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寝室へ続く部屋の床に、若子の着ていた服が乱雑に脱ぎ捨てられている。そればかりか、男物のスラックスも落ちているようだ。
絡みつくような熱い呻き声に、周一郎は部屋の中で何が起こっているのかに気づいた。ルトの感覚は遮断できない。離れた場所で立ち竦んだままでいる主人の、真実を確かめたいという密かな思いに応えて、ルトは声が聞こえてくる寝室の方へ足を忍ばせて近寄っていく。
誰も入ってくるはずがないと思っていたのだろう、寝室へのドアは開いていた。
ルトの低い視界に、雪崩落ちた上掛けが広がっている。見上げると、ベッドの端から白い腕が伸ばされた。巻き付くように、浅黒い男の手が絡み、楽しそうに撫で摩る。
「もう帰ってくるわ」
物憂げな若子の声がした。
「帰りゃしないさ、もう二度とな」
茂が応じた。
庭に立つ周一郎の胸に氷が宿り、瞬時に手足の先まで冷えきった。
「どういうこと?」
「今夜の仕事、それであいつは終わりなんだ」
茂の声は悪意を含んだ呪文のようだ。
「周一郎が掴んだ仕事よ?」
「賢くても子どもは子どもってことだな」
「そう…」
「悲しいか?」
「あなたがいるのに?」
その後は再び忙しい呼吸が始まり、若子の含み笑いはまもなく別の声に変わった。
ルトは主人の動揺を察した。身を翻して夜の街を走り、会合が予定されていた場所へ駆けつける。
だが、全ては遅かった。
大悟は冷たい肉塊となって暗い路地裏に転がっていた。
ルトは大悟の側で哭き叫んだ。悲痛で激しい響きに周囲から人が集まってくるまで、喉の奥に血の味を感じるまで鳴き続けていた。
周一郎はことばを切った。
静かな瞳で薔薇を眺めつつ、指先で花を弄んでいる。
それが『あそこ』だったのか。
俺は白い十字架を思い出した。
あそこで、周一郎は自分のミスで大悟を死なせたのに気づいたのだ。
きっと、ルトさえいなければわからなかった、その真実。
「…」
いつもそうだったのだろうか。
気づかなければ知らないですむだろう、人の心の奥底や物事の隠された裏側を、周一郎はいつもそうやって、見せられ受け入れさせられていたんだろうか。
拒んでも拒んでも、周一郎の能力は事実を暴き、ルトは真実を見せつけて来る。
人がどれほど不誠実か、世界がどれほど汚れているかを、繰り返し繰り返し。
「大悟は、茂とのことに気づいていたにせよ、若子を愛していました。ぼくは、自分の責任を果たさなくてはならなかったんです」
周一郎は茂の性格を熟知していたし、その動きも予想がついた。美華に遺産の件を持ち出されたときも、すぐに背後に動いている相手に気がついた。
朝倉大悟亡き後、茂は巧みに朝倉家を乗っ取ろうとするだろう。それは避けたい、しかし、なまじな手段で引く相手ではない。消すか消されるかしかないのだ。
だが、大悟が守った朝倉家に傷がついては元も子もなくなる。
茂達を葬ると同時に、朝倉家を守るためには、朝倉家以外の人間で、なおかつ朝倉家に有利に働いてくれる者が要る。
「これから起こる数々の事件を、ぼくの側から好意的に見てくれる証言者、が」
周一郎の静かな声が途切れて、どきりとした。
「俺、か?」
一瞬、周一郎は黙った。が、ゆっくりと、
「ええ、でも、とんだミス・キャストになってしまいましたね」
出た、このことば。
「ミス・キャスト?」
「本当は、証言者は、ぼくと朝倉家に有利な証言をしてくれるだけでよかった」
冷めた口調で続ける。
「本当は何が起こっているのかなんて深く考えないで、金さえもらえば安心して、事件が終われば何事もなかったように忘れて、元の自分の世界に戻って行くような。………けれど、あなたは、そうじゃなかった」
褒められているのかけなされているのか、よくわからない。
「……だから、あなたを最大限に利用するしかなかった」
「利用?」
何だ、そりゃ。
「ひょっとして、あの日、俺の所へ転がり込んで来たのも、そうだって言うんじゃないだろうな」
「ある意味ではね」
つい、と周一郎は俺の視線を避けるように目を逸らせた。
「あなたはぼくに同情してくれた。後々、いろいろとやりやすくなりました」
窓からの光を受けた周一郎の横顔は動かない。
「美華さんはぼくを誘惑して仲間に引き入れようとした。ただ、彼女の本当の役目は殺されることだったんです」
殺されることが役目?
俺はぴくりとした。
命を失うことが、役目、だって?
「ぼくが応じないのでヒステリーを起こした美華さんは、追いかけてきてナイフで切りつけてきた。ぼくの怪我に彼女は動揺したんでしょう。襲いかかってきた信雄には抵抗する間もなかったようです」
自分が傷つけた周一郎のことが頭に過って逃げ損ねた、そういう見方はない、と?
「……その信雄も、若子夫人に殺される…」
俺のことばに周一郎は微笑を返した。
魔的な笑みだった。




