面会
翌日、神山淳が柏木の家を訪れて来たのは午前十一時過ぎだった。柏木がドアを開けると、神山はぺこっと申し訳程度に頭を下げると、「よう」と小声で挨拶をして、半ば玄関に立っている柏木を押し退けるような勢いで部屋に入ってきた。入るなり、
「何でお前は真昼間だってぇのにカーテンを閉め切ってんだ?気持ち悪いなぁ」
と持ち前の態度の悪さを発揮して来た。
「この方が集中できるんだよ。明るいと目がチカチカして遣り切れん」
と柏木は答えたが、神山はその話題はもう終わったという風に、
「お前、手紙読んだよな?」
と返してきた。
「ああ、読んだよ」
「返事は書いたか?」
言いながら神山は、部屋の隅に重ねてある二枚の座布団を、重なった状態で部屋の中央にある背の低い丸机の前に引き摺って来て、そのままそこに腰を下ろした。
「二枚敷いて座る馬鹿がどこにいる。一枚よこせ」
「お前はその勉強机の椅子に座ればいいだろう」
柏木は天井を見上げて顔を顰めると、しぶしぶ神山の言う通りにした。
「主客転倒とは正にこの事だな」
「で、返事は書いたのか?」
「『親しき仲にも礼儀あり』という言葉を知ってるか?」
「返事は書いたのかよ?」
「書く訳が無いだろう」
「そんな言い方ないだろ」
それはこちらの台詞だという咽喉まで昇って来ていた言葉を柏木はぎりぎりの所で飲み込むと、代わりに昨日の朝から溜まっていた鬱憤を吐き出した。
「あんな手紙に返信なんて出来るか。半分はご報告とか何とかに託けた自慢話だし、俺のことを『あなた様』とかやけに格式ばった呼び方しやがって。そのくせこっちの都合も聞かずに一方的に訪問を通告したものにどう返信しろと?それに、なんだあの気取った文章は。噴飯ものだ。『噴飯」とは何だか知ってるか?飯を食べていたら噴き出してしまうほど滑稽だ、という意味だ」
「汚いな」
「あくまで喩えだ。それに、俺がお前に言われる筋合は無い。大方、お前は最近小説でも読み始めたんだろう?小説にはまり立ての男が自分に酔い痴れて書く文章だよ、あれは。俺には分かる」
「待て、いま何と言った?」
神山はそう言いながら突然大げさな身振りで右手を出して柏木を制した。見ると、鋭い目線を柏木の顔に向けてじっと据え付けている。
柏木はああ、これは怒らせたな、と思った。神山が短気であることは知っていたが、俺は少しぬけぬけと調子に乗って喋り過ぎたようだ。今更謝っても手遅れだろうが、まあ何とか手を尽くして頭を冷やしてもらおう、と考えを纏めると、柏木は姿勢を改めて、
「いや、悪かった。怒らないでくれ」
と懇願する口調で言った。すると神山は
「は?」
と、心底解せぬといった表情をとると、柏木には武装体勢の様に見えていたその格好を崩し、
「いや、誤解するな」
と、珍しく弁明するような口調で話し出した。
今度は柏木が「は?」と返す番だった。
「さすがは天下の柏木信二先生だ。俺の言いたい事を的確に見抜く慧眼の持ち主でいらっしゃる。いま先生は、俺が最近小説にはまり出したのでは、と推測されたが、正しくその通り。はまるもはまる、大はまり。寝食を忘れ、妻子を路頭に迷わせるはまり様でございまする」
「お前に妻子は居ないだろう」
「あくまで喩えだ」
「そうか」
「そうだ」
「で、具体的に誰の何を読んだんだ?」
と柏木が尋ねると、神山は一瞬気勢を削がれた様な顔つきになったが、ごほん、と咳払いを一つすると、少し柏木から目を逸らせて、
「何だっけな、昭和の有名な作家のだよ」
と独り言の様に言った。
柏木は、ははん、読んで無いんだな、これは、と直感的に理解した。多分こいつは家で大掃除か何かして、先祖の買った小説でも掘り出したのだろう。確かこいつの家には曽祖父の代に造られた随分立派な書庫があったはずだ。それで頁を繰り始めたが最初の数ページで集中力を切らして投げ出した。だがどうやら有名な小説らしく、読んだとあれば世に言う教養人の仲間入りが果たせるとでも思ったのだろう。ならば途中で止めたとあっては一生の恥。だが気力は一時も続かぬ。そこでこいつは「最後まで読んだと自分自身に思い込ませた」のだ。それがこいつにとって自己愛を保持する唯一の方法だったのだ。なんと倒錯した論理だろう。だが、「お前、ほんとに読んだのか?」などと口にすれば忽ち厄介な事になるのは火を見るよりも明らかである。そう考えた柏木は、
