです」
と御手洗が説明した。
「事務所や社宅が不味いとなるとホテルしかないね。チェックイン後は絶対に外出しないことだ。念には念を入れて長嶋の名前と別の名前、そうだ香港からの出張者の王(WANG)としようか、2つの部屋を全く別別に予約して、長嶋はWANGの方に宿泊させよう」
VIPが来訪時、空港に出迎えに行く前にチェックインを済ますことがある。部屋の鍵を事前に確保しておくのだ。予約が取れていてもチェックイン出来る保証はない。鼻薬ひとつで予約の名前くらい取り換えできるお国柄だ。さすがに鍵を受け取ってしまえば問題ないし、ホテルに到着後そのまま部屋に案内できる。
「『灯台下暗し』とも言う。通りを隔てた北側のコモドールホテルに予約を取ろう。長嶋名では紅忠商事で、WANG名では香港工業としよう。宿泊階も別別にするのだ。それから夕刻以降にヤヒモナ社長にお会いしたい。何とかアポを取って欲しい。僕の方は夜遅くなっても良いよ」
畑守と御手洗は頷いてホテル手配に掛かった。午後7時にはコモドールホテルの部屋番号634号室と、958号室の鍵が手元にあった。長嶋は9階の方(958号室)に匿うことにした。
午後8時過ぎに小菅支店長の了解が取れ、長嶋をホテルに移動させた。
長嶋の移送は予想以上に手間取った。仮眠から覚めた長嶋は放心状態だった。動作も鈍かった。昨晩のショックが尾を引いているのは明らかだった。958号室では繊維担当の佐藤駐在員が待ち構えていた。明朝まで佐藤が同宿する手筈だった。
他方、ヤヒモナ社長とのアポは夜9時半にタフテタブース通りのホテル『インターナショナル』と決まった。小菅、私、御手洗、畑守の4名で会うことにした。
ホテル『インターナショナル』に向かう車中で小菅支店長とも打ち合わせ出来た。
「ひとまず安全なところに移動出来て良かった。今は佐藤君が傍に付いている訳だ」
小菅は先ず長嶋の安全を確認した。
「コモドールも何時まで安全だか分かりません。カモフラージュのため、長嶋名でもひと部屋確保しています。その部屋には誰も宿泊しません。長嶋君はWANG名の方の部屋にいます。で、佐藤駐在員が同宿しております。長嶋君の症状は本社に連絡、対応を相談しました」
すると、御手洗が手帳を見ながら支店長に付け加えた。
「健康管理室に相談したところ回答が来ております。『精神的な動揺と極度のストレスが原因と思われる。それらを先ず取り除く必要がある。具体的には現在の業務を絶対に続けさせてはならない。また、出来るだけ早く出国させるべきである。また日本への帰国便には付き添いが必要である』その様な指示を受け取りました」
つまり、普段の仕事はもとより、イルロジとの交渉などもっての外ということになる。
「分かった。ところで畑守君、明日からは常時長嶋君の傍に付いて欲しい。連絡を密に頼む。私と連絡が取れない時は秘書の御手洗君に頼む」
「はい、了解致しました」
「他方、河本君だが、原則として佐藤駐在員と2人3脚で行動して欲しい。イルロジ社長とは話し合いを継続する必要があるだろう。だが、おかしい、怪しい、危ないと思えばそれ以上突っ込む必要はない」
小菅は誰に言うともなく『第一番に安全の問題だ』と呟いた。
インターナショナルホテルのロビーに着くと、ヤヒモナ社長と秘書長のチーホル、他2名のスタッフが待ち構えていた。畑守は数回、小菅も1回会っていた。私は初めての面談だった。我我が近付くとヤヒモナ社長はニッコリ笑い、目でエレベータを示した。中肉、中背、メガネを掛けており、柔和な感じがした。我我はその場に立ち止まらずエレベータに乗った。中2階の奥まった会議室が予約されていた。ヤヒモナ社長と小菅はペルシャ語で会話を始めた。小菅は紅忠随一のペルシャ語の達人だ。ペルシャ語で商談すればイラン人も顔負けと言われている。と、支店長は私達を見て英語に切り替えた。
「まず河本出張員を紹介します。彼は繊維担当で、イランの元駐在員でした。こちらは秘書の御手洗です」
ヤヒモナも英語に切り替えて喋り出した。
「初めまして河本さん、御手洗さん、ヤヒモナです。それからこちらは秘書長のチーホルです、それから担当のアリです」
ヤヒモナは面識のある畑守出張員とは旧知の友人のように打ち解けて話をした。ネイティブのような完璧な英語だった。威圧感は全くない。ヤヒモナは改めて『長嶋さんの協力がなければ受注は覚束なかった』と謝意を表した。
「その長嶋出張員なのですが」
小菅はあらましを丁寧に説明した。『長嶋は相当なショックを受けたようで、自失の状態である』と説明を終了した。
「信じられないような話です。長嶋さんには一刻も早く回復されるようにお祈りします。他方、どうして長嶋さんは攻撃を受けたのでしょうか?攻撃は誰の差し金でしょうか?複数の代理店を通して個別に入札すること自体、珍しいケースとは言えますが、法律違反でも何でもありません」
「ヤヒモナ社長には説明が不十分だったかも知れませんが、実は今回の入札案件で、長嶋はイルロジと独占代理店契約を締結していたのです」
私は核心に触れる説明をした。残念で、情けない限りだが、この点を説明しないと話が前に進まない。
「独占契約ですって?それはあり得ないでしょう。それなら私達に出る幕が無かった筈です」
「長嶋には代理店契約を甘く見たところがあったようです」
「オナキとの契約は既に私共経由で成立しております」
流石の温和なヤヒモナも眼を見開き強く主張した。まさか、それをキャンセルとは言わせない、と言外に含んでいた。
