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食事を済ませて、預けていた大学の本と多少の荷物をむりやりボストンバッグに詰めると、残りは片手で抱えられるぐらいにおさまった。それを紐でくくって、俺はお由宇の家を出た。
道を歩きながらも、お由宇の言ったことばがぐるぐる頭の中で渦巻く。
渦の中心には、周一郎の姿がある。
広大な屋敷の中で、血の繋がりのない家族に囲まれ、自分を引き取ってくれた養父を殺され、その犯人にされようとされている18歳の少年。猫を膝に乗せて、山根を儀礼的な受け答えで軽くあしらった端正な横顔、俺のことばに思わず笑い、気を許してしまったことを恥じるように突然凍りついてしまった表情。
やばいぞ、とどこかで声がした。
何だか妙に気になって、何だかどこかが納得できなくて、あの静かな微笑の下に何があるんだ、なんて考え始めている。あの姿やことばや仕草や表情が、どこかが何か違う気がして、その奥にあるものを気にしている。
やばいな。
こういう気持ちになるときは、お由宇が言った通り、厄介事に突っ込みかけて、まずいことになりつつある合図のはずだ。
ふと気がつくと、側を通り過ぎた華やかな服装の女の子達がくすくす笑いながらお互いをつつきあって笑っていた。俺がぶつぶつ言っていたせいかと思ったが、どうやら俺のぼろぼろの格好も笑いのネタになっているらしい。
ちっちっちっ、これから俺が入っていく家を見たら、おまえ達なんかひっくり返るほど驚くに決まってる。
心の中で指を振って呟いて、それでも急ぎ足になって、けどやっぱりどうにも気がおさまらず、行き過ぎたのを見計らって振り返り、思い切りすごい顔でべええっと舌を出してやった。
だが、間の悪い時には悪いもので、向こうもちょうど振り返ったところ、ぎょっとする間もなく爆笑されてしまう。
「きゃあっはっはっは!」
「…ちぇっ」
けたたましい笑い声が響き渡ったのに反論する気も失せて、背中を向ける。
「そんなに笑わなくてもいいだろ、そんなに……ちっ」
ぼやきながら八つ当たりで、転がってきたボールを蹴り飛ばそうとすると、それが突然ふわっと飛び上がって、2メートルほど向こうへ飛び去った。勢い余って派手にひっくり返る。
「、てえっ!」
どすっと目一杯腰を打って、一瞬くらっとしたところに、キコキコと三輪車をこいできたガキが、俺の横を通り過ぎていきながら、世にも憎ったらしげに言う。
「ば~~か」
呆気にとられてそいつを見送ると、相手は角を曲がりながら、
「一人でこけてやがんの、くそじじい」
やばい。
確信した。
きっと俺はいつものように、また手を出さなくていいものに関わり、考えなくてもいいことに頭をひねっているに違いない。そのせいで、こんなにあちこちから情けない扱いを受けるんだ。
「わかったぞ、関わらない。うん、関わらないことに決めた。俺は周一郎の『遊び相手』に徹することにする。金で雇われた分しか働かないし、余計なことに首は一切突っ込まない。うん、たとえ、あの屋敷にドラゴンが飼ってあると言われたって、異次元へのトンネルがあると言われたって、金塊が取り放題に眠っていると言われたって、絶対俺は……ひえ!」
突然、転がっていったはずのボールがすり寄ってきてすりすりと足に絡みつき、悲鳴を上げた。ついに幻覚まで見るようになったのかと思って、慌てて目を閉じる。だが、足下の柔らかな感触はなくならない。おそるおそる目を開けてみると、それはボールではなく、あの周一郎の猫、ルトと呼ばれた青灰色の小猫だった。
「なんだ、おまえだったのか」
恨めしく吐いて相手の首をつまみ上げると、ルトはにゃあおん、と鳴いて、俺の目を見返した。
金色の、どこか無機質で透明な視線。
「この目はどっかで…」
呟いて、思い出す。
そう、あの周一郎の視線だ。微笑んでいるのに笑わない、こちらの背中の向こう、心の奥まで、潜んでいるもの全てを見抜くような視線の気配。
「飼い主に似るって言うのは本当なんだな」
ルトは俺が立ち上がると、まるで俺が確かに朝倉家に戻ってくるのか監視しに来たとでも言うように、足下にまとわりついて歩き始めた。
「何だよ、何を心配してる?」
戯れ半分に話しかける。
「にゃおん」
ふかふかの柔らかそうな耳を立てて見上げてくる。
「大丈夫だぞ、俺は他に行くところなんてないしな。とにかく、何が起ころうとどんな人間だろうと、多少のことは目をつぶってでも辞めるわけにはいかないんだ。でなきゃ、今日、今すぐからでも干上がっちまう」
「にゃ」
あ、そ。それならいいんだ。
ルトは、そう呟きでもしたように鳴くと、くるりと身を翻してどこかへ駆け去っていってしまった。
「何だよ、変な奴」
俺の言うことがわかってるみたいなじゃないか。
そう考えて、ふともう一つの奇妙な感覚に気づく。
まるで、周一郎が猫の姿を借りて、俺の動きを確かめに来たみたいだ、と。
「まさかな」
思わず笑った。
猫が人間に化ける化け猫は聞いたことがあるが、人間が猫を乗っ取るってのは聞いたことがないし、第一そういうのは何て言うんだろう? 猫又ならぬ、人又?
苦笑しながらずり落ちかけた本を抱え直し、それでも急かされるように朝倉家に戻ったのは、周一郎が待っているような気がしたからだ。
巨大な門は閉じていた。
周囲を見回し、見つけたブザーを鳴らすと、ゆっくりと扉が内側に開いていく。高野が側に居たのかと思ったが、単に電動で開く仕掛け、よく見ると扉近くにちゃんと小型カメラが備え付けてある。
「ああそうか」
初めてここに来たときにも、きっとこのカメラで、俺の姿やことばが屋敷の一室に通じていたんだろう。それで周一郎か高野が、俺がここにもたれてへたって、ぶつぶつぼやいていたのを眺めていたに違いない。
ルトが知らせた、なんて、そりゃ周一郎が笑うはずだ。
そうすると、さっきルトの向こうに周一郎の気配を感じたなんて言うのも、最初のやりとりから、俺が無意識に作り上げた妄想なんだろう。
「なるほどなあ」
人間の頭ってのはずいぶん勝手に適当なことをでっちあげるもんだ。