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「ばかだと言ってくれ、お由宇」
ベルを鳴らして顔を出した相手に、俺はぼやいた。
「また、バイトを馘になった」
「あらら…」
お由宇は首を竦めた。
「まだ二日目じゃなかった?」
「皿を十五枚割ったんだ」
さすがにお由宇が目を見開いた。
「昨日と今日で?」
「今日だけで」
「道理だわね」
頷いて、俺を家に招き入れてくれる。
「いいの? 家賃たまってるんでしょ」
「コートを持ってかれた」
お由宇はくすくす笑った。
「いつかと同じパターンじゃない」
黙り込んだ俺に追い打ちをかけるように、
「知ってるでしょ、朝倉家にまたバイトの口があるのは」
「知ってるさ、でも、行っちまえば『いつかと同じパターン』をまるっきり繰り返しちまうじゃないか!」
「いじっぱりね。今度は知らないわよ、追い出されても」
呆れられてぐっと詰まる。
大家に放り出されてお由宇の所に転がり込めないとなると、駅か公園のベンチにお世話にならなくてはならない。春に向かっていくとは言え、まだ冬のこの季節にそれはあまりにつらいだろう。
「それに」
「え?」
「また山根くんも行ったわよ」
「いつ?」
「今日」
俺はせっかく淹れてもらったコーヒーの残りを口に放り込むと、慌ててお由宇の家を飛び出した。
「いってらっしゃい」
背中でお由宇が心得たように声をかけた。
朝倉家の長い長いレンガ塀もずいぶん久しぶりな気がした。
このくそでかい屋敷の奥に、世間を欺き通したあいつがいるわけだ。
そうとも、どこの誰が、あんな子どもの計画のままに事件が展開したなんて考えるだろう。
「……ふえ」
そこまでシリアスに決めてきた俺は、以前と同じように門の近くに貼られている紙を見て呆気にとられた。
「……当方、子どもの遊び相手を求めています。年齢二十歳以上、男子、経験・経歴(学歴を含む)不問、但し、住み込み(三食付き)、週給…」
俺はもう一度見直した。
間違いない。
「週給三千五百円、他は相談のこと…」
おいおい。
ぽかんと開いた口をようやく閉じる。
確かに以前は法外だったが、だからと言って、これは凄すぎるんじゃないか?
「これじゃあ、山根は帰ったろうなあ」
「はい」
「わ!」
突然間近から答えが返ってびっくりした。
「高野…さん」
「山根様はすぐにお帰りになられました。お声さえかけられておりません。が、それでよろしかったのです。私がお待ちしていたのはあなたですから」
あいもかわらず地味な黒背広姿の高野は、静かな口調で応じた。
「これは、私の一存でございまして」
「ちょ、ちょっと待て」
俺は高野を遮った。
「俺なら、週給三千五百円でも来ると思ったのか」
「お仕事の方が、いささか滞っておいでのようでしたので」
「帰る!」
「坊っちゃまは」
その出だしで動けなくなった。向きを変えて立ち去ろうとしたのを、渋々戻る。
効果を十分に確認して、高野は続けた。
「寂しがられておいでです」
「まさか!」
俺は溜め息をついた。
「俺は『家風』に合わないからって見事に馘にされたんだぞ。見舞いに行った時もそんな様子は全くなかった、断言してもいい」
逆に散々お人好しのお節介だとなじられたようなもの、自分の無力さを二重三重に感じてとぼとぼと帰ってきたのだ。
「どうぞ、こちらへ」
高野は門を開けて俺を招いた。
いつもの小道を少し外れて、小庭園のような場所に出る。こじんまりとしたテーブルセットがしつらえられ、そこから湖が一望できた。
「へえ、こんなとこもあった…」
呟きかけて、そこにほっそりとした少年が湖の方を向いて座っているのに気づく。風はないとはいえ、結構冷えるのに、その冷気さえ楽しむような孤独な姿だった。
人の気配に気づいたのか、僅かに身動きした周一郎が、向こうを向いたまま、声をかけてくる。
「高野?」
「はい、おります」
「何だか、静かだな」
「そうでございますね」
「人がみんないなくなった」
少しの沈黙の後、周一郎は小さく笑った。
「滝さんがいれば、一人増えただけでも賑やかなのに」
その声に含まれた人恋しそうな響きは、どきりとするほど素直だった。
「そうでございますね」
動きかけた俺を高野が手で制する。穏やかに応じながら、
「滝様をお呼びしましょうか」
「馬鹿なことを言うな」
周一郎は一蹴した。
「もう一度、あんなことに巻き込んだら…」
声が頼りなく揺れて消えた。
「ぼくは朝倉家を相続した。これからますます、いろんなことが起こってくる。滝さんは………足手まといになる」
あ、あのなあ。
ふてた俺に高野は微笑んで、珍しく、立てた人差し指をそっと唇に当てるという柔らかな仕草を見せた。
「そうでございましょうか」
口調だけはあくまで生真面目に、
「お部屋のお写真だけでは、お寂しいことがあるのではありませんか?」
は?
俺の頭の中に大きなクエスチョン・マークが浮かんだ。
誰の写真が、どこにあるって?
「…それに、滝さんはもう、来てくれないよ」
周一郎が掠れた声で呟いた。
「ぼくは、滝さんに嫌われたから」
「嫌いだなんて、言った覚えはないぞ」
思わず応じて、慌てて口を押さえたが、思いっきり遅かった。