「契約は、もちろん履行致します。入札保証金も積み立てていますし、紅忠の信用にもかかわります」
と私は保証した。柔和な目に戻ってヤヒモナは言った。
「私は、会社の信用が第一番だと思います。違約金を払えば済む問題ではありません。私共は契約をキャンセルできません」
秘書長のチーホルが控え目に付け加えた。
「実は6,7年前になりますか、石油ショックの時分の出来事です。突然海外の取引先が一方的に契約を破棄し、30%もの値上げ要求をしてきました。原油価格が上昇したので不可抗力だと謝罪すらしなかったのです。既にオナキと契約済みだったので大変な危機に直面しました。我我は瀬戸際に追い込まれたが、契約通りの価格で納入したのです。結果的にそのビジネスでは大きな赤字を抱えました」
石油ショックのあと、紅忠も既契約の値上げに狂奔した。日本のメーカーも平気で値上げを要求した。既契約も値洗い、値洗いだった。値上げを受け入れない客先には契約をキャンセルした。キャンセル出来ない時は出荷数量を減らした。が、そういう状況でも必死に契約を守った会社がイランにいたのだ。
「一方、イルロジは値上げを通し、その代償としてオナキでの信用を失ったのです。実は石油ショック以前はイルロジが取扱第一位でした。が、ヤヒモナのシェアが上がり、今では我我が第一位になっています。お客様の利益を考えてこそ、本物のビジネスでしょう。自分の利益ばかりを追求すれば、結局商売は続かないし、成功もしないと思います」
何となく耳の痛い話だった。メーカーの値上げに便乗して利益の上乗せをもくろんだ商社もある。狂乱物価時代の日本はそうだった。
「貴社にはご迷惑をお掛けしません。しかし、私共はトラブルを抱え込んでしまいました。また長嶋の事件はイルロジのフィクサーが仕掛けたような口振りでした」
「それはおかしいですね」
というヤヒモナ社長の顔がこわばった。
「確かにイルロジの先にフィクサーが居るでしょう。しかし、それも含めて調整するのがイルロジの役割です。役割を投げ出したかのような口振りなら、無責任なのか、怒っているのか、本当にコントロール出来なくなったのか、それらの複合したものか、判断が難しいところです」
「差支えが無ければお伺いしたいが、どのような方がフィクサーになるのでしょうか」
私は核心に近い、微妙な質問をした。
「フィクサーは誰か、とお問い合わせになっても困りましたね」
ヤヒモナ社長はどう答えるべきか思案のようだった。ヤヒモナにも紅忠は10%支払う約束だ。フィクサーの実態を社長が知らない筈は無かった。
「それは一般の会社ではありません。形式的に会社組織になっているかも知れません。が、特定の顧客に厳然たる調整能力を持っている個人です」
つまり、表沙汰にできない、裏の社会の実力者なのだ。イルロジはフィクサーと一緒に成約を目指したのだった。そして長嶋の行為により、イルロジだけでなく、フィクサーも面子を潰されたのだ。
「紅忠が問題の火種を持ち込んだとして、そういう個人が物理的な暴力を振るう懸念があるのでしょうか?」
と私は気掛かりを問いただした。
「あり得る、と思います。特に」
ヤヒモナ社長は慎重に言葉を選ぼうとした。その結果、説明を中断した。特に何なのか?何を言おうとしたのか。その時、今まで黙って聞いていた小菅支店長が話を継いだ。
「特に、オナキ関係のビジネスでは、と言う意味でしょうか?」
それを聞いてハッと思い当った。オナキは軍隊の家族向け商品の購入機関だ。関係者には元軍人が多数いる。彼等はビジネスのプロではない。公認の、要は暴力のプロだ。他方、今でも軍隊という公的暴力に隠然たる影響力を持っているのだろう。
「私は今晩少しお喋りが過ぎたような気がします。長嶋さんの件は、イルロジとお話になるべきでしょう。彼等はビジネス社会の組織です。我我と異質ではありません。当社にとっては、相変わらず最大の競争相手ですけどね」
「イルロジには河本が折衝窓口になる予定です。長嶋は今後任務を外しますので」
と支店長は説明した。
「長嶋さんは安全第一です。次にはイルロジとの話し合いで解決してください。その先のフィクサーは、交渉のテーブルにはつきません。あり得ません」
珍しく断定的に社長は答えた。
「例えば私共です。ヤヒモナは貴社のビジネスの為に代理店活動をします。一方でフィクサーに協力を仰ぎ、受注を目指します。それら全てが我我の役割です。その過程でフィクサーと紅忠が直接折衝することは絶対にありません。紅忠としてもそれはお望みにならないでしょう。ご存知でない方が良いこともある筈です」
その通りだと思った。ビジネスしか知らない紅忠が、それ以外を知っても意味が無い。私は次の質問をした。
「我我の力だけで長嶋を匿うのは不可能に近くないでしょうか?相手は、どう言いますか、大きな力を持っているのですから」
「イルロジとの折衝はビジネス世界の問題です。そこでは紅忠はプロ集団でしょう。話し合いで解決できる可能性がゼロではないと思います」
少し頼りなげない解釈だったが、それ以上答えようがなかったのだろう。
「それから長嶋さんの事件は、私共のビジネスに関係して発生した災難です。出来る限りのお手伝いをさせて頂きます」
背景も大よそ推定できた。結局、長嶋の安全を確保した上で、イルロジと話し合う以外にないのだ。
「ところで、今回の契約ですが、このような時に質問するのをご容赦ください。長嶋さんがご担当なされないとすれば、実務は全て畑守さんにご相談申し上げれば良いのでしょうか?」
