5
「俺は単純で扱いやすい人間だった、というわけだ」
俺の精一杯の皮肉に、周一郎は唇を吊り上げた。
能面のような凍った笑み。
「俺がお前の思った通りに動いていくのを見るのは、楽しかったか?」
「ええ、とっても」
ビシッ。
押さえ切れずに動いた俺の手を、周一郎は避けなかった。体が揺れるような衝撃を片頬で受け止めて、それでも激することも怯むこともなく、
「気が済みましたか?」
薄赤くなった頬で尋ねてきた声は固かった。
どんな力の介入も、どんな種類の優しさも拒む固さだった。
動かない目が俺を見ている。
所詮、あなたは無力なのだ。
その目はそう言っていた。
何もできない。何も変えられない。
ぼくがどれほど苦しみ叫ぼうとも助けてくれなかった多くの大人と同じように、あなたは永久にぼくを助けられない。
その証拠に、今、あなたはぼくを殴った。自分が納得できないもの、力が及ばないものを見せると攻撃してくる。あなたも他の人間と変わらないんだ。
静かにこちらを見つめ返す、黒曜石の瞳。
俺は立ち竦んで、右手のひりひりする熱さを左手で包んだ。
同じ声を胸の内に聞きながら、なのに後悔ではなく、別の何かに引っ掛かって混乱している自分を感じた。
何だろう。
何かがどこかおかしい気がする。
俺は本当にそう、思ったのだろうか。
周一郎が人の好意を無にして、俺の存在を認めなかったようなことを言うから、自分のプライドを守るために周一郎の頬を叩いたのだろうか。
『でも、それは当然じゃないか』
別の声がした。
『お前は周一郎を大切に扱おうとした。巻き込まれなくてもいいことに首を突っ込み、銃口を突きつけられるようなことになったのも、周一郎を心配したせいだ』
……なるほど。
『誠意と思いやりを裏切り踏みにじり、あまつさえ、全ては自分の計算通りで、お前の気持ちなんか関係ないと言い切った相手に、怒りを感じるのは当然じゃないか』
………確かに。
確かにそうだ。
だが。
……だが。
「帰る」
俺はぽつんと言って、向きを変えた。
周一郎が静かに頷く。何も言わずに、部屋を出ていく俺を、ひどく透明な目で見つめている、そう感じた。
振り返る。
今度は周一郎は目を逸らさない。
まっすぐに見つめ返す目。
妙に悲しげな優しげな、目。
それは、いつか、屋敷を出て行く時に窓辺で見送っていた気配と同じものだ。
「……」
だが、何も言わない。
俺も何も言わずに、さっさと部屋を出た。
「……なんだ?」
ドアを閉めてから、立ち止まって気づく。
この奇妙な違和感は、たびたび感じたものとそっくりだ。
確かに目の前で起こっていることなのに、その後ろに何かわからぬ、けれども、ひどく何かとずれて辻褄の合わないものが積んである、そんな感じ。
そして、その違和感は正しかったのだと、今の今、周一郎自身が証明してくれたのではなかったのか。
全てはお芝居。
出来事の裏にある、辛くて苦しいものを覆うためのもの、自分の傷を守るために作られた、大掛かりで、けど単純なお芝居でしかないんだと。
俺は振り返った。
俺と話しながら、周一郎は何度も目を逸らせた。
指先で薔薇を弄び、いつの間にか傷だらけになっていた。
あれは目に見えない真実、聞こえないことばではなかったのか?
何を隠している?
何に傷ついている?
どうして俺を遠ざけようとする?
それらすべてを、もう一度尋ねたかった。
けれども、ドアは閉まっていた。
それを無理に押し開けることは、今の俺には出来なかった。再び中に入れても、周一郎のあの瞳に拒まれると、逆に傷つけてしまうような気さえした。
「だめだなあ、俺って」
俺は少しためらってから、周一郎の病室から立ち去った。