「ほぉ、昭和の有名な作家か」
と、不自然な鸚鵡返しをした。この不自然さは柏木のやや意図した結果で、こうすることで自分が神山の虚飾に感付いている事をそれとなく示唆した形になったが、言ってから柏木は却ってこのわざとらしさが神山の逆鱗に触れてしまうのではないかと危惧した。だが、
気付いたのか気付いていないのか、神山はそのことには触れずに話を続けた。
「重要なのはここからだ。俺は悟ったんだ。小説というものはだな」
神山はここで一息入れつつ身を乗り出した。「小説というものは、当然作者を必要とするだろう?この際定義を明確にするために、小説家と言明した方がいいだろう。ここでお前にも聞いておこうと思うが、小説家の素質を具備する人間とは、一体どんな人間だと思う?換言すれば、小説家になれる人間となれない人間を峻別する基準が何かしらあるとしたら………それは一体なんだ?」
「……」
柏木は敢えて返事をしなかった。俺が何を言おうがこの後こいつの言う事は同じなのだ。要は俺が聞いている振りさえしてればこいつはそれで満足なのだ。案の定、そんな柏木の捨て鉢な態度には無頓着な様子で神山は続けた。
「あのな、そんな基準は存在しないんだよ。そして、『小説家の素質』なんてのも幻想の産物なんだ。『素質』とは何か?先天的に備わっている能力の事だ。だがな、よく考えてみろ。先天的に何かの能力が備わっているなんてことが客観的に見て有り得るのか?答えは否だ。全てはアポステリオリなんだよ。え、そうだろ?努力があってこそ能力がある。努力無しの能力なんて存在しないんだ。どんな天才ピアニストだって歌手だって、幼少期に始まる膨大な時間の努力の蓄積として存在するんだよ。本人がそれを努力と意識しているかどうかは別として、だがな。…おっと」
ここで何故か神山は少し顔を左右に振ると、しまった、といった風に頭を掻いた。
「少し先走り過ぎてしまったようだ。今のだと、恰も小説家とは努力の集結点だとでも言わんばかりの勢いだったな。すまんすまん。お前にとんでもない誤解をさせてしまうところだった。この通り謝る。気を取り直して聞いてくれ。いいか。取り敢えず、『素質』とか『アプリオリ』とかって概念が実にナンセンスだってことだけは理解してくれ。でだ。小説家がピアニストや歌手と決定的に異なる点は何か?ピアニストや歌手は幼少期から一日何時間にも及ぶ練習を何年、十何年、何十年にも渡って続けた者だけに、いや、続けた物の中でも本当に極く極く一握りの者にのみ開かれている非常に狭き門だ。大概の人間はステージの上で聴衆の喝采を浴びる事を夢見つつも、それを現に見ること無くその世界から去っていく。だが、小説家は?小説家もかくの如き存在なのか?俺はさっき、アプリオリな能力など幻想だと言った。幻想だ。確かに幻想だ。努力無しに小説家になる者などいない。だが、この場合の努力は、ピアニストや歌手の場合の努力と同じなのだろうか?『ピアニスト』へ、『歌手』へと向かって行く自己を意識するように、小説家を志す者もまた、『小説家』という名の旗印目掛けて一目散に駆けて行く自己を意識するのだろうか?いや、違う。そうでは無い。そうでは無く、ある意味で人は皆生まれつき小説家なのだ。そして、現在完了進行的に、どの瞬間も人はみな小説家なのだ。『生きること』が『小説家になる努力』…これはまあ、俺以外の無知蒙昧な大衆諸君が生み出した奇妙奇天烈な空想概念なのだが、ここでは敢えてこの言葉を使うとしよう。『生きること』が『小説家になる努力』に直結しているんだ。これは人間の特権なんだ。『生きていること』が小説家たる絶対必要十分条件なんだ。誤解を避けるために予め言っておくが、これは万人がアプリオリに小説家になる能力を具備しているという、先ほど俺が退けた観念を、翻って肯定したことを意味しない。分かるだろう?概念の有無だ。能力の有無は他者との差異の中でのみ概念化される。俺は小説の場合に於いてのみ、能力という概念は否定されて然るべきだと考えたんだ。つまり、万者万有の生はそれ自体で作品なんだ。それらが何らかの偶然性によって言語化されたのが小説という媒体だ。俺はどういう訳か、その偶然に打ち当たってしまった模様なのだ。青天の霹靂とはこの事だと、その時思った。