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眼鏡を外した瞳は閉じられていて、思わず俺達は息を呑んで相手を見つめる。動作一つ一つが、まるで映画俳優の仕草のように鮮やかできれいだ。
俺達の視線を釘付けにすることを目的にでもしているように、少年は閉じていた目をゆっくりと開いた。
「…………」
サングラスの下の目は、一瞬想像したように特別変わった色であるとか、左右違う色だとかではなかった。白濁してもいなかった。
涼やかに澄んだ真っ黒な瞳。黒曜石という石があるが、ああいう感じの深く透明な輝き。ただ、日本人でも虹彩と瞳孔の区別がつきにくいほど真っ黒な目というのは珍しいんじゃないだろうか。
へたに覗き込むと目が離せなくなる。こちらの心を呑み込んでいってしまう、ブラックホールのような底知れなさ。
「ぼくがサングラスをしているのは」
少年が話し出して、俺は我に返った。山根も同じ気持ちだったらしく、隣でぱちぱちと慌ただしく瞬きをする。
「先天性の弱視のせいです。特にシュウメイがひどくて、あまり明るい場所にいると気分が悪くなるんです」
淡々とした声音、まるで自分のことではなく、誰か他人の病気について話してでもいるような。そのせいか、相手が何を話しているのか、今一つよくわからなくて戸惑った。
「あの…『弱視』って? それに『シュウメイ』ってのもよくわからないんですが……えーと……すみません」
ちらりと少年がこちらを見て、俺は慌てて謝った。
年齢的に言えば、山根の口調が正しいんだろう。これから雇うかどうかの面接中、そういうことを考えていたから敬語、そういうわけでもなかったが、たぶん、俺は相手の瞳に呑まれてしまってる。
何だろう、あの視線。
何を見てるんだ?
少なくとも俺達じゃない、よな? うん、そんな気がするんだが……気のせいか?
困惑が疑問符になって、頭の中にどんどん積み上げられていく。
何度も尋ねられたことだったのだろう、少年は淡く微笑んだ。
「先天的に視力が弱いんです。眼鏡をかけても矯正しにくくて。シュウメイというのは、光を嫌がることです」
羞じる明るさ、と書きます、と少年が付け加えて、山根はすぐにああ、と思いついたようだが、俺には漢字が思い浮かばなかった。けれど、何となく意味はわかった。同時に、光を嫌がる、と言ったとき、少年の笑みがわずかに陰ったのも。
どこか自分を嘲るような、なのに、どこか泣き出しそうな、そんな一瞬の影。
だが、それはすぐに品のいい曖昧な笑みの中にかき消えた。
「それで、君の名前は?」
「朝倉、周一郎といいます」
「よろしい」
場の主導権を少年に握られかけたと気づいたらしい山根が、姿勢を立て直し、胸を張って威圧的に言い放つ。
「それでは、僕も君の問いに答えよう」
一人、頷いて見せる。
「君の人生の先輩、というのはだね、君ぐらいの年頃のいろいろな悩みにアドバイスをしてやれる、ということだ」
山根は勿体ぶってことばを切った。思い入れたっぷりに間を置く。
少年が訝しげに自分に注目するのを十分に待ち、求めていた視線が得られると穏やかに微笑んでみせる。
「愛や性や、そう、生きる意味について、とかね」
ああ、あの笑顔ね。あれに弱いんだよな、世間の皆さん、特に女の子な。加えて曖昧で甘い、思いやりありそうな声で囁かれたりすると、そりゃもう終ったも同然だよな。
畜生め。
もう一個ケーキは出ないのかな、と思いながら空の皿を眺め、最後通告を待っていると、少年がにこやかな笑みを崩さないまま、さらりと告げた。
「結構です、お引き取りください」
がくん、と音がしたほど、山根の口が開いて顔が惚けた。自分の耳が信じられないといった様子で、数回瞬きをする。
「……君、」
「ぼくが欲しいのは、『遊び相手』であって、『人生の先輩』ではありません」
周一郎はそっけなく続けた。
「君は」
「何か?」
言い間違えではないとはっきり思い知らせるように、黒曜石の瞳は笑みを満たして煌めいている。
山根の顔色が青から赤、赤から青へと忙しく変わる。膝に載せていた手が固く握りしめられ、絞り出すような声が漏れる。
「……後悔するぞ」
周一郎は脅されたとさえ感じなかったらしい。
「どうぞ、お引き取りを。高野がお送りします」
ドアが開いて、今までそこで立ち聞きして居たんじゃないかと思うぐらいのタイミングの良さで、高野が現れた。
山根が歯ぎしりしながら立ち上がる。きっと至上最大の屈辱だろう。今までこんな風に山根があしらわれるのを見たことがない、大学でも街中でも。
神様ってのはやっぱり居るもんなんだよなあ、うん。
思わず浮かれた顔が表に出たのだろう、俺の側を通り抜けながら、
「お前も無理だよ」
「ほっとけ」
言われなくともわかってる。過剰な期待なんてしていない。
だが、とりあえずケーキで腹は膨れたし、とにもかくにも、もう少しは歩く元気がでてきただけ、ましになったというもの、人生捨てたもんじゃない。
「さて、あなたです」
山根が出て行くのを見送ることさえなく、周一郎はくるりと俺を振り返って促してきた。
「自己紹介をどうぞ」
マジですか。まだやるのか。
「えーと、その、うん、困ったな」
くすり、と周一郎が笑った。心なしか、さっきよりはずっと年相応の笑みに見えた。
言いあぐねている俺に助け舟を出してくれさえする。
「さっき、ルトに話してくれたように話してくれればいいんですよ」
「へ?」
思わずきょとんとした。
ルトって、あの猫だよな?
そう言えば、確か高野は、俺が居ることを周一郎から聞いた、と言っていた。
なぜ知ってたんだろう。
そう言えば、確かに俺はルトに頼んだんだよな、伝えてくれって。
しかし、まさか、なあ。
自分の思いつきがあまりにも馬鹿馬鹿しいとは思う、思うが、どうしてだろう、この目の前の奇妙な瞳の持ち主ならあり得そうだとか思ってしまうのは。
「まさかほんとに、その猫が人間のことばがしゃべれるとか、君が猫語をしゃべれるとか…」
「は?」
一瞬、周一郎の顔が惚けた。目を見開き唇をぽかんと開けて、まるで通りで河童とでもすれ違ったと言うような顔、次の瞬間、ぱあっと顔を桜色に上気させて吹き出した。
おお、人形が人間になった。
こいつも生きてるんだな、と妙な感慨を抱く。