長嶋事件に忙殺されて契約のフォローがお留守にする訳に行かない。膨大な実務をこなす必要がある。
「いいえ、畑守は長嶋の付き添いをして貰います。当面は私と繊維担当の佐藤駐在員、それに支店長秘書の御手洗でフォローさせて頂きます」
と私は答えた。長嶋の気持ちを安定させるためにも、畑守が傍に付くのが一番だと思った。
「それから出来るだけ早く、本社からの応援出張を要請します。人手不足は明らかですので」
と小菅はつけ足した。
「今回は非常に大切な契約です。私どもにとっても繊維関係では初めての大型契約です。チーホルを主担当とし、アリをサブとしてフォロー致します。長嶋さんの件は、いつでもご遠慮なくご相談なさって下さい。協力を惜しみません。ただひとつ、」
ヤヒモナ社長はそこで一旦言葉を区切った。
「私どもが長嶋さんの件で直接イルロジと交渉することはご容赦ください。2社が直接交渉すれば誤解を招きます。談合はイランでも許されません。また、実際、同じお客様相手に競争しているのですから。その点ご理解賜りたいです」
言葉を交わす内に、ヤヒモナ社長のバランスの取れた発言に感心した。ああ、長嶋は出足から毛躓いたのだ。イルロジにもチリウイアのような人材がいる。しかし紅忠が付き合う相手としてはヤヒモナの筋が格段良かった。
我我はホテルのロビーで別れた。ヤヒモナ社長は支払いを済ませてから出発するので、先ずは見送ると言って譲らなかった。我我は車2台で来ていた。支店長はまだもうひとつアポがあってホテルの前で別れた。
夜になると流石に茹だるような暑さも凌げた。テヘランの良さは乾燥した空気だ。暑くてもすがすがしく感じる時がある。この事件も夏の悪夢で、季節の移り変わりと共に目覚めるのならどれだけありがたいか。
これから常に尾行されていないかチェックが必要だ。しかし、その道のプロに狙われれば我我ではお手上げだろう。早くイルロジとの交渉を纏めるべきだ。私は疲れていたが、経緯をひとつずつ思い返した。そうそう、先ずはイルロジとのアポイントだ。イルロジとの折衝が緊急課題だ。イルロジだ。私は車内で目を瞑り、半分朦朧としていた。思考は堂々めぐりした。
1981年10月4日(日)
翌日朝一番にイルロジに電話を入れアポイントを求めた。社長は不在で、副社長のチリウイアが待っている、と返事が来た。畑守は長嶋に付きっきりだ。佐藤駐在員も契約のフォローで忙しい。私は支店長秘書の御手洗と行くことにした。
支店事務所からイルロジへはパーレビ通りを下って一本道である。道路はイラン国産のペイカンや旧式の外車で溢れかえっている。中近東ではどこでもそうだが、オートバイ、特に自転車は殆ど見ない。夏の日差しが強過ぎるのが原因かも知れない。
「昨日のイルロジ社長は強烈でしたね。いや、恐ろしかったです。河本さんが居られないと、もっと大事になったでしょう。あの時長嶋さんが顔を出せば、ただで済みませんでした。休んでおられてよかった」
髪の毛を丁寧に頭の真ん中辺で分けてメガネをかけている。おとなしそうな御手洗が、昨日の出来事を思い出したように、言った。
「長嶋は知っていたさ。眠っていてもあの大声を聞けば眼が覚める。ましてや長嶋は神経過敏になっていたので寝るどころではなかっただろう」
「そう言えば、あの後会議室から出た時も震えておられました」
「天罰が下ると恐れたのかな?」
と本人の前では言えない冗談を口に出した。
「今日もひと悶着あるのでしょうか?」
そう訊く御手洗は額から汗を流していた。気温のせいか、緊張感がなせる業か分からなかった。
「どうだろうか。でも、怯えて逃げる位なら飛びこんで行った方が良い。会ってみないと相手の考えも分からないからね」
「そう言う時には通常、『まさか命まで取るとは言わないだろう』と付け加えるのでしょうね。でも今回の場合はそれが冗談に聞こえないところが厳しいです」
御手洗はぬけぬけと微妙なことを言った。御手洗は額の汗をハンカチで拭いながら続けた。
「そりゃ生きる、死ぬという問題と比べれば他の問題は茶番劇です。これは実話ですが、ある大会社の社長が、定年退職する同期の社員に、久し振りに会ったらしいです。場所は広々とした社長室です。社長は出世頭、相手は落ちこぼれです。社長はいつもの調子で会社の理念を披露した。上から目線の演説口調だったのでしょう。ところが落ちこぼれ氏は会社の処遇を恨んでいた。社長の話を聞く内に突然腹を立て、果物皿の小さなフォークを持って社長を脅したのです。凶器とも言えないフォークだが、面相の方は殺気立っていました。社長は慌てて逃げ出し、その拍子に転んで額に5針も縫う怪我をしたのです。その挙句、落ちこぼれ氏にすがりつき、『待ってくれ、俺が悪かった。これから何でも聞くので命だけは助けて欲しい』と懇願したのです」
「つまり、わが命の前では、ソクラテスも孔子もないと言う話か。ましてや経営哲学なんぞ糞食らえ」
「そこまでは申しませんが、長嶋さんは早朝から深夜まで、応札書類を作っておられたのを覚えています。まさに、命を削るような仕事振りでした。だのに代理店契約で失敗して、これで元も子もなくなったということでしょうか?」
「そりゃ、命乞いする社長さんも居るのだから、長嶋君には情状酌量の余地があるだろう」
「ついでにもう1つ言ってよいでしょうか?長嶋さんは出張前に長女を授かったらしいです。聞くとその前に最初のお子さんを流産で失われています。
