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悩む俺を放って、お由宇は勝手にトーストを半分ちぎった。一口かじってコーヒーにも手を伸ばす。
「俺のだって!」
「はいはい、騒がないの」
こくん、と喉を鳴らして呑むと、広げたスクラップ・ブックの一カ所、赤いボールペンで囲まれた部分を指さして見せた。
「ほら、ここ」
覗き込んだ俺の目に細かな文字が飛び込んでくる。飾り枠で囲んだミニコラムのようなもの、『事件その後』というタイトルからすると、未解決事件などのその後を追う記事らしい。
お由宇の滑らかに整えられた指先を追って読み下す。
「えーと…昨年十二月二十八日午前三時ごろ、三澤市谷塚町で起こった殺人事件は現在も捜査中だ。有力な手がかりは未だ掴めていない。被害者、朝倉大悟さん(52)は通行中に何らかのトラブルに巻き込まれたと思われるが、目撃証言も少なく、朝倉さんがなぜ刃物で殺傷されるに至ったかの経過は明らかになっていない。捜査班はさまざまな関係者から事情徴収し、より多くの情報を得ようと努力している。都会の闇に呑み込まれた命は…」
倒れていた大悟がいつから放置されていたのかわからないことや発見され救急車が駆けつけるまでの時間に言及しているところを見ると、書き手は、社会的な責務をきちんと果たしていた立派な紳士が、街の裏側とでも言いたいような場所で絶命していたことに憤りを感じているらしい。
「……そして、殺された大悟さんの側ではその死を悼むかのような、悲痛な猫の叫び声が響き渡っていたと言う。猫でさえも命の尊さを叫ぶのに、人間はまだそのレベルにさえ達していないと言うのだろうか…………ふむ」
俺は顔を上げた。
「これが『殺された』ってやつなのか。犯人はまだ捕まってないし、状況も
今一つわかってないみたいだな」
お由宇は頷いた。
「とても曖昧に書かれてるけど、実は、朝倉大悟っていうのは政府に関わりがある資産家でね、金融関係だけでも大小併せて五つぐらいの銀行の筆頭株主を務めてるのよ」
なるほど、それで、あの豪邸か。
「警察への影響力もそれなりに大きい人物で、単なる強盗や通り魔の仕業とは思われてないわ。裏から表から徹底的に調査されてるけれど、事件は進展していない。今のところ一番有力な説は、息子の周一郎が財産目当てに父親殺害に関わったと言うものだけど」
「は?」
脳裏に周一郎の怜悧な微笑が過る。
なるほど、あれだけ賢ければ完全犯罪とかもできるんじゃないかと疑われるということか。けど逆に、そんなことが想像できるぐらいなら、完全犯罪にならないだろう、真っ先に疑われちまうんだから。
「それはあんまり…」
「ばかばかしいわね」
お由宇はあっさり言い切った。
「周一郎は現在18歳。身体上の理由から義務教育を終えると、すぐ家庭教師について、今では三流大学の助手ぐらいは勤められるんじゃないかと噂されている」
ひょっとすると俺よりはるかに賢いってわけだ。
「黙っていても、今のままで周一郎は朝倉財閥を継いだだろうし、今の朝倉財閥には、血縁を外したとしても、彼以外に後々財閥を率いていけるだけの才気を備えた人物もいない」
ひょい、とお由宇は肩を竦めた。
「そういう頭脳と立場の人間が、好きこのんで殺人のリスクを冒すとは思えないわ」
珍しい。俺とお由宇の意見が一致した。
「……あ、でも」
俺は高野の家族紹介を思い出した。
「美華ってのは? 順序から言うと彼女の方が継ぐんじゃないのか?」
「そうね」
お由宇は奇妙な笑みを浮かべた。
「美華は実子だしね、普通の発想なら、美華の方が有力だと思えるんでしょうけど」
「つーと、周一郎ってのは」
「養子。しかも、大悟が選んできて養子にしたと聞いてるわ」
大財閥を率いる男がわざわざ選んだほどの才能を買われた少年。確かに物怖じしない気配はあった。
「朝倉大悟は冷徹な実業家だった。気まぐれやお情け、成り行きで、どこの馬の骨かもわからない子どもを養子にするタイプではないわね」
「つまり?」
お由宇が何を言いたいのかわからなくて、続きを促した。
「周一郎は大悟にとって、朝倉家に必要とされる素材だったというところかしら」
素材。
引っ掛かった俺の顔に気づいたのだろう、お由宇は柔らかく苦笑する。
「周一郎もそれを十二分に理解していたはずよ。………それを捨てるどんな理由があったのか、というところ」
「ふうむ」
やっぱりどういう方向から考えても、周一郎が犯人という説は根拠が薄いってことか。
「……あいかわらず、よくそんなこと知ってるなあ」
俺は記事を改めて眺めた。出されたスクラップブックの、朝倉大悟殺害に関する記事をあちらこちらと斜め読みして首を捻る。
「そんなこと、どこにも書いてないぞ」
「……警察に知り合いがいるの。厚木等。警部よ」
「おいおい」
それって個人情報駄々漏れってことじゃないのか? それとも、その警部もお由宇の手玉に取られて、守秘義務もどこへやら、べらべらしゃべってしまっているクチか?
「…遠い親戚だけど、私の唯一の身寄りということになるかしらね」
一瞬、お由宇はどこか悲しそうに笑った。だが、笑みは幻のようにすぐに消えた。
その表情の消え方は知っている。これ以上、この件について尋ねないでね、という懇願だ。
俺は素知らぬ顔をすることに決めた。一宿一飯の恩義だ。
「お由宇に身内なんていたのか」
あまりうまくはないが、とぼけて見せる。
「ばかなこと言ってないで、早く食べてね。片付かないから」
さらりと流して席を立った背中がそっけなく見えた。