最初は俺のような人間が何故、という言葉が頭に浮かんで仕様が無かった。だが堂々巡りを続けるうちに、これでいいのだ、と全てが肯定出来るようになった。それは今まで説明して来た通りだ。だから、俺は受け入れることにした。欲求に従順に流されていく事を拒むのを拒んだ。お前に送ったあの手紙も、止め処無く湧き出で続ける表現欲求の当然の帰結なんだ。どうだあの文章は?まあお前が俺の文をいくら貶そうが俺は一向に構わん。あれは俺が作り出した芸術なのだ。俺は決心した。いくらお前のような分からずやに自惚れだの気負った新人小説家だのと蔑まれようともそんなもの糞食らえだ。もう一つだけ言わせてくれ。お前は俺の手紙に返事を書かなかった。俺が此処に来て尋ねるまで、口に出すとなれば華厳の滝の如く轟音を立てて流れ落ちてくる言葉の数々を文字化せず、胸の奥深くに仕舞い込んだままだったのだ。これほど愚かなことがあるだろうか。人間の尊厳を無下に蹂躙する一般大衆め。本質的に小説家である事を自覚せずにベンベンと怠惰の日々を送る盲人たちめ。見ておれ。俺は作品を産み出す。俺はお前達とは違うという事を身を以て証明してやる……」
その後も神山は延々と喋り続けていたようであったが、柏木は殆ど上の空だった。何だか同じ様な事を繰り返し繰り返し言っている様にしか思われなかった。要約すると、小説が書きたい、という唯それだけの事のように思われる。そう言えばそれで済むものを、編に引き延ばしたせいで論理の飛躍やら矛盾が見受けられる。恐らく、俺がこいつの手紙を悪く言った後で「小説を書きたい」などと言い出せば、俺の失笑を買うと予測して、ネチネチと論理を捏ねて俺の反撃を先制するつもりだったのだろう。そんな事をしなくても、もともとこちらは向こうの地雷をちゃんと心得て回避しているというのに…。
一通り演説を終えたらしい神山は柏木の肩にぽん、と手を置くと
「暇なお前に仕事をやる」
と言って、柏木の勉強机の引き出しを勝手に開けると、何やらごそごそやって万年筆とメモ帳の切れ端を取り出してきた。そしてそれに丸机の上でカリカリと音を立てながら書き付け、
「ほら」
と柏木の方に投げてよこした。その紙片
は案外的確に柏木の前の勉強机の上に着地した。
「俺は疲れた。帰らさせてもらおう。ちゃんんとそれ読んどけよ」
神山は腰を上げ、帰り支度を始めた。カーテンが引いてある事を差引いても、何時の間にか部屋の中は昼過ぎとは思えない暗さになっている。柏木は紙片には目を当てず、カーテンの狭間に視線を投げた。どうやら外は曇っている様である。そう思った瞬間に、トッ、トッ…と廂を打つ音が聞こえて来たかと思うと、それはあっと言う間にドドドドドッという大粒の雨の音へと変わり、彼らのいる下宿全体を包み込んだ。冬場には珍しい、まるで梅雨時のような豪雨である。柏木は神山に
「豪いなこれは。傘はあるのか?」
と怒鳴るように言った。そうでもしないと聞こえない程、雨は激しかった。
「ああ、心配するな」
と神山もまた怒鳴るように返すと、くるっと踵を返して玄関の方に向かった。柏木は見送る気にもなれず、そのまま椅子に凭れていた。雨は屋根を突き破らんばかりの勢いで降り続けている。神山は靴を突っ掛け、もう一度柏木の方を振り向くと、
「何か言いたい事は無いのか?」
と、滝の如き雨音に負けじと声を張り上げて言った。柏木はまた声を上げるのが億劫になっていたので、ううん、と首を横に振ってそれに答えた。嘘では無いように思われた。
「そうか」
とこれは自分に言い聞かせるような小さな声を出すと、神山はドアを開け
「送ってくれないなんて水臭いぞ」
と言って廊下に出ると、バタンとやけに荒々しくドアを閉めた。もしかしたら神山は怒っているのかもしれない、と柏木は思った。
その直後、柏木は何かを言い出したい衝動に駆られた。それは、言ってもどうせあいつには聞こえない、という確信に支えられているように思えた。雨の音が彼の心を揺さぶっていた。
「時間を無駄にした気分だよ」
と彼は吐き棄てる様に言った。何故か後ろの方は言葉になっていなかった。
あ?と神山の声が小さく聞こえた。どうやら聞き取れていない様であった。柏木は神山が戻って来て扉を開けるのではないかと思った。だが、暫くすると階段を降りて行く足音が、雨音に混じって微かに聞こえて来た。




