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いろいろ整理されることもおありでしょうから、と高野はその日一日を俺の『自由時間』にしてくれた。
「夕食にはお戻り下さい。皆様にご紹介いたします」
「皆様って、あの…」
ここにいるのは、あの周一郎と高野達だけではなかったのか。
疑問が顔に出たのだろう。
「坊っちゃまはご説明なさらなかったのですか?」
高野は驚いた顔になった。
「え、はい、ご説明なさられていませんが…」
「そうですか」
俺のしどろもどろの間違い敬語を指摘することもなく、高野は少し考えた後、
「こちらには、坊っちゃまの他に、奥様の若子様、坊っちゃまのお姉様の美華様、叔父様の桜井茂様とお従兄弟の信雄様がお住まいになっておられます。後ほど夕食の席でお引き合わせいたします」
「はあ」
それだけの人間が同居しているのか。にしては、人の気配のしない家だ。というより、気配なんかを感じるには広すぎるってことなんだろうか。
「それでは」
さっくりと送り出そうとした高野に、気がついて慌てて尋ねてみる。
「あの、さっきの紹介にいなかったようですが、だいご、っていう人は」
たぶんそれがここの主人だろう。
「主は一ヶ月ほど前に亡くなりました」
「は?」
亡くなった、ってことは死んでる、ってことだよな?
「病気か何かで?」
それにしてはばたばたしていない、さすが大きな屋敷の持ち主、後々まで配慮が行き届いていたのかと感心した俺に、高野はさらりと応じた。
「いえ、殺されました」
「はい?」
「それでは、6時までにお戻り下さいますように」
形だけはうやうやしく頭を下げた高野と、ばたん、と目の前でしまった扉に俺は凍りついてしまった。
何だって?
殺された?
おーい。
そんなの、聞いてないぞ?
いつまでも追い出された犬よろしく扉の前で待っていても仕方がないので、とりあえず、俺はお由宇の家を尋ねた。
お由宇。
本名、佐野由宇子。
彼女は啓仁大学の近くのこじんまりした平屋に住んでいる。
心理学部の三年、なかなかの美人で切れ者だが、浮いた噂の一つもないのは、独特な得体の知れなさによるかもしれない。よくわからない広範囲な人脈と情報網を持っていて、一介の学生にしては信じられないような知識を持ち合わせていたりする。金持ちで情報通の愛人がいるという話もあるが、生活は荒れている気配がない。普通なら、そんな噂は気になるものだろうに、当の本人はそれを気にした様子さえない。
ブザーを鳴らすとすぐにドアが開いて、お由宇の白い顔がのぞいた。
「あら」
「預かってもらってる本、もらってく」
「行くところができたの?」
綺麗な目が柔らかく笑う。
「ああ、住み込みのバイトで。それがさ」
ぐうううううううぅうう。
「……お腹がすいてるのね。何か食べる?」
「すまん」
くすくす笑ったお由宇が俺を家に招き入れる仕草に、相変わらず緊張感はない。だから男を呼び込み慣れているんだと言われ、愛人がいることになるんだろうが。あるいはただ俺が男として認識されていないだけかもしれない。
「あ、けど、今はまだ金がないんだ」
「出世払いにしておくわ。請求書は月末に出すから安心して」
もこもこっとした緑のセーターに灰色のスラックス姿、エプロンを首にかけながら答える。
バイトでへまをやっては食いはぐれる俺を、お由宇はあれこれ助けてくれる。そのせいで、俺は時々お由宇に気がある連中から冷たい扱いを受ける羽目になる。
なら、じゃあなぜ、お由宇が俺を助けてくれるのかについては、実はこっちの方が聞きたいぐらいで、よくわからない。もちろん、お由宇が俺を好きだの何だのと打ち明けられたこともない。なけなしの勇気を振り絞って尋ねたこともあるのだが、いつもうまくはぐらかされている。
「それでも着てなさい。大の男がぶるぶる震えているのはみっともないわ」
お由宇が厚手の男もののジャケットを放ってよこした。
ありがたくいそいそと羽織りながら、何となく納得する。
なるほどきっと、俺があまりにもいつも情けなさ過ぎるからなんだろう。ほら、駄目すぎる男は母性本能を刺激するとか何とか言わないか?
…………嬉しくない。
「ちぇ…」
襟元を掻き合わせると微かに甘い香りがする。なのに、お由宇がこれを着ている男に抱き締められている図は想像できない。想像力が貧困なのか、それとも考えたくないから拒否してしまうのか。
「うーむ」
「何うなってるの」
お由宇が苦笑した。
「トーストは?」
「5枚」
「ハム・エッグ、卵2個でいい?」
トーストに卵。温かな、胸躍るその光景に思わず気持ちが弾んだ。
「3個。できればハムが3枚以上あると嬉しい」
ハムに乗っかったとろりと温かい卵。まともな食事も久しぶりだ。
くるりと唐突に、笑み崩れている俺をお由宇が振り返った。
「請求書が怖くないなら、そうするけど? ついでにコーヒーをブルーマウンテンにしてあげる」
「怖くないからしてくれ。一週間後には7万入る!」
意気揚々と宣言した。
「いい稼ぎね」
きらりとお由宇の目が光る。
「だろ? 三食付きだぜ~」
思わず自慢してしまうと、お由宇は落語をしゃべるらっこを見たような顔になった。
「あなたを雇うようなホストクラブがあるなんて、思わなかったわ。世間は広いわね」
「あ、あのな」
心底感心したようなその声音に、何だか二重に落ち込んだ。
「違うよ、朝倉っていうでかい家の子どもの『遊び相手』だって。何して『遊ぶ』のかは、まだ聞かされてないけど」
「朝倉」
繰り返したお由宇は、いつのまに作り上げたのか、湯気の立つハム・エッグスとトースト、コーヒーを運んできた。片手にもってきた布巾でテーブルを拭き、料理を置き、向こうへ行くついでにテーブルの上の一輪挿しをさげていく。合理的で無駄のない動きはお由宇そのものだ。
エプロンを外して椅子の背にかけ、部屋から出て行ったかと思うと、まもなく数冊のスクラップブックを持って戻ってきた。PC全盛時代にスクラップブックも珍しい。
「何だ?」
トーストをかじりながら尋ねたが、お由宇は俺の前に腰を降ろして、物も言わずにスクラップブックを広げ始める。しばらくあちらこちらと捲っていたが、やがて、ふう、と溜め息をつき、まるで大きな子どもを見るような目でこちらを見た。
「ほんとうに、厄介事ばっかり、拾ってくるのね」
「人を事故車のように言わないでくれ。まあ確かに、その家の主人てのは、一ヶ月ほど前に殺されたらしいけど。それに何だかいろいろと家族以外の人間が住み込んでる」
というか、あの屋敷に住んでいる人間は、きっと家族以外の方が圧倒的に人数多いぞ。
「殺されたらしいけど、じゃないでしょ、もう」
お由宇は呆れ果てたという顔になった。
「あなた、そこに住むのよ? ……トースト、半分ちょうだい」
「俺のだぞ」
「作ったのは私よ」
どういう理論だ。