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「わ!」
いつの間にか、正面に銀色の盆を支えた高野が立っていた。温かな紅茶の薫り。甘いケーキの匂い。空っぽの腹が両手を上げて降参する。
「どうぞ、お座りください」
「は、あの、えーと……どうも」
しかたなしに青灰色の小猫をつまみ上げて抱き、ソファに腰掛ける。
「うへ…」
こんなソファは初めて座った。ふんわりと尻を中心に全身深く沈んでしまい、動くとますます埋まっていくようなソファにじたばたする。
「み、み、み」
俺が身動きするのにきつく抱き込まれて苦しかったのか、小猫は必死に俺にしがみつく。
「あ、すまんすまん」
何とか腰を落ち着けて小猫に謝り、頭を撫でてやると、
「よくそんなのを抱けるな」
山根がジャケットをかき合わせて、もがく俺の腕の猫から何とか遠ざかろうとしながら言った。
「そいつは、さっき僕に襲い掛かってきたんだぞ」
もう少しで「この俺様に」とまで言いそうな不愉快そうな口調で唸り、顔をしかめる。
「ほー」
それは気持ちいい。
「あんたが嫌いなんだろうよ」
にやにやして応じた。
「野性は野性を好むのさ」
山根がふふんと笑って応酬する。
「にゃ~お~ん…」
唐突に、真夜中の寺の鐘の音を思わせるような声で小猫が鳴いた。ペロリと出したざらざらの桃色の舌でゆっくりと口の周囲を舐め、それからキュッキュッと鼻にしわを寄せ、光る白い牙を見せる。
「うわっ」
山根は一気に青ざめ、ぎくっとしたように身を引いた。
「何だよ、そんな怖がるような………あ」
そういえば。
「そうかー、おまえ、猫嫌いだったよなあ」
思い出した。大学に紛れ込んできた猫に追いかけられて逃げ回っていたとかいう噂があった。それがその時付き合っていた彼女の飼い猫で、破綻の原因は山根の浮気じゃなくて、猫のせいだったんじゃないかと言う話も。
「そうかそうかー」
「おい」
「山根くんは、こぉんな可愛い子と遊びたくて仕方がないってかー」
猫を抱いていた手から力を抜く。むずむずと小猫は体を動かした。鼠とか動くものに飛びかかりたい、そんな感じのうずうず感だ。察した山根が顔を引き攣らせる。
「な何を」
「こちとら、いつもあぶれてんのは、お前のせいなんだぞ」
二股三股、時には四角関係にまで縺れ込みやがって。
俺はつんつんと猫の頭をつついた。
「山根くんがお呼びだそうだ」
「にゃ~ん」
「ひええええ~っ」
山根が身をすくめるのと同時に、猫は空を飛んだ。
「わあっ、よせ、よせ、よしてくれっっ」
隣でドタバタが始まるのを無視して、俺はテーブルに載せられたケーキと紅茶に手をつけた。つやつやのいちごショート。小ぶりなのが残念だ。紅茶もなんならポットごとくれれば良かったのに。
小猫に多少傷めつけられたところで、ピカピカ山根には叶うまい。どうせ雇ってはもらえないなら気取ってるより、空腹を満たしておくほうがいい。ついでだから、ラーメンライスの出前とか頼んでくれないだろうか。ステーキでもいいが。
ケーキは上品な甘さだった。いちごはよく熟れていた。紅茶は苦くないのに飲んだことがないほど薫りが高くて、旨かった。
それぞれに質は十分高かったが、いかんせん、量が圧倒的に足りない。
ちらりと隣の皿を見る。
山根はとても忙しそうだから、しばらくお茶してる暇はないんじゃないだろうか。いや、ないだろう、きっと。
「おい山根、ケーキは食わないだろ、くれよな。ここんとこ食ってないんだ」
「!!!」
訳のわからぬ喚き声を肯定と聞いて、俺は山根のケーキも平らげた。
「はあ…少しは人心地ついたよなあ」