『傍にいてやりたかったが生憎出張中でね。女房も大変だったろう。と、今度は無事生まれたものの直後にイランに長期出張だ。女房は泣き言の一つも言わない。〈お帰りを待ってます〉と言ってくれただけだ。因果な稼業だね、商社マンは』
長嶋さんは自虐的にそう言ってました」
私は冷房の利かない車中で、改めて御手洗を見つめた。丸顔で黒縁のメガネ、どこにでもいる純朴なサラリーマンといった風貌である。御手洗は私を見つめ長嶋を擁護した。
「ミスをしたからと言って全否定じゃ長嶋さんがお気の毒です」
「御手洗君、君の話を聞いてよかった。長嶋君は立派なもんだ」
「長嶋さんは結構冗談が旨いんですよ。あのグループからは笑いが絶えなかったです」
御手洗は殆ど外出しないだけに社内のチョッとした情景をよく見ていた。
ちょうどその時、車は目的地に止まった。車外は光と暑気が充満していた。同じ中近東の他の国の駐在員仲間に『中東のジュネーブ』と自慢気に言うテヘランである。10月になってこの気温は異常だった。御手洗は又もやハンカチを取り出し顔や首筋の汗をぬぐった。
電話での話とは異なっていた。イルロジ事務所には社長も待機していた。その他、担当者らしい若者と女性の秘書もいた。
「長嶋さんはお越しにならなかったですね、それに畑守さんも」
副社長のチリウイアが先ず訊いた。
「長嶋は体調を崩しておりまして、今後担当は変わります。畑守は長嶋の側に付いているので来られませんでした」
すかさずチリウイアは如才なく尋ねた。
「そりゃ大変です、看護人を付けねばならないようなら入院しておれるのでしょうか?お見舞いに行かねば」
「いえ、お気遣いには及びません。でも、長嶋がどんな事件に遭遇したのかご存知ないのでしょうか?」
私は社長の方を向いて尋ねた。
「知らないね、彼の居所を探している位だから何も知らない」
と澄まして答えた顔には『知っているぞ』と書いてあった。正直な人だ。
「実は社長、長嶋は貴社に誤解を与えてしまったようです」
「何だと、あれが誤解なものか、あれは完全な悪意があってやったことだろう」
「河本さん、社長は『長嶋さんに契約違反があった』と言いたいのです」
横からチリウイアが補足した、私はそれを無視して社長に向って話した。
「それと、せっかく貴社と一緒にやろうとしたのに、『イルロジからは何の情報も貰えない。時間ばかりが経過する。見積りの有効期限が切れてしまった』と愚痴をこぼしていたようですよ。最初は七月十五日の見積り期限だったのに、どんどん延長され、最後には9月30日になったらしいですね」
「それはとんでもない話だ。長嶋は当社とヤヒモナにふた股をかけながら、よく言ったものだ」
「私も少し調べたのですが、この入札に対応する為に、紅忠は6カ国を掛けずり回っております。各メーカーは生産枠を確保して待っていました。入札結果はどうかと矢のような催促でした。我我には、見積りを出してくれたメーカーさんに、適宜状況を説明する義務があります。ところが貴社から情報がないので大変失望しました。貴社の影響力をもっと行使されて期限内に受注することは不可能だったのでしょうか?」
「それじゃ、まるで我が社が鈍間だったような口振りじゃないか。入札ビジネスは簡単なものじゃない。また、中途段階では伝えるべきじゃない状況もある。情報管理も必要なのだ」
「我我は2人3脚だったじゃないですか。情報を共有し、一緒にメーカーをリードするのも仕事の一部です。片方で納期遅れは厳罰だと言いながら、もう片方では見積り期限の延長を当然のように要求される。しかも納入期限は最後まで変わらない。それじゃ我我も切羽詰まってきます。権利だけ主張されて、義務をお果たしにならないのは代理店として失格だと思います」
私は好き放題にイルロジへの不満を述べた。すると横からまたチリウイアが口を出して来た。
「我我には『独占代理店契約』があって、その有効期限は9月30日だったのですよ。それまでの期間は一緒に独占的にやろう、というのが紅忠との契約書の趣旨です」
契約書を盾に権利を主張し、返す刀で損害賠償を要求する積りなのだろう。
「権利と義務はコインの裏表です。義務を果たさずに権利を主張されても通用しません。今回の場合は、貴社と120日間もご一緒に尽力したが結果を出せませんでした。ところが、ヤヒモナは、見積りを出して10日も経たない内に結果を出したのです。貴社が権利を主張されるなら、私共は貴社の義務の不履行を指摘したい」
「白を黒と言いくるめるようなとんでもない話だ!あなたのような事を主張するなら我我は裁判に訴えざるを得ない。何の為の独占契約だったのだ」
大きな目を血走らせて、イルロジ社長は私を睨みつけた。裁判と言えば我我が動揺すると予想したのだろう。
「裁判ですか。実は長嶋は個人的に暴力を受けました。その為精神に異常を来してしまったのです。長嶋がかかる暴力に巻き込まれる位なら、貴社からの訴状を受けた方が余程ましです。その代わり、これ以上の暴力沙汰はご免蒙ります。お願い致します、直ちに控えてください」
「何と言うことだ!我我が長嶋に暴力を加えたとでも言うのか?とんでもない言いがかりだ」
既にイルロジ社長はカンカンに怒っていた。
「でも、一体他に誰が長嶋に危害を加えようとするのでしょうか?ヤヒモナは長嶋に害を及ぼす理由がない。嫌疑が掛かるのは、長嶋のお陰で商売を失ったと曲解する組織じゃないでしょうか?」
「何と言う奴だ。まるで犯人はイルロジと決めつけているじゃないか。我我の名誉にかけても許せないぞ!」
