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猫たちの時間 〜猫たちの時間1〜  作者: segakiyui
1.奇妙なバイト先
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6

「猫語? ぼくが猫語だって?」

 膝に乗せていた小猫が急いで飛び降りたほど、少年は体を揺らせて笑っている。

「えーと…」

 微妙な気分になりつつも、突っ込む気はあまりなかった。

 こういうのは、俺にとっては珍しい反応じゃない。自分ではそれほどおかしなことをしているつもりはないが、なぜか相手がこんな状態に陥ることは結構ある。爆笑、困惑、時には激怒。

 まあ、厄介事を磁石なみに引きつけてくる才能だけはあるらしく、年中何かに巻き込まれているから、今更多少のことでは驚かないが、周一郎の次のことばだけは驚いた。

「あなたを雇いたいな、うん、ぜひ」

 笑い声の間から零れた無邪気な明るい声。

「へ?」

「猫語、どんな言語体系になるんだろう、それこそヨーロッパ圏の……、っ」

「?」

 だが、それこそ何が起こったのだろう、楽しげに猫語の在り方を論じようとしていた次の瞬間、周一郎は突然笑うのを止めて凍りついてしまった。

「あの…?」

「あ…」

 まるで自分が何を言ったのか覚えていないと言う顔で、おどおどと俺を見る。

「あの、ぼく…」

「今、雇いたいって言った、よな……?…」

 俺があまりにも期待一杯で答え過ぎたのだろうか。

「……」

 応じた瞬間、周一郎は見る見る血の気が引いた真っ白な顔になってしまった。

 単に気分が悪いとかそういうものじゃなく、身内が死んだとか、目の前で大事故が起こるのを目撃したとか、避け難い悲劇に正面からぶつかってしまった人のように。

 冗談だったのか? いや、確かに雇いたいと言ったぞ、それもぜひ、と。

 その後、俺は不快にさせるようなことは言ってないはずだ、猫語にも突っ込まなかったし、吹き出されても怒らなかったし。

 なら、一体どうしたのか。

 見開いた黒い瞳は二つの穴のようだ。見たくないもの、考えたくないものを突きつけられて、それが現実だと言うのを拒否するような虚無、それに近い。

 けれど、まだ17、8だろ? こんな大きな屋敷の『お坊っちゃま』で、山根を撃退するほど頭が良くてしたたかで、こんなに美形で、何をそんなに怯える必要がある?

 さらさらと考えて、改めてはたと気づき直す。

 ああ、そうか、こいつ、怯えてんだ。

 気づいてなおも悩む。

 いやそれこそ、何に怯える必要があるんだ? こいつを脅かしそうなものなんて、世界にはないんじゃないのか?

 考え悩んだ末に、なら、これしかないだろう、とさっきの話を思い出す。

「あの、もし気分が悪くなったんなら、サングラスかけててもいいけど……そういうのは、俺、気にならないから……ひ」

 うわ。

 今度は相手はいきなり真っ赤になった。人間の顔がここまで突然色を変えるとは思わなかったほど、見る見る首筋から染め上げていった紅が頬を登り額や耳まで真っ赤に染めていく。

 ど、どうしたんだ。何かあったのか、急激な発熱とかショック症状とか俺の全く知らない別の病気とかか。

 急いでサングラスを顔に押しつける、その指先まで震えているように見える。

「おい、だいじょ…」

「わかりました、あなたを雇います」

 いきなり固い冷ややかな声で言い放った。

「は?」

 思わず覗き込んだ俺の視線をあからさまに避け、顔を背ける。サングラスをかけたせいで少しは落ち着いてきたのか、顔色がするするとピンク色程度に戻ってくる。とすると、これもまたシュウメイとか言う奴の影響か?

 混乱する俺に、

「名前と自己紹介をしてください」

 いや、聞く気ないだろ、お前。

 顔を背けたまま、今にも逃げ出しそうな気配さえする相手を俺はちらちら見る。

 大丈夫なのか、本当に? 

 とにかく、会話も続かないし、雇われるなら週給7万は拒否する理由なんかない。こいつの世話と猫の『遊び相手』だって、あ、逆か、まあ何とかやれそうな気もしてきた。

 要は体調とかに多少気を配って、我が儘を聞いてやればいいんだよな? で、生意気そうな口調とか、ひょっとすると小馬鹿にされたり嘲られたりするかも知れないが、札束が話してるんだと思って我慢すればいいんだ。

 よし。

「えーと、僕は滝志郎、啓仁大学文学部三年。家族はいない。今のところ、住むところも食べ物も金もない。あの、もし迷惑でなければ、雇ってもらえるのは非常にありがたいんだが。『遊び相手』というのが何をするものなのか、よくわからないけど、一所懸命やります、はい」

 精一杯受けも狙って明るくやってみたが、聞いているのかいないのか、周一郎は表情を凍らせたままだ。自己紹介が終わるや否や、慌てていると言っていいほどそっけない様子で立ち上がった。

「雇うと言ったでしょう。後は高野と打ち合わせて下さい、では失礼」

 言い終わると、俺の方を一度も見ずに、足下にルトをまとわりつかせたまま部屋を出て行く。

「高野と?」

 執事と『遊び相手』のやり方を打ち合わせる?

 それはそれで、何かいろいろ怖くないか?

 取り残されて呆気にとられていると、高野がやってきて、俺をまじまじと見た。

「坊っちゃまがあれほど笑われたのは久しぶりです」

 まるで世紀の傑作を前にしたような感嘆の口調。

「はい?」

 どういうことだ? 

 ………ひょっとして、あいつを笑わせることが雇用条件なのか? 

 それなら確かに山根じゃなくて、俺が雇われた理由もわかるが、『道化師』が必要だとは聞いてなかったぞ?

 ふいと玉座に座った周一郎の前で派手な衣装を身に着け、おどけてみせる自分のとんでもない姿が過ってふるふると頭を振った。

 戸惑う俺を上から下まで眺め、高野は溜め息をつきながら首を振った。

「あなたは『特殊な』方ですねえ」

「はあ?」

 いや、だから、何だその『特殊な』って形容詞は?

「あのですね」

 特殊な……道化師?

「お部屋にご案内します、どうぞ」

 それ以上の質問を鮮やかに封じて、これまたさっさと先に立って部屋を出て行く。後から俺がついてくることを微塵も疑わない君主的な対応、ということは、俺は高野より下という扱いなのか? 

「……うーむ…」

 慌てて従って通り過ぎていく部屋部屋やこれまた絨毯が敷かれた階段を上りながら、俺は考えを改める。

 ひょっとすると、俺はこの家ではあのルトより下ぐらいの扱いなのかもしれない。

「猫の……『遊び相手』……?」

 その場合、玉座についているのは、ルト、だよな?

 実はそれはそのうち、当たらずとも遠からず、であることがわかる。

 そして、俺は、これまでで最大の厄介事に突っ込んでいっているのを、この時は全く気づいていなかった。


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