のんびりと、今度は山根の紅茶を啜る。
外の風の冷たさを忘れそうだ。暖かな部屋、銀色に磨かれたスプーン。
美しいティーカップを取り上げて眺める。白地に紺色のよく見るカップだが、スーパーの百円均一で積まれているのと細やかな図柄が違う感じだ。きっとさぞかし高いんだろう。スプーンだって、本物の銀かも知れない。
「いいねえ、まさに御貴族さまだ」
くすくすくす、と軽くて細い笑い声が響いた。
振り向く俺の視界に、戸口に立っている17、8の男が飛び込んだ。中央やや右よりで七三に分けた首あたりまでの短い髪、白いカッターシャツにベスト付きのダークスーツ、暗い色のネクタイ、目元に濃いサングラス。軽く曲げた指先で口元を押さえる仕草が嫌みに見えないって、どういう育ちしてんだろう。
何だか地獄の門番みたいにかっちりしてうっとうしい格好、そのくせ妙に優雅な動きでするすると近づいてくる。
「おいで、ルト」
「にゃあぅ」
小猫が甘えた声を上げて山根への『じゃれかかり』を止め、少年の足下に走り寄る。それをまた、絵になるぐらい乱れのない滑らかな一動作で身を屈め抱き上げて、少年はソファに腰を降ろす。
「あなたがたですか」
外見よりはるかに大人びた声音だった。皮肉な笑みを含みながら、
「ぼくの遊び相手を志願してくれるのは」
ああなるほど、こいつね。
俺は納得する。
こいつの『遊び相手』って、確かに見るからに面倒そうじゃないか。
そもそも、何だよこの目鼻立ち。よく美形美形と言われるが、こいつのは陶器細工みたいな端整さだ。雛人形? ビスクドール? 青春象徴のにきびもないし、無精髭も生やしたことがないって顔、皮膚一枚捲ると生身とは違う素材が出て来てもおかしくなさそうな血の通わなさ。
「失敬じゃないか!」
よほど悔しかったのだろう、山根はプライドをかなぐり捨てたキィキィ声で喚いた。
「その猫は、僕の…」
「失礼は謝ります」
ヒステリックな山根のことばにも平然と応じて、柔らかく少年は笑った。
「お客様が嬉しかったんでしょう。人なつこい猫ですから」
「人なつこっ」
整えた髪をぐしゃぐしゃにされ、顔に切り傷数本作られた山根が、紅潮した顔を強張らせる。歪んだタイピンを神経質に直しながら、息苦しそうに襟元に指を突っ込んで唸った。
「そんなことで済ませるのか」
「失礼いたしました」
少年は微かに会釈した。髪が数本額に落ちかかる、それを指先で戻し、
「どちらの方からでも結構です。自己紹介をしていただけますか?」
にっこりと笑ってみせた。
「ぼくの『遊び相手』になって下さる方のことを知りたいんです」
「よ、よかろう」
山根が一瞬詰まった後、ソファに座ったまま胸を反らせる。
「僕は山根啓一。啓仁大学法学部三年だ。……確かに遊び相手にはいささか不向きかもしれないが、君の人生の良き先輩にはなれると思う」
少年の唇に不可思議な苦笑が漂った。どこか俺達を哀れむような笑みだ。
「先輩? どんなことに対してですか?」
「そ、それは」
山根はまたもや詰まって相手を睨みつけた。
「答える前にサングラスを取って名乗って頂こう。人をテストするなら、それなりの礼儀というものがあるはずだ」
山根特有の逆襲だったが、どうにもこいつ相手では分が悪いんじゃないか? 何だかこいつ、妙だぞ。
俺は口に残っていた紅茶をごくんと呑み下す。
何だろう、この奇妙な違和感。ただの生意気なガキ、というのとはちょっと違う気がするんだが、気のせいか?
山根が迫ったのに怯む様子もなく、相手は淡々とした様子で頷いた。
「わかりました」
少し首を傾げて指を伸ばし、サングラスを丁寧に外す。