「どうか裁判所に訴えて下さい。裁判に負けても、紅忠商事の経済的な損失だけで済みます。そう言っては何ですが、私には痛くも痒くもありません。しかし、暴力を振るわれたなら、長嶋個人の肉体的・精神的な苦痛になります」
私は、主張するなら今だと考え、言葉を続けた。
「ところで、今回の拉致事件ですが、私は貴社を訴えます。紅忠に暴力を振るう可能性があるのは貴社しかないからです。本日の会見の内容からも明らかです」
イルロジ社長は怒りに燃え、チリウイアはあっけに取られたような顔で、私の話を聞いた。そしてチリウイアが一語一語慎重に話し始めた。
「河本さん、ご説明は承りました。でも、河本さんがどのように言われても、独占契約は弊社と長嶋さん、つまり紅忠との間で成立しております。せめて私共にお断りになってからヤヒモナに見積りを提出なされたなら、長嶋さんのお気持ちも忖度できます。でも、長嶋さんの行動は明らかに契約違反でした」
横でじっとメモを取っている御手洗と言い、相手のチリウイア副社長と言い、冷静で優秀な人材は多いものだ。この話は簡単には解決を見ないだろう。
「イルロジ社長、それにチリウイアさん、貴社の告訴状のポイントは承りました。そして、どのような損害賠償を提訴されるお積りなのでしょうか」
「貴社からの詫び状プラス2億円です。これは筋が通って綿密な計算根拠に基づきます。今回の一連の出来事で我我は著しく信用と名誉を棄損されたと考えております。それは金銭的に解決出来るものではありません。しかし、紅忠と係争するのが目的ではありません。ビジネス上の損害、名誉棄損を含めて合計2億円というのが我我の賠償請求です」
そう言ってチリウイアはジッと私の眼を見つめた。柔らかく喋るが、その中身は厳しい。私は相手の眼差しを受け止めたまま答えた。
「お答えします。答えはノーです。全く受け入れる訳に行きません」
「我我の権利を蹂躙なさったので、告訴せざるを得ません。紅忠商事テヘラン支店を訴えます。イランで発生した事はイランの法律のもとで解決すべきでしょう。社長、それで宜しいですね」
と、イルロジ社長に確認を求めた。社長はコックリと頷いた。イルロジの『告訴路線』には2億円というゴールがあることが分かった。イルロジが簡単に諦める筈がない。私は2人をじっと見ながら念押しした。
「最後にもう一度お願いします。我我は日本の商社です。イランで、安心安全に仕事をしたいと思います。従前通りに働きたいのです。拉致や暴力だけは即刻お控え頂きたい」
「私共は、何もしておりません。我我には全く関係が無い事件だったのです。関係が無いのに関与するなと言われても、答えようがありません」
「それでは今まで同様の不当な暴力沙汰が続くと言うことでしょうか?」
「たった今も申し上げたように、私共には答える事が出来ません、当社に全く関わりのない話ですので」
チリウイアはキッパリと答えた。が、そこに社長が割って入った。
「何だか分からない話だが、現実に起こったのだから、十二分に気を付けることだな。もう二度と起こらないと言う保証は無いだろう、我我には与り知らぬ話だが」
私達は形式的な握手を交わして別れた。イルロジ社長は、今回は強く握手してこなかった。腕力では私に勝てないことが前回分かったのだろう。
イルロジの事務所を出ると、街は相変わらず眩しく輝いていた。イルロジとの関係は暫く膠着状態になるかも知れない。お互いに歩み寄らなければ平行線状態だ。線が交わらなければ解決の糸口すらない。しかし、訴えるのは相手だ。主張すべき事はあらいざらい伝えた。あとはじっと動かず、攻撃の矢を避けておこう。問題は長嶋の安全で、こればかりはノンビリと構えている訳に行かなかった。どうすれば良いのだろう?私には効果的な防衛手段は浮かばなかった。
紅忠のテヘラン支店では簡単だが『日本食まがい』を食べる事が出来る。出張者も1食に付き3ドル払えばいつでも食べられる。昔はトンカツもレパートリーにあったが革命後はメニューから消えた。ポークとアルコールは禁止になってしまった。お茶くみボーイが一人分ずつをトレーに乗せてテーブルまで運んでくる。コックはアルメニア系イラン人だが、結構何でも作れる。ただ一つ、みそ汁の味は分からないらしい。材料の分量を決めて、最後には味ではなく『色』で仕上げ具合を判断していた。調理が終わると、コックはダイニングに姿を現して我我が食べているのをジッと見つめている。自分の『作品』が成功作か失敗作か、我我の表情で判断しているようだった。ウマいと日本語で言うとはにかんで台所に戻る。世界中どこの事務所でもそうだが、日本の会社に相性が合うナショナルスタッフが必ずいる。運転手であったり、営業マンであったり、タイピストであったり、職種に関わらず性分が合ったスタッフは辞めずに邦人企業で働き続ける。紅忠のテヘラン事務所にもそういうスタッフが数名いた。彼等はある意味で、日本人以上に日本人的であったりする。逆に言えば、イラン人でありながらイラン式生活にはストレスを感じるのかも知れない。このコックも日系企業に相性が合っているに違いない。ここ数年バリバリと調理の腕前を上げて来たと評判だった。
私が社食で昼食を済ませた頃、小菅支店長が戻って来た。『河本君、ご苦労さん』そう言って支店長室の方を指差した。
「どうだい、長嶋君の様子は?」
支店長室に入るなり訊かれた。
「実は昨夜から会っておりません。大勢で行くのもどうかと思い、付添いの畑守君に状況を聞いております。ボンヤリしている時間が多く、ブツブツ独り言を言うこともあるらしいです。回復にはもう少し時間が掛かりそうです。コモドールホテルにチェックインしてからは例の無言電話は無くなったと聞いております。食事は全て部屋の中で済ませております。また、目立たないようにここからお弁当を運ぶ予定です」
「暫く様子見だね。それでイルロジの方はどうだった?」
私は詳しく面談結果を報告した。御手洗が手際よく作成した面談レポートも手渡した。2,3支店長からも質問があった。告訴される点については特にコメントは無かった。『先ず一番は長嶋君の安全だし、君たちの安全も最優先課題だよ』と支店長はコメントした。
「肝心の長嶋ですが、いつまでもコモドールホテルと言う訳にも行かないと思います」
と私は指示を仰いだ。
「社宅だと少し遠いので、いざという時の対応に時間もかかる。この事務所にも相手の見張りが付いているかも知れない。一番良いのは一刻も早く国外脱出だろうね」
小菅支店長は呟いた。しかし、その相手と言うのは一体誰なのか?一体誰から長嶋をかくまう必要があるのか?おもてのイルロジか、それとも黒幕のフィクサーか。フィクサーは本当に存在するのか?居たとしても本当にあのような事をやるのか。実際にはイルロジが一人二役をやっている可能性だってある。あの社長ならやりかねないのだ。
「今、ホテルから移動するのは危険だが、早晩どこか安全な場所に移動だね。そこにワンクッションおいて次は国外だろう。しかし今は相手が誰かも判然としない。社内のスタッフの誰かがつるんでいる可能性だって考慮する必要がある」
その通りだった。少し鼻薬を嗅がせれば何でもしかねない連中はどこにだっている。WANGという別名で、別国籍でチェックインしたのは意外と正解だったかも知れない。
その時、佐藤駐在員が入って来た。営業の方にヤヒモナのチーホル秘書長からの電話があった。支店長室を出て、1階下の繊維部へ階段で降りた。
「河本さん、契約の船積み計画ですが、予定をオナキに報告する必要があります。オナキは納期に関しては神経質になっておりますので。それで至急打ち合わせを行いたいのです。畑守さんにも是非ともご出席頂きたいと思います」
チーホルは丁寧に背景を説明した。納期遅れでイルロジの二の舞になっては確かに不味い。無論、納期遅れは全て紅忠の責任となる。ヤヒモナにとっても代理店としての信用に関わる問題だ。チーホルは話を続けた。
「今回の契約から、契約調印後10日以内に船積み予定を提出する必要があります。詳細報告を求められていますが、逆にきっちりと報告すれば信頼されると思います」
「分かりました。畑守に連絡を取ります。ご足労ですが紅忠のテヘラン事務所にお越し頂けないでしょうか」
「もちろんお伺いするのは問題ありません。何時が宜しいでしょうか」
「そうですね、打ち合わせの時間を1時間として、本日午後4時で如何でしょうか」
「それでは私共の方から、ヤヒモナ社長、チーホル、アリそれに受渡担当の者2名、計5名で参ります。出来る限りの事前準備はしておきます」
「恐れ入ります。小菅支店長はその時間には外出しているかも知れません。ご了承ください」
「それでは午後4時に、万が一の交通渋滞で時間が多少前後するかも知れません」
「それはお互い様で、お待ち申し上げております」
チーホルは流暢な英語を話す。多分、アメリカで教育を受けたのだろう。アメリカとイランは、パーレビ国王時代には最も親密な関係だった。当時、多くの若者がアメリカで学んだ。そして帰国後若くして次世代のリーダーとしての地位を確保していた。
長嶋一人で放っておけない。私は御手洗に長嶋の付き添いを頼み、畑守出張員に事務所の方に戻ってもらった。
午後4時前に予定通りヤヒモナのオールキャストを受け入れた。紅忠のメンバーは支店長、佐藤駐在員、畑守それに私の4名だ。驚いたことにヤヒモナで既にリストを作成していた。製品番号、生産国、数量、船積み予定日、入港予定日等々が一覧出来る表になっていた。このような手筈は中東の人は苦手である。チーホルが先導したのだろう。リストを改めて見直すと、今回の入札が如何に大きな取引だったかを再確認出来た。
「納期が一番心配なのが、イランに一番近い国パキスタンと言うのも皮肉ですね」
久し振りに実務の会議に出席した小菅支店長がコメントした。
「一部に100%綿製品がありまして、お隣のパキスタンで手当てすることにしたのです。ところが、最近綿糸の相場が高騰しております。抜け目のないメーカーが既に既契約の値上げを示唆してきているのです。納期と言う『人質』を取られていますので、私共の弱みを突いて来たのです」
綿織物の専門家である畑守が勢い込んで説明した。常時長嶋に付き添っているのが任務なのも大変だ。畑守は本来に戻ってと専門的な話を嬉嬉として披露した。
ニコニコと話を聞いていたヤヒモナ社長が小菅支店長に話しかけた。
「そうそう、支店長のお手すきの時に一度オナキのトップとの会食を手配致しましょうか。彼等は滅多に業者と会いませんが、私共が手配すれば喜んで会ってくれます。今回は初めての取り組みでしたが、商売の可能性を広げたいと存じます。オナキは食品や家電製品の類も頻繁に購入しております。昔は穀物や冷凍チキン等は米国系の商社が納入していたが、米国との貿易は冷え込んでおります。紅忠に是非とも我我のネットワークをご活用頂きたいのです」
ヤヒモナ社長は早や次の商売の可能性を考えていた。もっと大きな案件もある。それはピックアップ(小型トラック)だ。ここ最近急に引き合いの数量が増加している。だが、ピックアップは民生用途と限らない。荷台に小型の銃器を据え付け前線に運ぶことも考えられる。日本車は故障が少なく、砂漠での使用に適している。きな臭い引き合いも多いが、ビジネスか、武器輸出3原則か、米国に気兼ねするか、選択肢は多かった。
その時だった。会議室の電話が鳴り響いた。佐藤駐在員が受話器を取り、私の方に合図した。
「御手洗です」
受話器を取るとホテルにいる御手洗からの電話だった。基本的にホテルからは電話をしない事に決めていた。もちろん、緊急の時は別である。
「緊急か」
その声を聞いて日本人は私の話に耳を傾ける。それと知ってヤヒモナの面々も私の方を見た。
「10分ほど前に無言電話がありました。それからつい今しがた、再度電話がありました。電話の主は『長嶋は634号室に居ない。958号室に居るだろう。今からそちらに行くので待っていろ』と言いました。ひと言も違わずそう言ったと思います。長嶋さんは真横に元気でおられます」
「分かった、我我が行くまで絶対にドアを開けるな。今すぐ行く。支店長、どうも相手に長嶋の居所がバレてしまったようです」
私は受話器を戻しながら支店長を見た。
「佐藤君は連絡係だ。席に戻って待機頼む。支店長と畑守君は一緒に行きましょうか」
「お待ちください。何があったのでしょうか?ここはイランです。我我もお役に立つかも知れません」
珍しくチーホル秘書がヤヒモナ社長に先んじて話をした。私は迷ったが、そろそろ相談するタイミングかと咄嗟に判断した。
「それでは社長とチーホルさんのお2人は我我とご一緒にどうぞ、事情は道すがらご説明致します」
コモドールホテルは事務所の北側を東西に走るタフテジャムシッド通りを隔ててすぐ斜め向かいにある。喧噪と大混雑の車道を横切りながら、鼓動が速くなるのを感じた。相手は何人か。飛び道具やナイフ類を持っているのではないか。もう手遅れではないか。支店長は2人にペルシャ語で要点を説明した。2人は信じられないような顔をしていた。ホテルのロビーからエレベータに乗る時、周りを見渡したが不審者はいなかった。いや、我我に選別の能力が欠けているだけかも知れない。9階の廊下には掃除係のメイドとヨーロッパ系の宿泊客がひとり居ただけだった。緊張感が高まりきった頃、958号室の前に到着した。部屋の中から小さな唸っているような声が聞こえた。何となく身構えながら私はドアを4回ノックした。ワールドホテルの時に確認した合図である。と、思う間もなく御手洗が顔を出した。落ち着いてはいるが緊張していた。
「無事です、長嶋さんも」
と御手洗は報告した。唸るような声の主は長嶋だった。
「誰も来なかったのか」
廊下を見回しながら私は訊いた。
「皆さんお入り下さい」
御手洗が招いた。長嶋はベッドの上に正座し、壁の方を向いて何か独り言を漏らしていた。呪文か読経のような声だった。一見して平常心を失っているのが分かる。昨日より状態が悪くなっていた。ヤヒモナの二人も驚いたようだった。2人は2日前に長嶋と会っているのだ。が、この不運な商社マンは別人のように変わっていた。私は畑守の方を振り向いて訊いた。
「食事の時も部屋から出なかったのだよね」
「はい、ただベッドメークの時にはメイドを中に入れました」
「それは止むを得ないだろう。が、そこまで用心していても嗅ぎ付かれたと言うことだ、仕方無いか」
比較的大きなホテルである、しかも紅忠の前にあるホテルだ。相手は当然見張りを立て、ホテルの従業員に鼻薬も利かせただろう、見つけ出すのは時間の問題だった。だがこうなればコモドールには置いておけない。社宅も不味い。病院も考えられるが所詮公共施設で誰でも出入り出来る。直ぐには思いつく場所が無かった。と、ヤヒモナ社長がチーホルに部屋の外を見張るように命じだ。壁に耳あり、用心に越したことは無い。チーホルが廊下に出てドアを閉めてから漸く切り出した。
「小菅支店長、何かの縁で今回のビジネスをご一緒に受注しました。その中心的な役割を果たされたのが長嶋さんです。長嶋さんがこのような目に遭われて、私達も本当に不本意です。入札ビジネスにこのようなトラブルが付き物と誤解されても困惑します。今回は全くの特殊ケースです。私にはイルロジが絡んでいるように思います。最近イルロジはビジネスが急減しています。他方、イルロジの代わりに受注を大きく伸ばしている企業もあります。実は弊社もその内の1社です。それをイルロジは逆恨みしているのです」
「紅忠以外にも事件があったのでしょうか?」
「我我の同業で、オナキ向けビジネスでは実績が第2位の会社があります。その会社の副社長が最近行方不明になりました。大きなビジネスをイルロジと競合して受注した途端の事件です。ワールドホテルで取引先と会食したのまでは分かっているのですが、その後の消息が掴めません」
「ワールドホテルですか」
思わず私は訊き返した。
「はい、貴社からパーレビ通りを2ブロック程北に上がったところにあるホテルです。但し、行方不明になった事実は表面沙汰にはなっておりません。ニュースになると本人の安否が気遣われます。失跡したままになる懸念もあります。現在は病気で休んでいる事になっている筈です」
「原因はイルロジの先の、どう表現しますか、フィクサーにあるとはお思いになりませんか」
私は微妙な質問をした。が、はっきりとフィクサーと言わないと、質問内容が曖昧になってしまう。
「それは分かりません。安易にどうこう言えるものでもありません。悪い事は申しません、貴社もそこまでは詮索されない方が良いと存じます」
「我我は商社です。ビジネスには興味を持っているが、それ以外の事は極力タッチしないように心掛けています」
「皆さんそうしておられます。私も興味があるのはビジネスであって、それ以外の事は関心もありません。それが大切だと存じます」
「でも、どうして今回これ程までに危険な目に遭うのでしょうか?」
「それは河本さんがご推察通りです。今回の入札絡みでしょう。代理店問題で相手の琴線に触れてしまったと思われます。普通のビジネス活動で、外人が危ない目に遭う事は皆無に近いのです」
「話し合いならいつでも歓迎です。しかし、突然長嶋が拉致されるなど論外です。常軌を逸しています。大変頭の痛い問題です。早い話、今晩長嶋を何処に匿おうかと言う問題があります」
ヤヒモナ社長は暫く思案して答えた。
「相手は我我を標的にしておりません。我我はビジネスで恨みを買う事が無いように細心の注意を払っています。標的は紅忠です。従い、通常なら余計な詮索はせず、我我は距離を置いておけば良いのです。しかし我我は今トラブルを目にしました。どんな背景であれ、このような暴力はやり過ぎです。イルロジとの話し合いは紅忠がされますね。我我が介入すると抜き差しならなくなります。他方、安全問題は我我としても放置できません、当事者が他ならぬ長嶋さんですから」
「で、具体的にはどのようにサポート頂けるのでしょうか?」
「本日は、既に暗くなってきています。真夜中に動くのも考えられるが、余程準備しておかないと危険が倍加すると思います。明日早朝、移動しましょう」
「明日、長嶋をどこに匿えば良いのでしょうか?」
「支店長はよくご存知と思いますが、カスピ海にラシッドという町があります。リゾート地として有名です。そこに私の別荘があります。北、東、西の三面を海に囲まれ、南面の陸地からは一本しか道がありません。ラシッドの町長は私の父親の時代からの付き合いです。町の警察署長も古くからの友人です。町全体が要塞のように長嶋さんを守ってくれます。事態が落ち着くまでラシッドに滞在して頂き、頃合いを見て、国外に移送されるのが良いでしょう」
ヤヒモナ社長はニッコリと笑って話を続けた。
「これは中国人から聞いた話ですが、『ビジネス社会に敵は居ない、やりよう次第で必ず味方に付ける事が出来る』というのです。如何でしょうか、私の別荘を緊急避難にご使用になりませんか?時間を稼いで、河本さんがイルロジとの関係を修復されるのが一番かと存じます」
私の脳裏にイルロジのチリウイア副社長の顔が浮かんだ。彼は相当タフな交渉相手だ。イルロジ社長のように短絡でなく、冷静な判断力もある。本質を外さないで攻めて来る。弱みを見せれば嵩にかかって来るだろう。彼を相手に折り合いを付けられるかどうか自信が無かった。私は判断が付かず小菅支店長を見た。
「ヤヒモナ社長、大変なご厚意を提案頂いてお礼の言葉もありません」
ペルシャ語も堪能な支店長だが、他の日本人の為に英語で話し始めた。
「本来、貴社に甘えてばかりでは良くないと思います。しかし、他に思いつく手段もありません。ご提案に乗らせて頂いて、他方、全力でイルロジとの間で問題の解決に当たりたいと思います。今回のご厚意には紅忠テヘラン事務所の代表としてお礼申し上げます」
ヤヒモナからみて突発的に降りかかった火の粉のような話である。最大限の協力を貰えたと思った。ヤヒモナのビジネスが伸びているのも、社長やチーホル秘書長の人柄によるところが多いだろう。方針が決まったので私は気掛かりな点の意見を求めた。
「色々と思い悩むところがありますが、まず一番は今晩の話です。くだんの副社長もワールドホテルで失跡したとのことですし、コモドールホテルも安全かどうか、心配しております」
「提案したのは私なので、考えられる安全対策は全て講じます」
ヤヒモナ社長は落ち着いた声音で、柔和な表情を崩さず続けた。
「先ずは護衛です。ひと晩のことですし、15名くらいの護衛を付けます。エレベータ、非常階段、ロビー、パーキング等々眼を光らせて、特に9階には各所に護衛を付けます。ホテルの了承は取り付けます。幸い、コモドールの支配人も知り合いですので」
いつしか主導権はヤヒモナに移った。
「明日の移動計画は如何でしょうか?」
「それはチーホルに任せます。囮役と言っては何ですが、河本さんと御手洗さんをお借りしたいと思います。おふたりの安全は保証致します。明日早朝となりますが、5時半にはここに集合頂きたいです。それ以降の手筈はチーホルが整えます。で、畑守さんですが、この部屋に泊まって頂き明日は長嶋さんに一日中付き添って下さい。まだ、詳細を詰めた訳ではありませんが、明朝5時半には全てをご説明出来るように、チーホルに準備させます。チーホルは私の右腕で、実は私以上に能力があり信頼もおけます」
『優秀な右腕』という役割も大変だ。今晩は睡眠をとる時間がないだろう。緊急の任務を与えられたのも知らないで、この部屋の外側を見張っている。
「全て了解致しました。日本人だけではどうすることも出来ませんでした。本当に助かりました」
「お礼の言葉は不要です。でも、明日の朝は早いですよ」
「幸い同じホテルの6階のひと部屋を借りていますので今晩はそこに宿泊します」
「目立つのも却ってどうかと思うので、明朝私はホテルには来ないようにします。チーホルが全てを手配するので全くご懸念には及びません」
ヤヒモナ社長は我我を安心させた。ここはイランである。この種問題を抱えれば日本人だけでは解決は覚束なかった。
- 第三章へ続く -
交渉も逃避行も次章(第三章)で佳境に入ります。